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映画『白鍵と黒鍵の間に』に思うこと

美しさってなんだろな、と、考えつつ、観終わって帰ろうとしたら、「かに道楽行っとく?」と、呼び込みみたいなあんちゃんが話していて、映画の続きかと一瞬思った。

映画館に映画を観にいくことから、少し遠ざかっていましたが、主演が池松壮亮さん、だったら、観に行かなきゃ、と、思ってしまった。池松さんの何がよいかと聞かれたら、声ですね。圧倒的な声。俳優さんは、声が印象に残る方は、記憶に残ります。今回、出演されている方たちの声は、どこか、ひび割れているような響きの声だなあと、聴いていて思いました。その声は、ミュージシャンで言えば、音楽ってことかな。

映画は、サイレントで観ても面白いなぁと思うものが、好きだったりします。ですから、この映画、音楽が聴こえ過ぎる映画だったら、どうしようか……と、しどろもどろの足取りで映画館へ辿り着いた。しかし、松丸契さんがサックス奏者の役で出演されている。これは……聴きに行かなくちゃ。と、いつも映画を観にいくテンションではなく、ライブに行くような気分で!……違う、観に行こう、と、思った。音響のエンジニアさんが入っている映画館だったため、音の心地よさは、ありましたが、音楽、ど真ん中の感じは全くなくて、コミカルで、ほんのすこし、泣いてしまう映画だった。

南も博もバンマスも、歌い手も、ピアノ弾きも純粋に音楽を楽しんで聴いてもらいたいんだと、口にはしなくても、南が感情を爆発させるところが、一番好きなシーンです。池松さんが演じる役で、悪や憎しみや悔しさみたいなものが、滲み出てしまう時、哀愁に漂う人間て愛おしいな、と、思います。

南のスタンドかな、こどものうちに見えるお友達的なK助を松丸契さんが、演じている。物語のキーになっているようでした。すみません。先に謝りますが、個人的には、あの髪型はないだろ、と、監督に物申したいところですが、(これを書いている日に、監督ご本人からメッセージが届いていて、怖過ぎて、開いていません。悪口は書いていません。心づもりができたら、読みます。)あえて、あの髪型にメガネなんだろうな、ということ、重々承知しております。

ミュージシャンの時の松丸契さんとは、やっぱり歩き方が違っていて、ふっと出てくる時は、「しゃらんと」に、なんとなくですが、しんどい時に何にも言わずに、さりげなく側にいる友だちみたいな存在で、南や博や物語に出てくる人々にとっての音楽が、K助の存在やK助の醸し出す音楽で表現されているのかな、と観終わった後に思っていました。

昼間の映画館は、空いてるに違いないと、行ってみたら、そうでもなく、南と博のあの日のカクテルは、ノンアルコールに氷が入っていて、むせた。映画館は、図書館みたいな静けさがありつつ、のんびり飲めたりご飯を軽く食べたりもできて、ぷらっと2時間あまりのタイムトラベルを楽しめた。テーブル席のコーヒーショップ的なスペースがあると、一杯のんで、もう一本、観て帰ろうかな、という気持ちになったかも。

終わった後に、時代がよくわかんないな、と、映画館の外のリアルタイムは、2023年のはずなんですが、映画は、一夜のお話。ずいぶんと昔のことのように聴こえた。銀座の街の風景というよりも、銀座の影にある架空の街での出来事で、出口を見失った人は、どのように外へ向かって行けるのか、スイッチするきっかけを見つけようとしている人々の物語かな。もがいたところから、飛び出せるかどうかで見える景色は違う。

音楽で生きる人々に限らず、何かを表現し、その対価をいただくことと、対価のために創作すること、そして、観客の評価には、常に葛藤があるんだろうなぁと思います。

常に今と昔が一夜でぐるぐる巡って交差して、それぞれが感じている心のひだが感じられて、どうするん?どうなる?と、観ていた。

エレベーターやホール。楽屋、限られた内側のこと、外に出れば、屋上から、どこか、わからぬ地底。上を眺めた時に、空が見えない。暗闇過ぎて、途方もない穴に落ちてしまった感覚。

自立の一歩は、自ら歩こうとする時。ピアニストとして南や博が、聴いてもらえる音楽を奏でるために、どんがらがっしゃんな世の中で、もがいて、飛び出して行く情熱が消えなかったのは、なぜなのか。美しさとは、なんなのか。

K助は、消えなかった情熱が引き寄せた美しさかな、とも思う。唯一。雑味のないオブラートに包まれたような柔らかく飲み込まれる音楽がK助のサックスで、どこかで、急につながったり、重なったり、くっついたり。離れたり。

美しい景色を見たければ、美しい山に登ればいいんではないか、と、言っているように聴こえた。

過ぎてしまえば、あっという間の旅路だった。
そんな映画でした。

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