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終わりの始まり


 ドアを開け、多少の驚きの表情を示したまま、両者は無言のまま互いを観察した。
 ややあって先に言葉を発したのは相手の方だった。「入りなさい」掠れたようなくぐもった声が聞こえた。思ったより歳を取っている、物腰からそう判断した。
 山荘の中は意外に広く玄関から奥に向かって廊下が続いていた。靴を脱ぐのかどうか戸惑っていたら老人は振り返って、そのままでと促した。
 丸太小屋に見えた山荘はやはり丸太を積み重ねて出来ているようで内部は全面木で覆い尽くされていた。廊下を進む右手に小さなドアがいくつか並ぶ、おそらくトイレ洗面所の類だろう。突き当たりは浴室かもしれない。
 老人は一番奥の左側のドアを開けそこに入るよう手で合図した。
 おずおずと中に入るとがらんどうの寒々とした部屋がそこにあった。奥に暖炉があるものの火はつけられていなかったので、何も無い殺風景な空間に立たされた。
「すまないね。何も無くて、不要な荷物を全部処分したらこうなった。待っててくれ今珈琲でも淹れるからね」
 老人は部屋を出てドアを閉めた。キッチンへと向かったようだ。はて、老人はこちらを誰だか知っているのだろうか? そんな疑問がふと湧いた。

 座る場所も見つけられず部屋の中に立ち尽くす。床には何も置かれていない。とにかく家具という家具が何も無い。正面に大きな窓があるが木製の雨戸で閉ざされている。その横にただひとつ、棚が壁木に取り付けられており書物が数冊並んでいる。引き込まれるように近付いてみると、四字熟語のような漢字が縦に並びその下に全集と書かれている。一冊が辞書のような分厚さでそれらが一巻から八巻まで並んでいる。相当な分量だ。
 マグカップを手に老人が部屋に戻って来た。冷たい部屋に珈琲のいい香りが漂った。
「まあどこでも、適当に座りなさい」穏やかにそう言いつつ床に直接カップを置いた。
 これはあなたの作品ですかと、並んだ全集を指差してみる。
 老人は笑ったような困ったような表情を作り「それだけはどうしても捨てられなくてね」と言い訳した。

 いただきますと床に腰を下ろしマグカップを手に取るとほのかな暖かさが両手から伝わって来た。ブルーマウンテンだろうか、ほのぼのと広がる珈琲の香りを味わいつつ熱い液体を一口啜る。苦味と酸味が混ざり合い口中に広がる。それらを堪能しつつ喉の奥に流し込む。身体の奥の方から熱さが伝わり体温を上げる。それだけで生き返った気分になる。
 老人はそうそうという顔をして、暖炉に火をつけようとこちらに背を向けてごそごそする。薪を組み直し、丸めた紙にマッチで火をつけそれを木の下に押し込む。鍋つかみのような手袋を嵌め鉄製の長い棒で暖炉の中をかき回す。小さかった火は徐々に大きく変化していった。
 それを見ながら珈琲を飲んでいると何故だか次第に落ち着いて安らかな気分になって、あれ? これはなんだか遠い昔に味わった記憶に似ているなと思えて不思議な感覚になった。
 それはともあれ、どんな小説を書いているのですかと暖炉の作業を終えた老人に尋ねてみた。
「いや、小説とはおこがましい、ただの駄文ですよ」
 でもこれはちゃんとした大手の出版社から刊行されている。全集が出版されているとなれば偉大な作家としか思えない。
 どういうジャンルですか? ミステリとか恋愛とか、もしくは純文学的な……。
 老人……いや老作家は自重気味に笑う。
「ジャンルなんてありませんよ。生きて来た道のりですから、恋愛も含めて、事件、冒険、恐怖、空想、理想、一人の人間が思い描いた心の中の話です」
 なるほど、と思いながら、あっそうだとカエル君から預かった白い箱を差し出す。これをあなたにお渡しするようにとお持ちしました。
「ほう……」
 老作家は珍しい生物を見るような目でそれを見つめて、そっと蓋を開いた。
 中に入っていたものは数枚の写真と何かしらの手紙。それに寄木細工のような小さな箱。
 それらひとつひとつを手に取り、ゆっくりと目にした後、彼はこちらにそれを手渡した。
 一枚目の写真はどこか白い壁の建物、明治か大正時代を思わせる古風な建築物だ。入口の看板に『宮村医院』と書かれている。三角形の緑色の屋根のてっぺんには風見鶏が設置されていた。それがどこであるかは全く知らない。次の一枚は若い女性一人を写した写真。照れ臭そうに微笑む。美人というより可愛らしいタイプの女性、どこかの庭で撮影したスナップでその色合いからは古い写真だと思われる。 
 最後の写真は神社の境内みたいなところで、母娘と思われる二人が無表情に並んでじっとこちらを見つめて佇んでいる。幸せなのか不幸なのかよく分からない印象を受ける。母親は先程の写真の若い女性のようにも見れるが判然としない。
 こちらが写真を見ている間に老作家は封筒から便箋を取り出し熱心に読み耽っていた。その途中で何度か虚空に目をやり深いため息を吐く。
 読み終わるとそれをもう一度封筒にしまい直し、今度はこちらに渡さずに自分の懐にしまった。
 これらの写真は全部、先生のご存知なものでしょうか? そう質問してみたもののそれに対する返事は返って来なかった。

「これは、何でしょうね?」と最後に残った寄木細工の箱をカラカラと振ってみる。何か小さな硬い物が入っているみたいだ。
 老作家はそれを開けてみようと手に力を込め、あちこち押したりずらせようと試みたが、箱はきっちりと組み合わされたまま、微動だにしなかった。
 やがて自分で開けることを諦めた彼はそれをこちらに手渡した。
 寄木細工の箱は頑なまでに硬く、ピクリとも動きはしなかった。とうとう根負けして再び白い箱の中へ戻して置いた。

 こんな辺鄙な森の中にある山荘で初めて会った二人が寄木細工の箱を開けようと格闘している、その構図を想像すると何かしら奇妙で可笑しく、声には出さず笑ってしまう。一体我々は何をやっているのだろうか?
 老作家ももうそれらに執着しないと決めたらしく、冷めかけてしまった珈琲を一口啜ると、
「さて、時に、君も小説をお書きになるのでしたね」
と話題を変えた。
 そら来た! いよいよ本題の始まりだ。
 そう思うと突然、全身に緊張が走り、顔が強張って来た。



(長編小説『カエル男との旅』より抜粋)

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