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くちびるの誘惑 1.2.3話


 1

 カクテルグラスの泡が弾けて虚飾の祝賀会が始まった。ここに集まる人々は各界を代表する著名人、権力者、大手企業の役員達が主である。
 新人作家の登竜門であるA賞が発表されるや否や、各メディアでその詳細が一部始終紹介され、いっときその受賞者は時代の寵児となる。それほどA賞の歴史と格式は高く偉大なものである。これまでに多くの作家を輩出し、現代の文学者達の多くが歴代の受賞者としてそこに名を連ねる。A賞作家としての肩書は作家としての箔をつけ、ある意味それは一つのブランドとも言える。そのため、それを目指して日夜精進し格闘する小説書きはプロアマを問わず多数存在する。
 一方で一時的に脚光を浴びたもののその後の作家活動が順調に進まず消えてしまった者達も実は一定数に上る。勿論、受賞しただけでも大成功の内ではあるのだが、もてはやされた瞬間からの落差は非常に大きく、現在はアルファ出版の編集者としてこの祝賀会に出席している古賀祐二こがゆうじも過去にはその当事者としてステージに立った経験がある。ただし、彼の場合はA賞ではなく、同時発表されるN賞だったわけだが、その受賞価値は決して引けを取らない。
 一般的にA賞は文学作品、N賞は広くエンターテイメント作品が選ばれるという規定だと言われるが、古賀祐二が執筆した『永遠の微熱』は本人的には純文学作品のつもりで書いた。だからと言って何もN賞を不満に思ったことなどはないのだが、それ以降、何故か読者を満足させられる作品を上梓することが出来なかった。
 古賀祐二が作家活動を諦めてアルファ出版に就職したのはおよそ十年前のことだ。今になってみると名刺を差し出したところで彼の名前に覚えがある者は数少ない。いたとしたらそれなりの年配の人かマニアックな人物に限定される。毎年行われるこの受賞祝賀会を虚飾のパーティーだと心の内で揶揄してしまうのもかつてはにこやかな笑顔で握手を交わした著名人や権力者達がほぼ古賀のことを記憶していないことに落胆せずにはいられなかったからだ。
 うっかりしていると給仕係に間違われ、飲み干した空のカクテルグラスを手渡されるハメになる。
 そんなしらけ切った気分のまま古賀は壇上で上気した顔色で受賞スピーチをする若い作家をぼんやりと眺めていた。もうすでに何度かテレビや週刊誌で見覚えのある爽やか系イケメンである。
逢阪遥人あいさかはるとという名前も何度か聞いていた。受賞作品は読んでいない。古賀は現在は主にミステリー作家を中心に編集者としての仕事をしている。文学とは少し縁遠くなってしまった。
 スピーチを終えた若い作家は会場に詰め掛けた多くの人達と和かに挨拶をして周り、期待と羨望に満ち溢れたライトの中で笑顔を振り撒いている。
 やがてそれは古賀のいるテーブルにも近付いて来た。向こうは古賀を知る由もない。ありきたりの挨拶で、本日はどうもとか、忙しい中わざわざとか、顔面に張り付けたままの微笑で、軽くお辞儀をした。古賀も飲みかけのグラスをテーブルに置いて社交辞令を述べた後、名刺を差し出し身分を示し、軽く握手を交わした。逢阪が思いの外、冷たい手をしていたのが古賀には印象的であった。
 ふと見ると逢阪の背後に寄り添うようにして、艶やかなショッキングピンクのパーティドレスに身を包んだ女性が目についた。ブロンドに染めた髪を肩の辺りでカールさせ、いくつかのアクセサリー類を身に纏い、大きな瞳の睫毛は長く頬の辺りにはその陰影が浮かび小悪魔的に見える。鼻筋は定規で計ったかのように真っ直ぐに通り鼻腔は小さめ。その下に形の良い唇に紅いルージュとグロスが塗られ綺麗な歯並びを覗かせていた。
 古賀はその女性が出版社の人間でないことをすぐに察した。担当編集者ならこういう場合は大抵スーツ姿で来場するものなのだ。つまりその女性は逢阪夫人であるか、または婚約者、もしくは恋人であるかと推測される。だが、改めてここでその関係性を問う訳にも行かず、黙って会釈してその場をやり過ごした。
 それにしてもと古賀は思う。逢阪遥人はイケメンには違いないが、あまりにも爽やかな好青年な印象を与える。それに引き換え、あの女性は艶やか過ぎて、二人が並んだ姿は何だか釣り合いが取れない妙な気分がした。
 しかし、そんなことは相手に言わせれば大きなお世話で、普段の逢阪とその女性を知る訳でもないので、そういう些細な違和感はその場限りのもので直ぐに忘れてしまう物事のはずである。その時はそう思った。
 それが後に、古賀を悩ます大きな事柄に発展するとは、その時、思いもしなかった。
 その女性、後に名を知ることになるのだが、十和田彩花とわだあやかとの最初の出会いであった。
 そして、その時、祝賀会場の片隅で栄光のライトの下を歩く、二人の姿をじっと見つめていたもう一人の人物がいたことに古賀祐二はまるで気が付いていなかった。

