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木曜茶会

 毎週木曜日はコメダの日。私たちの決め事はそうなっています。もちろん特別な用事などがあればそちらを優先させるのですが、特に何もない木曜日(そちらの方が圧倒的に多い)は夕方になるとコメダに向かいます。
 あ、一応断りを入れておきますが、コメダというのは各地にあるチェーン店の『コメダ珈琲店』のことです。
 私の住んでる街にもコメダは知ってる限り三店舗あるのですが、その中でも私の家から一番近い一本木店に向かいます。
 この頃はようやく夏の暑さも多少弱まって来ましたが、まだまだ外の日差しは強く、日傘をさして歩かなければいけません。そんなに大した距離ではないいつものルートに何か新しい発見があるかも知れないとあたりに意識を巡らせゆっくりゆっくりと歩を進めます。ふと気付けば空はもうすっかり秋の色でした。

 そんなふうにして十分か十五分ほど歩き、お店に到着して入口のドアを開けると、愛想のいいアルバイト店員さんが迎えてくれます。その笑顔に心がふわりとします。それから店内をざっと見渡し、好みの席が空いていたら、すぐにそちらへ向かうのです。窓際の明るくて気持ちの良い席。もしそこが空いていなければ二番目に好きな席(壁際)、そこもダメなら三番目(左隅)、四番目(右奥)となり、運悪く混み合ってる時は席が空くのを入口横にある待ち合い用のイスに座って席が空くのを待つのです。
 それでも、どこに座ろうが大抵は心が落ち着いてゆきます。たまに子どもが走り回ったり、大きな声で談笑する騒がしいおじさんたちもいます。でも若い子もお年寄りも男女関係なくそれぞれリラックスして楽しんでいるように見えるので、それもまた良しとしましょう。皆の憩いの場ですから。それからひとりで考えごとやパソコンをテーブルの上に置いてひたすら真剣な顔をして自分の世界に浸っている人もいて、それはそれで人間観察にはもってこいの場所なのです。

 席に着くとすぐに店員さんがコップに入った水とおしぼりを持って来てくれます。もうすっかり私たちのことを分かっているので、水とおしぼりは私の前とまだ誰もいない向かいの席にもそれぞれ置かれます。そして店員さんはオーダー用のハンディ端末を取り出し、ニコッと微笑むと「いつものでよろしいですか?」と聞きます。私も微笑みを返して「はい、いつもの」と応えます。それでオーダー完了です。
 私はおしぼりのビニールの端を軽く引き裂きタオルを取り出します。それは、夏はエアコンの冷気の中で、冬は冷たい外の空気に晒された私の手を、暖かい湿り気で包み込み、その部分だけ一瞬お風呂上がりの快適さを与えてくれます。
 その頃には私もひとつ大きな深呼吸をした後のように胸の内にすっとした落ち着きを取り戻しています。青空に飛んで行く風船のような気持ちです。そしてひと息つくと急に喉の渇きを感じて結露で濡れたガラスのコップを手に取り氷の浮かぶ冷たくて美味しいお水をそっと口に含みます。
 口の中にひんやりとした宇宙が広がり、ほんの少し微熱を溜めていた口内が冷やされ、目と鼻に清流の飛沫が迸ります。それらを舌の根元で味わい尽くし喉の奥に流しこ込む瞬間、私はいつもささやかな幸福に包まれます。

 それから彼が来るまでの間、私はそれとなく店内の様子を伺います。ログハウス風のインテリアに統一され、圧迫感のない高い天井、ヒーリング効果のある控えめな照明器具、紅色で手触りの良いソファ、木で出来たテーブル、出窓のプランターには花が飾られ、座席と座席の間はやや高い木製のついたてで仕切られているので、背後に気兼ねなく会話が出来ます。夕方、この時間帯はどちらかと言えば客はやや少なめで、今も離れた席にちらほら中年層のグループやカップル達が見受けられる程度です。こういう場所にも昼の顔、夜の顔というものがあり、それぞれに客層や店員、人の顔ぶれや表情が違って見えたりするから不思議です。
 暫くして彼が姿を現しました。いつもよく見るチェックのシャツとデニムにスニーカーといった軽い出立ちです。もうマスクはしてません。日に焼けた顔に白い歯が綺麗です。
 彼の家は少し遠くにあるので車を運転して来るのです。来る度に彼はどこどこで道路工事をしていて交通規制があったとか、駅前あたりが酷く渋滞していたと街の情報をあれこれ私に伝え、遅刻の言い訳をします。私はそんなことちっとも気にしてないのに。

