ショパンの命日に寄せて

10月17日ショパンが1人静かに亡くなった日です。

姉に看取られたそうですが、亡くなるとは、一人になっていくことではないかと思う。

ショパンについて、思いを馳せていました。

そんなこと、知らないだろう。ショパン。

まあ、いいのです。

好きでいることは、自由ですからね。

さて、

クラシック音楽をさほど聴いていなくても、ショパンの名前は知っている。そんな方結構いらっしゃるはず。(私がそうなんですが……。)

荒くれたお人がおり、ちょうど小さなキーボードがあったので、その方が好きだという曲を弾いたら急に静かになった。どうした?と、思ったら、隣に座って聴いていた。ということがあった。音楽ってそういう威力があるんですよね。

ショパンの曲で、最初に聴いた曲は、なんでしょうか?

私は、『子犬のワルツ』でした。

面白い!!確かに子犬がころころ、走っているみたいだな、と、思いました。ホールでは、円形で走り回って聴いてよい曲だと思います。

しかし、これは、時期的には、ジョルジュサンドとの関係が終わろうとしている頃に作られたものだと推測できます。終わりに向かっているが、終わらせないために作った曲ではないかな。本心が見えないようで、発露されてしまうのが作品です。

何かが終わろうとするときに、作品が生まれるのは、ショパンが過去をふりきって、前に進みたかったからではないかな。

ショパンは、クラシックという範疇をこえているんじゃないかな、と、最近、思います。何度も聴ける、ショパンのポップなところがいいなぁと思います。範疇をこえていける曲が、クラシックとして残っていくのではないかなぁとも思う。

最近、ピアノコンチェルトを何度も聴いていて、ショパン、って、やっぱりポップ、そして。ロックだなぁと、寝落ちする。(こらこら、クラシック)

ショパンを全く知らない状態で聴くと、どんなことが起きるのか、興味があります。

何度でも聴けてしまう曲ってどういうことか、一度でいいと思える曲の違いは何か、昨年、配信で観たコンクールをきっかけにここ1年あまりぼんやり考えています。それは、演奏についても、です。

そのヒントは、クラシック音楽にあるかな、と、聴いています。

クラシックというより、ショパンが好きなんですが、なんで、こんなにショパンに惹かれてしまうのか……。

一つは、ショパンに媒介する人、演奏する人が誰であるかは、とても重要になってくるなと思う。

ショパンが生き抜いた後に残った曲、それは、ショパンが残した手紙であり、メロディーは、演奏する人と聴く人に託されたのだと思う。

「あなた自身が弾けるショパンを弾けばよい。(聴けばよい)」

そんなメッセージをショパンから投げられたように思う。

そのメッセージをキャッチ出来る人はどんな人でしょうね。

少しでもピアノに関わったことがある方、もちろん、弾き続けている方には苦味走るほど、わかることではないかと思いますが、その人にしか弾けないショパン、そんな簡単ではないことです。ショパンは、名曲と難題を残して行きました。

楽しみとして弾くピアノ。

そして、観客を楽しませて、魅了し続ける演奏をすること。

未知や謎となる余白を残しつつ、

「あなたのためだけに」と、ショパンは1人のために弾いている、と、記録が残っています。

「君のために」

というファンタジーとそれを超えたこと、

「あなたとあなた、あなたと誰かを音楽でつなぐ」

もっと、純粋に好きな音楽の素晴らしい世界に誘う。

そこに挑戦できる覚悟のある人だけが、ショパンを継承できるのだと思う。

最近、配信リリースされた

【ピアノ協奏曲 第一番 ホ短調作品11】

YouTubeで映像込みのフルで聴けてしまうんだけれど、

SpotifyやApple musicで聴くとホールの響きが伝わります。演奏は、極私的な手紙のような演奏です。それは、ショパンが生きた頃の原風景を伝えてくれたのではないかと思っている。

クラシックを身近に感じされてくれた指揮者がいる。私にとってのその人は、レナード・バーンスタインでした。

でも、けっして、身近ではありません。永遠の憧れとして、聴いていたいなぁと思う。

マリン・オルソップさんは、レナード・バーンスタインのお弟子さんですね。ショパンが亡くなった日、10月17日生まれの指揮者として、タクトを振っています。譜面を見ずに振れるって、完全に身体に入っているんでしょうね。

身体を感じさせるショパン、これからも、聴いていきたい。昔話をきくように、高祖父、高祖母の話を聴くように。

ファッションは、80年代は、相変わらず人気ですが、肩パッドを外した、緩い肩まわりが2022年の今の流れでしょうね。緩くしなやかに。音楽もそうかな、と、思う。

角野隼斗さん、かてぃんさん。名前と演奏がなかなか一致しなかった。顔もわからなかった。どこでうまれようとも、音楽にたどり着いたことが嬉しい。ただ、日本語で、話が通じる相手かもしれない、ということは、嬉しい。

ショパンの媒介者として、そして、クラシックの範疇をこえて、何かが生まれるんだな、と、期待してしまう。その何かは、何なのか、やっぱりわからない。そのわからなさがいいな、と思う。

ピアノコンチェルトは、コンクールのファイナルで聴けるんじゃないか、と、思っていた。けれども、そうでなくてよかったと思う。

あの時から、一年がたって、

明らかに、今の演奏の方がいいなぁと思う。

その変化を成長と呼んでいいのか、わからない。

それは、私が何かを評価する立場の人間ではないからです。

YouTubeで全部聴けてしまうけれど、盤面として残しておきたい人にとっては、CDのリリースもあるそうだ。

クラシックは、ちょっと……、と躊躇しないで、肩の力を抜いて、聴いてみると、音楽的な視野が広がり、楽しみも増えそうですよ。

個人的には、単純に楽しみたいが、芸術家が育つ世の中がこれからも続くことを願って、ショパンを聴いていたい。そして、新たな何かが生まれることを期待したい。

追記:レナード・バースタインやショパンには、亡くなった方へ敬意を払って、敢えて敬称なし、です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?