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【試し読み】石田幸丸×鈴木三子 『彼/私/ 』

文学フリマ東京38にて頒布予定の合同誌「Quantum」から、編集部員が二人一組で前後半に分かれて「共作」を行った作品について、前半の一部を試し読みとして公開します。続きはぜひ雑誌をお求めください。


石田幸丸×鈴木三子 『彼/私/ 』


私がカッターで鉛筆を削る音がする。細く、長く、芯を削り出して、天窓から降る灰青色の光にかざす。マルス・ルモグラフの光沢のない黒が、その瞳の縁に溶ける。
彼はコートを脱いで、台に上がった。私がじっとこちらを見ている。
「よろしくお願いします」
彼はポーズをとりはじめる。
おだやかに暖気を吐き出す空調と、加湿器のファンが静かに回る音。制作棟の窓からは、冬枯れの林が見えている。すっかり白くなった狗尾草が風に揺られて、ときおりかさかさと窓を叩く。
「左手このくらいだっけ?」
後ろに引いた左腕を捻りながら、彼は聞いた。
「もうすこし……もう少し掌が天を向くように」
「ん」
目線は固定したまま返事をする。

——二人展の準備はどう?
そう言おうとして、彼は言葉を飲み込んだ。私はすでにひとつの眼になっていた。顔を傾けて、あるいは立ち上がって数歩歩いてみて、回り込んで——測っているのだ。
大胸筋に力を入れて、下がり始めていた左手を上げる。上腕の内旋によって肩峰が前に張り出し、左半身が前傾する。そのモーメントを打ち消すように、こころもち顎を上げる。そのほうが背筋が伸びて見えるし、胸鎖乳突筋が美しく描けるだろうと思った。
人体のことなら、この五年半、研究科の誰よりもよく観察してきた。だからこそ、何をいかに見せるべきかもわかっている。

はじめて絵画として人間を描いたのは、まだ絵を始めたばかりの中学生のころだった。美術部の夏季合宿で、OBがボランティアでモデルを務めてくれた。小柄で筋肉が少なく、話しぶりもおとなしそうな先輩だった。細い腕がのぞくTシャツの袖口はだぶついていた。
椅子に座った固定ポーズで、制作時間は昼休憩を挟んで5時間ほど。しかし描けば描くほど、自分の拙さと相まって、画面がみじめで矮小なものになってゆく気がした。
もっと「絵になる」人を描きたい。
そんな風に思ったことを覚えている。彼自身、まだ絵画というものを、視覚的なイメージを平面上に構成することとしてしか理解できていなかった。
いや、今でもか——。
美術の大学に進学してからも、人体を描き続けてきた。日本画科や彫刻科の授業でもヌードモデルを使った実習があると聞くと、教授に頼んで参加させてもらった。1ポーズ数十秒のクロッキーは何千枚、何万枚と描いた。進級展の制作では必ず人物画を選んだし、美術解剖学の教授の紹介で、他大学の医学部の解剖実習を見学したこともある。
かたちの内奥にあるものを見透し、そのさらに背後にある原理を観ずること、そうしてはじめて、かたちは生命の輪郭をあらわしはじめる、そう信じてきた。しかし、結局、人体を描くということが、人間を描くということがどういうことなのかと問われれば、今でもよく分からない。

——君の描くもの、描こうとしているものが、はたして人体へのフェティシズム以上のものでありうるかどうか、ぼくはずっと見究めようとしてきた……。

博士課程への出願締切が近づくなか、いつも通り研究室へ報告に訪れた日、指導教員はじっと彼を見つめながら言った。

——もちろんフェティシズムを否定するわけではないよ。ではないが、その道はあまりに多くの先人たちがすでに歩んだものだし、結局、そこになにがしかの新しいものを見出し付け加えてゆくためには、やはりそれを超克してゆくほかないのではないか、それを超え出てゆくなにかが絶対的に必要なのではないかと、ぼくは思う……。君が、この五年半に積み上げてきたものの尊さはぼくがいちばん知っている。指導教員として、どこに出しても恥ずかしくない成果だとも思っている。なにより君はまだ若い。同時に、若いからといって時間は決して無限にあるわけでもないということも、君に伝えなければならない。つまり、だからこそ……だからこそ、これからの時間をどう使うか、一度じっくり考えてみたらどうだろう。
いつになく穏やかな恩師のことばを聞きながら、引導を渡されているのだ、と悟ったとき、それでも涙は出なかった。ただ、その厳然と動かしがたい宣告を、ひとつひとつ言葉を選びながら伝えようとしてくれている恩師のやさしさと真摯さとが沁みて、それなのに、もう、どうあっても望んだ道では報いられない、その無力さが静かにしずかに広がっていった。
(続く)


前半:石田幸丸 ISHIDA Yukimaru

一九九〇年九月三〇日生まれ。三重県津市出身。早稲田大学政治経済学部卒業、東京大学大学院総合文化研究科(比較文学比較文化コース)修士課程修了。
二〇一六年より「文藝同人 習作派」として文学フリマに参加。
主な作品に「賓は運命のごとく扉を叩き」(2023)、「天使学」(2022)、「プロメモーリア、塵と炎について」(2021)、「夢の纜」(2019)。

後半:鈴木三子 SUZUKI Mitsuko

一九九二年生まれ。東京都国立市出身。
二〇二三年に文藝同人習作派『筆の海 第五号』に「わたくしごと紙片」を寄稿。
現在学校図書館に勤務。


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