 彼と私に共通する趣味は音楽と映画と読書なので、大抵はその話題でこの木曜茶会は占められています。そして時々お互いが持っているCDやDVD、または文庫本などを貸し借りします。彼は今、先日私の貸したカズオ・イシグロの『遠い山なみの光』を読んでいる最中です。今日はその読書がどこまで進んだか、そこまでの感想はどうかなどを話してくれることでしょう。楽しみです。
 私は殆ど毎日一定の時間、読書に時間を費やすのですが、彼の場合は週末だけに限られているらしいので、毎週少しずつページが進んで行きます。
 ここでとりあえず彼も店員さんに『いつもの』を注文し、やがてそれが私たちのテーブルに並べられます。銀色のマグカップに入ったアイスコーヒーふたつとこれまた銀色のミニカップに入ったミルク、ストロー、それに小袋に入ったナッツが乗せられた小皿、それらをひとつひとつ店員さんは私と彼の前に丁寧な手付きでそっと置きます。まるで何かの儀式が始まるみたいに。そして最後に会計伝票をそっとテーブルの端に置くとにっこり微笑んで「ごゆっくり」と言います。私たちは「ありがとう」と言葉を返します。

 彼はアイスコーヒーにすぐミルクを入れてストローでぐるぐるかき回してから半分程を一気に飲み干します。私の場合はまずミルクの入っていない状態のコーヒーをストローで最初の一口目をゆっくり味わいます。シロップはあらかじめ入っているので甘さはあります。でもコーヒー本来の苦さも同時に少し感じて、それをまず確認します。
 そしてそれからゆっくりとカップの端の方からミルクを流し込みます。黒い液体の上に一筋のミルクのラインが引かれる度、なぜだか私はピアノの鍵盤をそこに思い浮かべます。でもそれはすぐに形を変えてぐにゃりとした渦を描いてコーヒーにミルクが溶けて、かき混ぜるとまるでミルクキャラメルみたいな色に変化します。ストローでひと口吸うとそれは甘くまろやかな味わいで喉元から全身にほわぁっとした悦びが広がって行きます。私が顔の表情筋を緩めると彼もやっぱり笑っていました。
 ねえねえと私は先日テレビで知った雑学を自慢げに彼に話します。このお店で作ってる四角い氷、透明でしょ、でも家の冷蔵庫で作った氷は中に空気が入って白く見えるでしょ、その違いは何故だか分かる? と。
 彼はえぇっと今までそんなこと考えもしなかったという顔をして、ピンポン玉のような目玉をくるくるさせます。「分からないなぁ」と首を傾けて探るようにストローで四角い氷をカラカラと動かします。
 それで私はこういうお店には透明な氷を作る専用の機械があること、そしてその仕組みについて話します。透明な氷を作るのにも、そんな工夫があるらしいです。そう思うと美味しさと有り難さが5%くらいは上がるでしょ。
 彼は「へぇそれは知らなかった」と感心した声を漏らします。でも折角そういうミニ知識を披露しても数ヶ月経ったら、彼はそんなことすっかり忘れてしまうってことを、私は知っています。
 だから半年くらいしたら、またこの雑学をもう一度ひけらかすことが出来ると私は目論んでいます。

 その後の一時間半程、とどまることなく私たちの会話は続きました。楽しみにしていた『遠い山なみの光』の第八章までの感想も聞けました。彼は主人公の義理の父にあたる人の旧的な日本人が持つ家族や社会に対する思考が上手く表現されていること、稲佐山で出会った子連れのアメリカ婦人とのやりとりに深い興味を感じたとのことでした。そしてまた映画で例えると小津安二郎の世界観と通じるものがあると言いました。そういえば『生きる』という映画のリメイクをカズオ・イシグロが脚本を書いたという記事をどこかで見た記憶がありました。
 けれど、こんなに趣味の話が合いそうな彼と私ですが、微妙な違いがそこに見出せます。たとえば、私は映画館には行かずに映画はテレビで観る派、彼の方は映画は映画館で観るものと主張する派、それはよく分かります。大きなスクリーン、音響などがまるで違うし集中力も保てる。いくら液晶で大画面が増えたといってもテレビではそこまで再現出来ません。周囲の環境も違うだろうし、彼の主張は理解出来ます。ただ私はどうしても二時間もの間、同じ場所で黙って座っていることが苦手だからです。それは彼も理解してくれているようで、映画に誘われることはありません。
 なので私は最新の映画作品についてあまりよく知りません。たぶんそれについては上手く会話が成り立たないと思われ、彼もその話題は持ち出さないようです。話すのはもっぱらテレビで観れる古い映画ばかりです。

