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目醒めの刻


 暖かく白い光が目の前で踊っていた。わたしはくるくる回る走馬灯のようなものの中にいた。時間の感覚が失われ、今が夜なのか朝なのか、まるで見当がつかなかった。
 うっすらと目を開けてくぐもった声で唸ってみると、気が付きましたか? と誰かが近づいて来た。咄嗟に身を固くして両手で胸を抱きかかえようとしたら何かチューブ状のもので繋がれているみたいで耳の近くでガチャガチャと機械的な音がした。
 あ、動かないで、そう言われたわたしはどうやら簡易ベッドのようなものに括りつけられ横たわっていたみたいだ。薄くて柔らかい寝具の下で見覚えのないガウンか何かに身を包み、右の手首から肘の辺りに分厚く包帯が巻かれて固定されている。左腕には針のついたチューブが突き刺さり、それが寝台の横に立てられた金属の棒に吊るされたビニールの袋状のものに接続されていて、半透明の液体がポトリポトリと管の中を滴り落ちているのが見える。
 それがおそらく点滴と呼ばれるものであるということはすぐに察しがついた。声をかけて近付いて来た人たちも皆白衣に身を包んでいる。間違いなくここは病院の中だ。
 それでようやくことの成り行きをわたしは理解した。今わたしに話しかけている人たちは医者と看護師に違いなく、滑舌のいい言葉の響きであれこれ問い掛けては安静を呼び掛ける。落ち着いた安心感を人に与える声音だ。足音を立てない身の交わし方、スタッフに小さく指示を与える理知的な響き、ペンライトのようなものでわたしの瞳孔を調べ心音を確かめる。モニタに映し出された心電図や血圧の測定値をメモする看護師。そのポールペンが紙の上を走る些細な摩擦音、リノリウムの床を歩くゴム底靴の乾いた足音、聴診器をしまう医師の衣擦れの音。それらが次第に明確になって来る。
 日常とはまた違った環境に晒されてはいるのだが、生きていることを実感として受け止める。さりとて今の状況としては、全身に倦怠感を覚え、浅い意識の片隅でぼんやりとクラシック音楽を聴いているみたいだった。それは心地良くも悪くも有り、視界や脳はプールの水の中を浮き沈みしているようで現実に近付いてはまた遠去かったりするのだった。特に痛みを感じてはいないが、気分は相当に良くない。
 まだ言葉を発せられなかったわたしがその時思っていたことは、生き残った喜びなどではなく、死ねなかったことへの大きな悲しみだった。そして何より気になっていること、それを確かめたくて仕方ないのだけれども、あぁとかうぅという言葉にならない呻き声しか吐き出せぬもどかしさに言いようもない悔しさが込み上げ、涙に暮れる他なかった。

 結局、二週間程の入院でわたしは退院した。しかしその間に連れ合いだった男の臨終を聞かされてしまった。暫くは茫然自失の状態で、生きながらにしてわたしは死んでいた。本来ならば今頃は一緒に手を繋ぎ合ったまま黄泉の国へでも旅立っていなければならないはずだったのだ。そう思う度に止めどなく涙が溢れ出し、昼夜なく失意のどん底を彷徨っていた。けれど生命力とは残酷なものでそんな思いとは裏腹に日毎に快方して行った。
 退院が決まった前日にわたしが生き残ってしまった理由を聞いた。あの日、泊まっていた温泉旅館の女将がバス停とは反対方向に向かって歩いて行くわたし達二人を不審に感じてこっそり後を着けたらしい。
 それを教えてくれた看護師は直ぐにでも御礼に行くべきねとわたしに言ったが、失意に暮れるわたしは到底そんな気になれなかった。
 わずかばかりの手荷物を持って病院を出たわたしを迎えていたのは当時の夫だった。相変わらず不機嫌という三文字を顔の表面に貼り付けて動作だけはテキパキしていてそそくさとタクシーの後部座席にわたしを押し込んだ。まるで人目を避けているようなそんな雰囲気を丸出しにして。
 タクシーに乗り込んだ夫は自宅の住所を運転手に告げると後は黙ったきり一言も発しなかった。当然のことながらまだ貧血でよろめきそうになるわたしに労りの言葉も無く、忌々しさだけを身体中から発散させている。
 自宅に到着するやいなや夫はわたしに離婚届を差し出した。もうすでにわたしの署名以外の部分は記入済みになっている。ペンを受け取りわたしは黙ってそれにサインする。印鑑は夫が用意したものを使った。用はそれだけだった。わたしは寝室に行きクローゼットの中から必要なだけの衣類を取り出しキャリーケースに詰め込んだ。洋服を着替えショルダーバッグに現金や預金通帳などを入れた。さっと鏡を開き、ヘアブラシを当て軽くメイク直しをする。ルージュは手に取ったものの気分が乗らず、やめた。
 あまりにも青白く冴えない顔付きだったのでマスクをして身支度を整えた。部屋を出る前に一度振り返ってみたもののこの家に思い残すことは何一つないことに気が付いた。
 玄関を出る前に夫がやって来て、白い封筒を無言で手渡された。手に持った感触でそれが数十枚の札束であることに気が付いた。一瞬突き返したい衝動にかられたが、躊躇したあとバッグにしまった。裏切ったのはわたしの方で夫は悪くない。ただ無関心、無神経であり、気にするものは世間体だけの人だった。それを法では裁けない。けれども出て行く前に深々と頭を下げた。夫ーいや以前夫だった男は上り框から無言でわたしを見下ろしていた。さよならの言葉さえ告げずに一息にドアを開け、逃げるように外へと飛び出した。