 2

 杉下治郎すぎしたじろうは新宿駅西口から歩いて十分程の雑多なテナントビルにあるバー『BUZZ』のカウンター席でくだをまいていた。この店、この場所は治郎の指定席であり、週に三、四日はここで浴びるように酒を呑んでいる。
 大体が一人でぶらりとやって来ては決して陽気とは言えない酒を店の営業時間がラストになるまで居座り続ける。あまり人付き合いの得意ではない彼は孤独を愛してる訳でもないが、大勢で賑やかに過ごすことを嫌った。カウンター内にいる熟年のマスターもそれを判っていて、治郎から話しかけられない限りそっとしておくのが通常であった。
 しかし、その夜の彼はいつもと少し様子が違っていた。浴びる程酒を呑むのはいつものことだが、酒に呑まれることはない。静かに難しい顔をして何か考え事をしながらカランコロンと水割りのグラスを傾ける、そんな男がこの日は何度も大きなため息をついては言葉にならない呻き声を出し、何やら口の中でぶつぶつ呟いては時折片手を伸ばしカウンターに顔を伏せたりしている。
 元々素行もそんなに良くなく、長く伸ばした総髪を頭の後ろでまとめて束ね、口の周りはうっすらと無精髭を生やしている。服装にも割りかし無頓着で、そんなに綺麗とも言えないデニムの上下やパーカーなどをよく身に纏っている。それが珍しく今夜はネクタイこそしていないものの一応ジャケット姿でしゃんとすればそこそこ人前に出ても上等な格好をしていた。酔ってさえいなければ割りかし精悍な顔立ちでなかなかのいい男である。
 恰幅も良く温和なマスターは治郎がどういう職業をしている人かは知らない。ここでは仕事の話やプライベートに踏み込んだ会話をしないことをモットーとしている。だが、その日の杉下治郎の様子が甚だしく尋常ではなかったため、水割りをお代わりに差し出したついでに、それとはなしに、声をかけてみた。
「どうかしましたか? 今夜はやけにペースが早いですよ」
 杉下は一瞬首を傾げたが、ややあってこんなことを言い出した。
「世の中はよぉ、おかしかないか? 金のある奴や、名声を得た者だけがチヤホヤされやがって」
 聞き取りにくい声ではあったが、マスターは穏やかにまあまあと相槌を打つように微笑んだ。察するに何かに嫉妬したか、なかなか上手く行かない自分自身に腹を立てているようだ。仕方がない、どんな商売でも上手く行く者は一握りだ。ここ新宿二丁目の裏通りはそんなうらぶれた男達が鬱憤を晴らすための場所だ。あまり深入りはしないでおこう、そう嗜んだマスターはそっと男から距離を取ろうと定位置に下がろうとした。それを追いかけるように再び男の声が聞こえた。
「あのオンナは、ひと月前までオレのオンナだったんだ。それが、あんな腑抜けた野郎と……」
 何か複雑な事情があるようだ。さらに愚痴めいた杉下の呟きはグタグタと続く。
「奴の短編、読んだけどよぉ、全く、くだらねぇ、あれでよく、あんな……、どう考えても才能はオレの方が上だぜ、あいつは今がピークで、これから先は、落ち目になるのが、見えてるぜ」
 呟きは途切れ途切れの寝言のように留まることなく続いて、嘲笑なのか自虐なのか判別が付かないクックという笑い声が漏れて薄暗い店内にさざなみを打った。
 やれやれ、マスターは内心、愛想を尽かした。今夜は長くなりそうだ。

