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黒髪を切る迄 8


 さて、夏休みも終わって二学期が始まるとようやくアワノも『MARS』の部室に顔を見せ始めたわ。思春期の男の子ってある時期急に大人びてしまうのね。背も高くなったみたいに感じたし、顔付きも何だか以前とは違い精悍な印象をうけたものよ。
 それでも性格は相変わらずで、部室に戻るやいなや、ジョークを連発して早速みんなを笑いの渦に巻き込んでいたわ。そのジョークにみんなは笑いはするものの、どことなしにみんなの瞳は暗く澱んでいたみたい。アワノも笑顔を振り撒きながらもその微妙な空気の違いを感じていたみたいで、鳥山が現れて稽古が始まると隅の方に座り込んでじっと下を向いて黙り込んでいたわ。
 小野さんはアワノが戻ったことにあきらかにほっとしたような表情で、常にニコニコしてたわ。自分からはあまり何も言わないけれど、最近の稽古場でのムードにはどうする手立てもなく、辟易してたのじゃないかな。それでいて鳥山とは仲良く喋ろうとするのだけど、鳥山もイライラが募っていると勢いぞんざいな口調で突っぱねることが多かったわね。小野さんて人は空気を読み過ぎるきらいがあって、それでいろいろ苦労を背負い込むことがあるみたい。
 夏休み後半から二学期始めにかけて『炎の記憶』の稽古は低迷してたわ。あきらかに行き詰まっていたの。鳥山の言う通りこのままでは幕を開けられる状態でないことが、素人の私にさえ手に取るように感じられたわ。台詞は覚えきれずに詰まる。動作を加えると言葉は棒読みになりあまりにも不自然な演技ばかり。
 加えて演者の声は小さく、あれほど毎日発生練習を繰り返して来たはずなのに滑舌悪く、観ている者に台詞が伝わらないと来た。
 『炎の記憶』という演劇は基本的には会話劇なのよね。言葉の内容が観ている者に伝わらなければ、動きだけで内容を伝えられるものではなくてよ。
 このころ、みんなの心の中に渦巻いていたものは焦燥感というよりどこか諦念めいた挫折だったと思うわ。なんと重苦しい。稽古場には澱んだ空気が漂い。秋なのに梅雨の長雨みたいにじめじめと湿ってばかり。あの明るくていつも前向きな千紗子でさえ、俯くことが多かったわ。何より自分の演技が思いのままにならず、演出の鳥山の要望に応えられずにいたことが悔しかったみたい。彼女の挫折感が大きくて、他のメンバーにも影響を与えていたのは事実よ。
 何もかももうダメだと思ったものだけど、実はこの先、そうでもなかったの。
 どん底だと思い続けていた状況がある日一つの臨界点を迎えると、今度は逆に上昇する気運が見え始めたのよ。不思議でしょ。落ちるとこまで落ちたら次は上がるって本当なのかしらね。その時はそうだったわ。
 それはある意味開き直った結果なのかもしれない。男の鳥山の前で演じる彼女たちはとうとう女であることの衣を拭い去ったように思えたわ。
 彼女たちの間で何かきっかけがあったのだと思うけど、それぞれが自分自身の殻を撃ち破り、その役に成り切り始めたのは、九月も中頃になってからだったわ。
 死に物狂いだったかもしれない。やけくそにどうにでもなれと腹を括った結果かもしれない。あるいはとうとう本性を表し、演技者としての本能を発揮し始めたのかもしれないわね。
 とにかく、鬼気迫るかおをして、自分たちが女子高生であることを捨て去った時、事態は次第に好転して行ったの。
 その状態を見て鳥山も、一瞬、言葉に詰まり、息を漏らしたわ。何かが彼を圧倒し始めたのよ。
 そこから、いよいよというべきか、『MARS』として初めての公演を成功させるための第一歩を踏み始めたのよ。
 後にその時のことを城山千紗子に問い掛けたことがあったわ。あの時何をきっかけにしてどん底状態から抜け出したのか、とても興味があったから。彼女の答えは最初とてもあやふやなものだったけど、根気よく聞き出したわ。確かにその時の状態が良くなくて、それを感じてこのままではいけないと思い、みんなで集まってとことん話し合ったらしいの。最終的に公演を中止するかどうか、そんなところから話し合いを始めたそうよ。演技についての技術的な話は一切しなかったと。やるかやらないか、そこから意見を聞き出して、やるなら、思い切り人前で恥を掻くつもりでやる、その代わり今出来るベストを尽くす、それしかない。今日がその決断をするタイムリミット。千紗子はみんなにそう伝えたらしいの。もちろん、やらないという答えに辿り着いても文句は言わない。尊重する。それも当然の選択だから。でも、わたしはやりたい。たとえ、どんな結果だったとしても今年やらなければもう来年はないから。彼女はみんなにそう伝えたそうよ。
 もちろん千紗子の決意に反対する者は誰一人いなかった。そこで『MARS』は本当の意味で結束力が出来たのね。みんなの心が一つになる瞬間、それを千紗子は感じていたそうよ。
 とは言っても、そこからの道はまだまだ茨の道だったのだけどね。ひとつ良くなってもさらにその上を目指して鳥山の要求はさらに厳しく際限なく繰り出されるの。これで良いと納得してしまえば、そこで可能性は途絶えてしまうみたいに思っていたのかもしれないわね。絶えず上に上にと高い目標を掲げて。
 そんな鳥山がある時私を呼び止めたの。鳥山は私に対して決して優しくはないけど、丁寧な物言いをしたわ。彼は私のことを上野さんと苗字で呼んだわね、確か。
 それで、彼が私に依頼したのは劇全体における台詞の配分だったの。その時点で台詞の配分はおおよそ主演の少女役の千紗子が50%、老夫婦の夫役が25%、老婦人が15%、少女が連れている弟は5%ほど、あとは街角でマッチを買う男たちの台詞等になる。そんな感じだったの。
 それを、鳥山はもう少し千紗子のセリフを減らすことは出来ないかと言って来たの。千紗子が演じる少女の台詞を5%ほど少なくし、その分を老婦人に配分させるというものだったわ。どこをどうという指摘は無かったけれど、どうしても外せない台詞もあって、どこをどう手直しして配分を組み直せばいいやら、私にとっては簡単なようで難解な依頼だったわ。
 それを行うにはもう一度全体を細かく読み直して、省ける台詞、付け足せる台詞を模索する必要があったわ。私は鳥山にそれを考慮する時間を要求したわ。それから直ぐに徹夜することも厭わずにその作業に没頭したわ。でないと間に合わないから。
 そして二週間近くかかって書き直した台本を鳥山は私の前で黙読したけれど、直ぐには色良い返事を口にしなかったわ。何処か虚空を見詰めて何かを思い描くようにしてたわ。私は最後まで彼の理想系を掴めなかった気がした。演劇に対しても脚本に対しても、対人関係においてもね。
 それでも『わかった』と一言呟いて彼はそれに基づいて演出に戻ったの。不満があるのかないのかそれも知らせずに、もちろん感謝の言葉とか労いの言葉は一言も無くてよ。
 けれども、そこから割りかし順調に演劇の稽古は進んで行ったわ。いつしかみんなの顔にも明るさが戻って、これなら行けるんじゃないかと希望が見え出したの。文化祭まではもう直ぐだった。