 一人になったわたしはそれでも涙が溢れて止まらなかった。行くあてもない。訪ねるべき人もない。
乾いた灰色の街が曇り空の下、澱んで見えた。
 いっそこのまま死んでしまおうかと何度も考えた。でもその方法も体力さえも残っていない。人混みは昔から苦手だった。今は尚更そう思うけど、行き交う人々の話し声や笑い顔は無情にも感じたが、何故だか知らず唯一の救いであった。そんな人達の生活や幸福について考えてみた。それぞれ帰る場所があり、待つ人もいるだろう。カップルや家族連れを見かけると微笑みたくなる。刹那的ではあったものの少なくともわたしにもそんな瞬間があった。もしもお互いもう少し早く出逢えてさえいれば、あんな風に笑い合えたのかと思うと、やるせない風が心をなお寒くさせた。
 だが、その人はもう今はいない。あの時、おそらく彼はわたしより自分の手首により強い力を加えたのだと思う。それは優しさや思いやりから来たものかも知れないが、今はただわたしに残酷な現実しか迎えさせてくれない。
 これからどこへ行こうか。考えが何も浮かばない状態でふらふらと数時間人混みの中を彷徨った。まるで海中を浮遊するクラゲのような感覚で漂った。やかで運にも見放されたかのようにポツリポツリと雨まで降り出した。
 雨の中を傘もなく、どこをどう歩いたかも分からずに、疲れ果て体力の限界を知り、ふと目についたホテルにチェックインした。久しぶりに温かいお湯に浸かり、ふかふかのベッドに身を沈めた。
 そのまま深い眠りに落ちてしまいそうだった。けれど、こんなベッドに一人。なんか寂しい。こんな時ここ数年いつもわたしの隣にはあの人がいた。そう思うとまたまた涙が滲んで来てしまう。もっともっとたくさん愛し合いたかった。たとえ行き着く先が深い暗闇であっても、二人ならとことん堕ちても構わない。いや、堕ちたい。どこまでも深い底の底まで。ずっとそう思って生きて来た。
 だが、こうして一人取り残されてしまうと、これを不幸と言わずに何を不幸と呼ぶのか、そう思えて仕方ない。胸の中に黒い塊が大きく渦巻いている。生き残ってしまった恨み辛みを繰り返し、募る気持ちに胸が掻きむしられて、あの人の名前を何度も頭の中で呟いているうちに、いつのまにか記憶が途絶えてしまった。

 それは深い深い眠りであった。その日わたしは一日中死について考えていたから、多分眠りの中でもそれを考えていたかも知れない。夢ではない。眠りの中でのことである。闇よりももっと暗い深淵の中、落下しているのか浮遊しているのか判断出来ない領域で、生死の間を彷徨っていた。
 そんな暗闇で一定の時間を重ねた後、わたしに告げられた運命は、『覚醒』であった。