 翌日、杉下治郎が目覚めたのはもうとっくに昼の十二時を回った頃だった。昨夜はA賞祝賀会に顔を出した後、新宿に向かい『BUZZ』でしこたま酒を煽った。さて、どうやって家に帰り着いたものだろう? 記憶は途絶えていた。今は見慣れた自室のベッド兼ソファの上に横たわっている。
 書き物机の上には原稿用紙が数枚、書きかけの状態で散らかっている。
 近頃大抵の作家はパソコンを使って小説などの執筆をするものだが、杉下は原稿用紙に手書きしている。
 それは以前パソコンで執筆していたかなりの量の文章を手違いで一瞬にして消去してしまった、そんな過去があるからだ。一度消してしまった文章をもう一度再現することは殆ど不可能であり、また一から書き直すにも気力体力を共に失い、暫くは呆然として何も手に付かない状況になる。
 その件に関してはなんとか持ち直し、原稿の締切等、重要な問題は乗り切ったのだが、それからはパソコンを使わず、手書きの原稿用紙を利用しているのだ。
 それはともかく、スマホは無事に手元にあるのかと気になって辺りを見回してみると、ソファの枕元の下に転がっているのが見えた。
 良かった。これを紛失してしまうとかなり厄介なことになる。パソコンでの執筆は手書きに変更したけれど、スマホだけは他に代わるものが見当たらない。
 手に取って画面を確認してみると、担当の編集者からの着信が何件か入っていた。
 おかしいな。締切はまだ少し先のはずだが、小首を傾げながらリダイヤルしようとして、何かが閃くのをを感じて、待てよと手を止めた。
 それから数分後、杉下はスマホのリダイヤルボタンを押して、目的の相手を呼び出した。
「あ、コガさん?」
 相手の返事を聞いて、杉下はニヤリと微笑んだ。

 3

 アルファ出版から刊行している週刊誌『週刊アルファ』は発刊当初こそ政財界をネタにした社説等が主流であったが、ここ数年、芸能スキャンダルや政治家の汚職、大企業からの献金などの暴露記事を中心にその売上総数を猛烈な勢いで増やしていた。
 そのターゲットは各界に及び、身に覚えのある後ろ暗い有名人達はその攻撃を『アルファ砲』などと称し戦々恐々としていた。
 さて、その日の週刊アルファでは次の様な見出しが新聞広告や電車の中吊りなどでセンセーショナルな話題を世間の人々に提供していた。
『新進気鋭のA賞作家の婚約者・十和田彩花(仮名29歳)は男を渡り歩く稀代の悪女だった!』さらには、『政界の黒幕との関係も浮上!』とまで。
 それらがA賞作家・逢阪遥人に寄り添う十和田彩花(一応目隠しの黒線あり)の全身像が写り込む画像と共に衆目に晒されていた。
 ここでその内容の主要部分をかいつまんでご紹介すると、彩花が逢阪と婚約する以前に交際していたとされる歴代の著名人の氏名が時系列順に一覧されている。そこには大物芸能人、某大手事務所の現役アイドル、若手実力派の野球選手、イケメンで超が付く程の人気サッカー選手等、約十名程が列記されていた。しかもその半数は不倫であり、数枚の証拠写真、あるいは相手とのラインのやりとりがそのまま写し取られて掲載されている。
 これらは各界に激震を起こさせ、その日のワイドショーは日がな一日その話題について取り上げ、驚きを隠せない司会者やコメンテーター達が口角泡を飛ばせて激論を繰り返した。各メディアその他の報道陣達は一斉に関係者のコメントを取ろうと各社事務所前の道路に張り込み、出社する社員・関係者に盛んにマイクを突き出した。
 勿論、どこの芸能事務所、球団等も寝耳に水のようなその大津波に対応しきれず、全てノーコメントで押し切っていた。
 さらに一番大きな暴露記事となったのが、政界の黒幕との関係についての記事であった。その黒幕とは元財務大臣を歴任した蔵原文三くらはらぶんぞうだと推測された。
 何故ならば十和田彩花が二十代半ばから暮らす高輪にあるタワーマンションの部屋の名義人は偽名であることが判明し、それを辿って行くとある人物に行きつく、それは蔵原元財務大臣の長年秘書を務めた男になる。秘書の男が自らタワーマンションのオーナーになれるとも考えられず、それはおそらく元大臣の差し金によるものであろうと推察された。当週刊アルファの紙面ではK元財務大臣と記すのみだが、それは蔵原文三以外に該当する者がいないのである。
 当然、マスコミ達も蔵原元大臣を直撃した。しかし、老齢なる連戦練磨の強者は柳に風の如く、我関せずとばかり涼しい顔で沈黙を守り通した。押し寄せる報道陣達をものともせず闊歩する蔵原であったが、礼儀を知らぬ若いリポーターが目の前を遮るように身を乗り出すと、突如「道を空けなさい!」と恫喝してギロリと相手を睨み付け周囲を黙らせた。
 蔵原に関してこの件は憶測の域を出ることがなく、彩花との証拠めいた繋がりを示すものは何一つ見つけられずにいた。また、当該の秘書もすでに高齢であり、現在は重病を患い入院中のため、インタビューひとつ出来ずにいた。
 尚、蔵原元大臣には大企業からの献金疑惑やら某宗教団体が後援会に存在するなどといった真偽の程が定かでない疑惑めいた物事が渦巻いており、ネット上では先の首相暗殺事件でも裏で糸を引いていたのではないかとの戯言が飛び交う始末である。しかし、これらは全て証拠なきもの、アルファ出版側でも、下手に手を出せば命取りになり兼ねない危険性も充分にあり、決定的な証拠となるものを握るまでは静観する方針を決めていた。