 さて、前回お話しした、美化委員会でのその後。
 思いもよらずじゃんけんに勝って美化委員長に任命されて、国体誘致のために好印象を得ようと、校内美化運動をさせられることになった件。
 それでも自分たちで種を蒔き、育てた花には愛着があり、夏の暑い最中でも水やりを欠かさず、秋になり台風や大雨が近付いて来ると、心配になり、暴風の中、夜中にそっと雨合羽姿で校舎脇の花壇に忍び込んで様子を見に行ったりしたのよ。
 苦労はしたものの、咲いた花は小さく見窄らしかったけど、心は満足してたわ。行きがかり上の意に沿わぬ奉仕活動だったけれど、それはそれで良い体験だったのよ。
 一年後輩の山川さんという親友も出来たしね。それが無ければ彼女と関わり合いになることは無かったはずなのよ。
 山川さんはね、とても植物のことに詳しくてね。花の種類、育て方、その時々の見分け方がしっかり出来てて、今はこうすればいいとか、あれはしない方がいいみたいなことをその都度私に教えてくれたわ。それだけじゃなく、四季折々に咲く花やその名前、色合い、美しさを語ってくれたの。花言葉もたくさん教えてもらったわ。何しろ私と来たら秋に咲く花なんて菊かコスモスくらいしか思い浮かばなかったくらいだったから。私にとって彼女は救世主であり、植物博士みたいな存在だったわ。そしてまた、その話ぶりがとても穏やかで可愛くてね。
 美化委員長になって、ほんと良かったことはただひとつ、山川さんと親しくなれたこと。それに尽きるわ。
 彼女は随分遠くの方、バスで片道一時間もかかるところから通学していたのだけど、夏休み中も二学期に入ってからもずっと私と一緒に花の世話をして、せっせと美化活動に力を貸してくれたわ。
 そうね、彼女がいなかったら途中で放り投げていたかもしれないわね。元来が面倒くさがりやの私だから。
 卒業してからの彼女の消息についてはまるきり知らないのだけど、何かの用事で彼女の実家近くを車で通り過ぎたりする時、ふと彼女のことを思い出してね、懐かしい気分になるの。今はどうしているのかしらね。
 でも、秋が深まり、私たちの育てたマリーゴールドもそれなりに黄色やオレンジ色とりどり綺麗な花を咲かせたわ。
 それなのに、ピシ川(西川という美化委員をまとめる顧問の教師)のやり方に私は愕然とさせられ、怒りに胸を震わせることになるのよ。


 つづく

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