見出し画像

水曜の朝、午前三時


 君はもう随分長くSNSをやってはいるけれど、そんなに多く"ともだち”がいるわけではないよね。確かに過去の一時期には持ち前の社交性を発揮してネット上でまたはリアルなオフ会で多数の人達と交流する機会を持ったりしたけれど。
 多分君はその度、そこに本来の自分とは違う偽りのキャラクターを演じることに疲弊し、時には後悔し、作りかけた砂の城が崩壊して行くことに心底怯えていた。それで体勢を立て直すために電源を切り人と距離を置いてみた。
 不思議なもので電源をOFFにしたことで自然に君のバッテリーは充電され、再びネットの世界に舞い戻ることになる。
 しかし君がそうしている間にもSNSの時計は留まりもせず進んでいて、世の中は変わりつつあることを知るのだった。そしてそれは静かに君を孤立させてしまった。

 例えば、あんなに親しくしていた"ともだち“は今、君のいない世界で別の人生を歩み、新しい人間関係を構築している。笑顔が溢れるスマホの画面からはどこかしら遠い世界のようなものを感じた。
 一歩踏み出せばまた何かが変わり始めてもう一度君もその世界の住人になれる、誰もがそう思うだろう。けど、そうしてみたところで、また同じことを繰り返すだけだと君はそう思い込み、今はただの傍観者でいることで保身しているのだ。
 ただ誤解なきよう書き添えておけば、君はかつて"ともだち”だった人達の今を妬んだり、羨んだりしてる訳ではない。その人の喜びであったり楽しみごとを祝福とまではいかないものの安堵の気持ちを持って眺めているのだった。

 かつて"ともだち“であった人達との関係性が現在、実質"ともだち”でなくなった原因は君にある場合もあれば、相手にあるケースもある。
 Aさんとの場合はおそらく前者であろう。
 以前、熱意あるメッセージを頂いたにも関わらず、それに対して何の返答もしなかったのは他でもない君自身だ。
 ではあの時、君はどう返事をすれば良かったのか、答えは未だに出ない。思えばAさんとは大海の波間をあてなく漂う二艘の小舟のようなもので、本人の意思とは関係なく近付いたり離れたり。今はそれぞれ別の海を漂っている。いや、相手はしっかりとした着実な航海を続けているのだろうが。
 君はAさんに対してはあくまでともだちの枠を超えるほどの情愛を持ちきれていなかった。ここで中途半端な期待を残すような文言で彼を繋ぎ止めておいても、いずれはかつてかの人に抱かせたのと同じ不幸を再び味わせる結果になるのは目に見えていた。そんな思い上がりともとれる判断を君にさせたのは、あの時、人を傷付けたと同時に君自身も大いに傷付いたからだろう。出来ることならもうそんな悲しみには浸りたくない。
 だから君の選んだ返事をしないという選択も結果論として正解だったのではないかと今では思う。SNSの無神経さは本来知りたくもない現在を、または思い出したくない過去を平然とタイムラインに表示させて態々目に触れさすところにある思う。
 君はそれらを複雑なる憂いを持って眺めることになる。いつも、これからも。
 ただAさんに関しては、先にも書いたが祝福とまでは行かなくとも安堵の気持ちを持ってそれを目にしているみたいだね。本心を言えば見たくはない筈だが見てしまう。そしてただAさんの毎日が充実したものであるのなら、それで良かったんだと、君は旧友として自分にそう言い聞かせている。どうかお幸せにと。

 そしてBさんに関して。
 こちらはAさんとは逆のパターン。拒絶されたのは君の方だったね。
 君がBさんに想いを寄せたのはこの軽薄でもあるSNSの世界においては少々重心を傾け過ぎたのではないだろうか?
 一途という言葉があるなら、あの時の君には相応しかったと思う。自分に大切なものだって投げ出しかねない、そんな危うさを内に秘めていたね。
 ただそれは、君がBさんと出逢ったのがネット上のものではなく、直接的な本物の出会いだったからでもあるだろう。
 数多く人のいる憩いの場で各々がお気に入りの相手を見つけて話し合う場、大抵の場合、君はそういうのを苦手としていた。そんな折、ずっと君の傍に寄り添い、つまらない話に笑い、相槌を打ち、時には気の利いた科白を聞かせてくれた、その相手に君は惹かれて行ったんだね。
 その集まりの帰り道、駅まで送ってくれた彼の車の中で君は相手が既婚者であることを知った。その時はそれほどショックは受けなかった筈だ。確か車を降りる頃には、大勢の中にいた親切な人として、笑顔で手を振り別れの挨拶をしてたから。信号が青に変わり雑踏の中を歩き始めてしまえば、振り返ることさえしなかった。それで終わりになるだろうとその時はぼんやり考えていた。
 けれどもそれから、相次いで送られて来たBさんからのメール、その控えめでありながらどこか不必要に心の内側に染み入って来る適切な言葉の選択、器用と不器用の狭間に揺れる不可思議な誘いの文句。何故それらに心惹かれたのか君自身も不思議に思ったことだろう。それが二度目の出会いに繋がり、不覚にも君はBさんという底知れぬ沼に嵌り込んでしまったんだね。
 たとえ既婚者であっても二人でいる時間、相手は君だけのものだった。それは間違いない。深く思い悩みさえしなければ、とても楽しい時間の積み重ねだ。待ち合わせ、笑顔、会話、食事、さり気ない仕草、夜のビル街、並んで歩く、そのうち至極当然に訪れた抱擁の瞬間、求め合う唇、重なり合う肌と肌。成り行きのままさらさらと時は流れた。
 いけないことをしているという意識は微塵もなかった。この都会の片隅で密やかに愛し合う歓び、充実感、そしてサヨナラの場面に訪れるさざ波のような切なさ。何度もそんな朝を迎えた。
 二年半もの間に、積み重ねられた思い出はあまりにも多く、今でもそれに纏わる事柄を目にする度、くらくらと目眩に襲われる。特に二人で出掛けた場所などはテレビやネットで画像を見るだけで複雑な想いにかられてそっとため息をついてしまう。特に夏の一週間をかけてドライブ旅行した東北の山々、白神山地の樹齢四百年というブナの木、下北半島を北上した時、木々に囲まれた一本道の先に見えた黄色い満月。朝日に輝く本州最北端の地。津軽海峡の先に白く雪を被って連なる北海道の山々。
 それらの思い出は君の人生にとってかけがえのない素晴らしい瞬間であった。それは間違いない。たとえ愛を失った今でも、そう信じている。けれども同じ分量だけ辛い気持ちも味わったね。ある駅の待合室で半日Bさんを待ち続け、とうとう逢えずに終わり、疲労と孤独感を抱えたまま帰路についた夜。あの時、優しさと冷たさを併せ持つその沼から這い出せないもどかしさを君は感じていたね。
 別れの理由は君にはわからない。我儘を言い過ぎたのではと、ひたすら自分を責めて悔やんでみたりしたが、それも突然の拒絶から三ヶ月した頃に届いたメールの文面には、「君はなにも悪くない」と。
 その一言は更に君を傷付けた。けれども、ひとつの諦念を感じさせてくれたね。
 ここでもSNSは時に無神経な局面を見せ付ける。”ともだち“の“ともだち”としてBさんの近況を君に教えてくれる。行きつけのスナック、恒例のバーベキューイベント、大勢で写る画像の中に笑顔を浮かべるその人。それを探したくないのに探してしまう君は、いつもやるせなくなる。いっそ心などなくしてしまえばいいのにと思う。
 これら全てを思い出にしてしまえる日は、そんなに遠くは無い筈だよと君に教えてあげたい。
 誰の人生にも紆余曲折は必ずあるのだから。

