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桜と戦争


 川沿いの堤防を桜並木が続く。そよ風が棚引く穏やかな午後だ。とうとうと流れる川面は水量豊かで見る者の心を落ち着かせてくれる。薄い空色の遥か向こうは低い山々が連なり、のどかな風景に雲雀達の囀りが重なる。倉井は趣味で嗜む春の一句など捻り出そうと歳時記を片手に思索に耽っていた。妻と子供達は今頃、キッチンでクッキー作りに余念が無いだろう。おやつの時間にはまだ早い。もう少しゆっくりしてから帰るとしよう。思えば、こちらに引っ越してからそろそろ三年。独り身の時は企業戦士として身を粉にして働いた。平凡な恋をして当たり前に結婚した。だが、小さな生命を授かり倉井は思った。この子のために空気の良い所で暮らそうと。それをきっかけにしてそれまで勤めていた大手商社を退社し、地方の物流センターに職を求めた。町外れの一戸建は小さいながらもお城に見えた。季節も春、人生の追い風とも呼びたい微風が肩に頬に心地良かった。


 突然の轟音と共に、辺りの静寂を引き裂き、現れたのはV字形なる隊列の黒い鳥達であった。それは遠く異国の空から現れたのであろうか、瞬く間に穏やかなる空に風雲が舞い上がった。倉井は歳時記を閉じ、その者達の動きに目をやった。黒い鳥達の一団は上空から急降下するといきなり桜の花びらを攻撃始めた。川面に遊んでいた小魚をその大きな嘴で啄んだ。桜の枝は大きく騒めき、花吹雪が舞い散った。川の水面にはいくつもの砲撃の雨が降り注ぎ飛沫が弾け飛んだ。傍の草叢に逃げ込み一度は難を逃れた倉井ではあったが、攻撃をする鳥達の行く先が我が家の方向だと知るなり、迷わず駆け出した。何故に桜はその枝を折られ、花をもぎ取られてしまったのだろう。何故に小魚達は迸るその生命を剥奪されたのだろう。倉井の胸にはいくつもの疑問が湧き起こった。だけど、今は早く家族の元へ駆け付け、守らなければならない。あの黒い鳥達が妻と幼い子供らに危害を加えないように。桜並木を走り出した倉井の背中を別の鳥が捉えた。弾丸が倉井の胸を撃ち抜いた。それは全くと言っていい程その場に不似合いな、それでいて見事な大量の血飛沫に彩られた。ひとつの生命、ひとつの人生の終わりはあまりにも呆気なく、花の散る如しであった。その日、唐突に消えたひとつの夢があった事を世界中の誰が知っていようか。前のめりに倒れた倉井の全身を桜の花びらが覆った。歳時記は土になった。そして死者は二度と目覚めなかった。
 それは誰が望んだ事だったのか……。







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