 ふと目が覚めた。どのくらいの時間が経ったのかよく分からない。窓辺に掛かった白いカーテンが明るく輝いているので、夜が明けたと判る。サーッとカーテンを開くと澄み渡るような青空が開けて見えた。映画のスクリーンを見ているのかと思った。陽光がさんさんと射し込んでいる。眩しい朝の光に目を細める。脳内に交響曲の壮大な音楽が鳴り響いた。
 打ちひしがれた昨夜との対比があまりに激し過ぎて暫し狼狽した。鏡に映る自分の姿を眺めて落ち着きを取り戻そうと努力してみる。
 多少頭はボーっとしているようだが、昨晩、泣けるだけ泣き尽くしたせいか気分はスッキリしている。頬に涙の跡が残っているけれど、もう泣いてはいない。あれ程嫌っていたポジティブワードの『開けない夜はない』だとか『止まない雨はない』などの当たり前の言葉が思い出されて、小さく笑ってしまう。当たり前のことが当たり前に起こっただけだ。
 まさかその程度のことでわたしの悲しみが癒やされる訳がない、生き残った苦しみは……、いや、生きていることの……。
 夫とは縁が切れた。けれどあの人はもういない。これから先、一人で生きて行かねばならない。
 不安は消えない。悲しみも簡単に消えるものではない。でも、不安や悲しみを持たない人なんてこの世にどれだけいるだろうか?

 目覚めてから三十分程の時間が流れた。今わたしの前にあるテーブルにはコーンポタージュスープが一皿置かれている。
 ルームサービスを取った訳ではない。
 始めホテルのボーイがルームサービスの朝食を持って部屋の外に現れたのだが、頼んでいないとの旨を告げるとどうやら間違いであったらしく、ボーイは慌てて頭を下げ別の部屋にそれを届けに向かった。それから暫くの後、改めてお詫びにとスープを一皿サービスとして置いて行った。
 丁重に畏まって謝罪する若いホテルマンからは実直な濁りのない無垢な瞳が垣間見れた。
 そんな顛末で幸運にもわたしはそのコーンポタージュスープを味わうこととなった。
 真っ白な皿にクリーム色のトロリとした液体、中央に浮かんだクルトンの柔らかさ、何よりその味わい、温かさが部屋ごとわたしを別世界に連れ去った。
 噴火した火山から流れ出す溶岩のようなトロリとした液体が、ひと口ごとに、喉を伝って食道から胃のあたりまでその温かさが伝わる。身体全体に血液の循環が脈動を始める。それは細胞の細かな部分で死にかけていたものが再び動き始める、そんな不思議な体験を身体の内側から感じていた。
 これこそが生きているということかと思うと愕然とした。一心不乱にそれを味わい尽くし、深い溜息とともにわたしはスプーンを空になった皿の上に戻した。
 ほんの少しの間、放心してしまった。
 さて、これからどうしようかと頭を巡らせ、とにかく現実感を取り戻そうと、テレビをつけてみた。
 チャンネルをいろいろと変えてみる。色とりどりの世界が目に飛び込んで来る。音楽、スポーツ、人々の笑顔、遠い街の風景、野生の動物達、そしてニュースではどこかの国の内戦の様子や自然災害の状況などを映し出していた。世界は毎日いろいろな出来事で満ち溢れている。人が死んだり、産まれたり、悲しみに打ちひしがれる人、歓びに湧く人々。
 世界は広い。それに比べれば自分のいる世界はあまりにも小さい。生きてる限り、もしくは人間である限り、悲しみから逃れることは出来ない。悲しんだ分だけ喜び事にもきっと出会えるはず。そう信じるしかない。強く生きよう。
 一晩眠っただけで体力は大幅に回復した。胸の中に渦巻いていた黒い塊は確実に小さくなっている。
 わたしはベッドに腰掛けた状態で、目の前の大きな窓にくっきりと広がる青い空を眺め続けた。
 何時間も、何時間も……。



 チェックアウトの時間を知らせる内線が鳴って、わたしは応対した。
 若草色の花柄ワンピースに身を包みショルダーバッグに必要なものだけ詰めて部屋を後にする。
 昨日まで着ていたブルーのコートは捨てて行くことにした。コートだけではない、キャリーケースも置いて行く。ホテルの人には申し訳ないと思うが、忘れ物として始末して貰うことをお願いしよう。
 フロアを歩きながら、スープを運んで来たホテルマンの純粋で無垢な瞳を思い出す。彼の姿はロビーにはなかった。フロントで礼を述べチェックアウトの手続きを済ませた。
 ホテルの外へ出る。
 大きく深呼吸して、首を左右に振って筋肉をほぐす。
 目の前にまだ道は続いていた。
 さあて、どちらに行こうかしらと思案する。
 日が昇る方向へとわたしは歩を進めた。







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 ※この作品は昨年一月に投稿した『白い光の中へ』の続編として執筆したものです。


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