 どちらかと言えば私の得意分野はテレビドラマだったりするのですが、逆に彼は殆どドラマは見ない人です。私はこの夏、いくつも意見交換してみたいドラマ作品があったのですが、それはおそらく一方的に私が一人語りすることになると思われるのであまり深掘りしません。
 音楽に関してもJ−POP系は二人とも好きだけれども、どちらかと言えば私は邦楽、彼は洋楽です。読書に関しても彼はミステリー好きだし、私もミステリーは好きだけれど、メインは女性作家の書く恋愛小説を多く読んでいます。
 そんな訳で、共通の趣味と言ってもその中身の主だったところに多少の違いが存在します。でも共通の部分はあるし、お互いに自分の知らない世界のお話を聞けたりするので、これはこれで大切な時間だと思っています。
 彼とお喋りする時間はあっという間に過ぎてしまいます。本当に時間の進み方っていつでもみんなに平等なのかなと疑わしくなります。いつのまにかアイスコーヒーも氷だけになっていました。水は残りが少しになると店員さんがついでくれるので、有難いです。

 それでもどんな物事にも必ず終わりの時間はやって来ます。それを非情と考えるか必要と考えるかは、その人次第です。
 私はやはりそれは必要だと思っています。人との会話も大切ですが、一人になって物思いに耽る時間だってそれと同じくらい大切なものです。でないと人は成長しないと思うからです。
 なので、いつも「じゃそろそろ」とどちらかが言い出し、お茶会はお開きになります。その頃にはもう充分にその週分のお話しも尽きてお互い満足な表情をしています。本当を言うと、私はほんの少しまだ喋り足りないと思うことの方が多いのですが、ここはそれくらいで腹八分目を保っておくのが丁度良いのかも知れません。それに全体を比率で表すと6:4で私の方がたくさん喋っている気がします。私は彼の喋り方とその落ち着いた声が好きなので今後は喋る側ではなく、聴く側をもっと楽しみたいなと考えています。
 また来週があるから。一週間なんてあっと言う間に過ぎてしまうもの。それまでにたくさんのお話のネタに私は巡り合って、多くの事柄を胸に抱いてこの場所に来るのでしょう。
 帰り際にこれ読んでみる? と彼は一冊の文庫本を私に差し出しました。見ると『月と六ペンス』と表題にありました。作者はサマセット・モームです。確かどこかで見覚えのあるタイトル・作家さんでしたが、初めて手に取りました。
 わあ、嬉しい!
 私は手にしたその文庫本の感触が嬉しくてそう口にしました。微笑むと彼も嬉しそうな顔をしています。あえて物語の内容については聞かないことにしました。

 お金を払って店の外に出るとあたりはすでに暗くなり始めて空は夕暮れの色に染まっていました。吹く風も涼しいというよりは、少し寒い。
 彼は車で送るよと言ってくれるけど、私は「ううん歩きたいから」と笑みを見せて断ります。「そう、じゃまた来週」と彼は手を振り、車に乗り込みます。車は彼の忠実な番犬だったように眠りから醒め、低い唸り声を響かせて駐車場を出て厳かに走り去って行きました。
 私は遠ざかって行く彼の後姿を目で追いかけながら、心のどこか、引き出しの奥に仕舞っておきます。そうして来た道をまたゆっくりゆっくりと歩いて帰ります。日傘はもうさす必要がないので手に持ってゆらゆらさせて、たまに小石を弾いたり、つついたり。



 ああ今日も楽しかったな。
 季節がいつのまにか変わって行くように日々は少しずつ移り変わって行く。道端の草花や樹木も毎日見ていると少しずつ変化しているんだ。
 この木曜日のお茶会だって、いつまでも永久に続くものではない。私はそれを知ってる。
 だからこそ、そっと呟いてみたい。
 大切なものはいつもそこにある。

 帰り道が来た時より短く感じてしまうのはなぜ?



 おしまい
 最後までありがと


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