 さてそんな週刊アルファを手に取って一読した十和田彩花はフンとそっぽを向いて部屋の隅にその雑誌を投げつけた。何しろ自身の居住するマンションの前には人だかりが出来てしまい。迂闊に外出もできない状態になっていた。その週刊誌に関しては近くの書店に電話して朝早く持って来させたのだ。
 婚約者の逢阪遥人とは午前中に二度ほど直電で会話をした。逢阪の方でも相当なマスコミが軒先にたむろしているらしく、あたふたしていた。それでも彩花は謝罪の言葉ひとつ投げかける訳でもなく、「そう、三日もすればいなくなるでしょ」とうそぶいた。
 ファッションデザイナーとしての仕事を持つ彩花は現在フリーでいくつかのアパレル企業と契約している。騒動の間は暫く出社出来そうにないため、クライアント先とはリモートで打ち合わせ等を行うことに決めた。ショッピングや日用品の買い出しなどはネットで間に合わせられたし、買い置きしてストックしているものが数多くあったので一週間や二週間くらいは生活に支障が出ることもないだろうと見繕った。
 残念に思うのは夜間にどこかのパブやらバーなどに出掛けられないことだ。一日中自室に閉じこもっているのもかなりストレスのたまるものだ。それでなくても彩花は退屈を一番嫌い、常に刺激を浴びていないとイライラしてしまうタチなのだ。
 それでも世間では連日十和田彩花を魔性の女呼ばわりしてネットやテレビ等を騒がせているのは、ある意味心地良かった。有る事無い事勝手な物言いをされるのは少々気に食わなかったが、今のこの状況を心のどこかで楽しんでいるのも事実である。
 しかし、おそらく出版社に過去の恋愛沙汰を暴露したのはおそらくあの男であろうと当たりを付けていた。そう思うと許せない。いつかきっと近いうちにそれ相当の反撃を喰らわせてやろうと内心思うのであった。
 暴露記事の発売から四日が経った。都内では別の大きな事件やニュースなどが日々当然の如く湧き上がっていたので、そろそろ彩花の住むマンションの前にもマスコミ関連の人影は以前のそれとは格段に少なくなった。
 そんな時、彩花はふと思い立ち、バッグの中から一枚の紙切れを取り出した。それは逢阪のA賞受賞の祝賀会に出席した時に逢阪が受け取った出版社の社員の名刺である。あの時、彩花は逢阪からその名刺をさり気なく受け取り自分のバッグに仕舞い込んでおいたのだ。
 あれから数日経ったが、名刺に書かれた名前を黙読すると、脳内にぼんやりとその時の人物の顔が思い浮かんで来る。
 彩花はスマホを手に持つと名刺に書かれた携帯電話の番号をタッチした。


続く



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