 最後にCさんについて。
 こちらはまだ日も浅く、現在進行中……、というか、現在停止中だ。失踪中かも知れない。
 記事を出すたび、お互い親しく"いいね”や"スキ”を付け合い、コメント欄を通じて会話を交わしていたけれど、少しづつサイトから遠去かるように足が遠のいて、この一年ほど殆ど音沙汰が無い。
 SNSではよくあることだ。
 君がCさんを想う気持ちは本当に仲の良い親友同士がお互いを見守る眼差しと同じ、穏やかで温かいもの。だけど、それだけではない、Cさんの作品から伝わる感性に記憶の片隅に潜めていたものが動かされる。その揺さぶられる感覚は君の奥深くで共鳴し、素直にその世界観に惹かれてしまう。つまり君はCさんのファンだ。ただそれだけ。単純な話なのかも知れない。
 このサイトの中からCさんの作品を見付け出し深い共感を覚えたのは、多くのネット民の中でも君は一番の存在でないかと自負している。
 その作品について多くの人にも共感して貰いたい気持ちもあるのだが、特に誰かに"お薦め”することなどはしない。
 別にCさんを独占したいと思っている訳ではない。それは確かに多くの人に共感して貰えれば尚更嬉しいだろうけど、静かに見守る立場を保持したいからだ。
 それにどのような小説であってもわかる人にはわかるがわからない人にはわからない。Cさんには人の反応に惑わされず心のまま自由にマイペースで作品創りをして欲しい。それで自然にファンの輪が広がればこの上ないことだが、そんなことはどちらでも構わないことだ。
 もし仮に相手が遠い存在になってしまったとしても、君は変わらずにただひたすら、心の内側で大切に見守っているだけだと思う。彼女が創り出す作品の一ファンとして。
 考えてみると君とCさんとはネット上でのやり取りだけで実際に会ったことは無い。今住んでいる場所も経歴だって大きな隔たりがあるのだ。もちろん年齢さえも。
 ネットでなければ本来は知り合うこともなかった。それがお互いの創り出す作品に共感し合い、少なくとも君はその精神世界において、近しい存在としてCさんを意識していた。それはある意味出逢いであったに違いない。そして、スマホ画面を通して互いに相手の顔を知っている。何度か取り交わしたメールでのやり取りで、ある程度の相手の近況を聞き、日々の生活などを想像することでより身近な存在へと関係性も進化して行った。
 でも時が経ち、今はネットにアクセスする回数も減り、少しずつ互いの距離も離れてしまい、このままフェードアウトしてしまう。そんな予感。
 やはりこれはSNSの世界ではよくある話だ。いや、ネット以外の世界でも同じかもしれないね。
 Cさんが自分のページを更新しなくなって一年以上が経ち、君は個人的なメールを送信することさえ躊躇っているようだね。Cさんに何かあったのか何もないのか、それは分からない。けれど、いつ戻られても以前と変わらぬ立ち位置で接したい。君はそう考えて、このSNSの世界に居続けている。
 今、または未来、もしもCさんがこの文章を目にすることがあるとするならば、君はこんなことをを伝えたいと思っているはず。


 以前あなたから好きな小説として教えて頂いて読んだ蓮見圭一氏作の『水曜の朝、午前三時』をこの文章のタイトルにし、お返しに平野啓一郎氏の小説『マチネの終わりに』をお薦めしたいなと思っています。人と人とが運命の出逢いをし、図らずも逢えない年月を過ごし、再会を果たすまでの物語、それを。


 もうすぐ夜明けを迎えるこの瞬間、安らかな寝息を立てているであろう君の新しい一日が幸福であることを、心から祈ってやまない。
 水曜の朝、午前三時。この時に。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?