往復note(4):情報についての返答

https://note.com/grasspanda/n/n25230c3a0e2a
Kさん、こんにちは。新しいルールについて、承知しました。
質問しあっていく中でどんどん話を発展させていけたら面白いですね!知識豊富なKさんにいろいろ聞いていこうと思います。

さて、今回のKさんからの質問「アーティストであるTさんはその感性を使ってどう相手が信頼できるか判断しているか?もしくは、情報の受け取り方で気を付けていることは何か」について返答します。


情報リテラシーについては、コロナ禍において誰もが困難さを感じた問題だと思います。
目の前に差し出された毒物入りの情報を「情報だな~」としか思わずに口に入れちゃうと、知らず知らずのうちにまずいことになってしまう。
その様子にいたたまれなくなった正気を保った人が、それは毒物が入っている可能性がありますよと口をだそうものなら「平和」を乱す者として眉を顰められるか、陰謀論としてレッテルを貼られてしまう。
そんな目隠しされた現実がずっと続いています。

そのような状況の中で正気を保ち続けるため個々人ができる対策は、ヒトという動物が生来より所持している(危機)察知能力なのではないかと私は考えています。


人間の察知能力は、Kさんがnote(3)で述べられていた消費期限による食物に対する感覚の不行使や、note(2)で私が上げた天気予報に頼ることによる身体感覚の不認知にみられるように日々衰退させられています。
身体で認識できる情報を外在化させることも身体拡張のひとつでしょう。しかし、行動を決定する要因全てを外部に依存した場合の危険性は?全ての人が共通して所持しているヒトの身体の可能性を信頼せずに、外在化された情報に頼る必要性はどこまであるのでしょうか?
この身体に属する察知能力は表現者の得意分野でもあると思います。作品は言語化が困難な情報を多分に抱えています。表現者は身体を通して作品を創り出すなかで、思っても見なかった生の情報—言語や科学の手前にあるような―が作品に含まれていることに度々気付く機会を得ます。そのような非言語的な情報をキャッチする敏感さはヒトの身体の可能性の発露ですから、作品に限らず外部からの言語化されない危機を察知することにも当然応用可能です。(表現者の皆さん、どうですか?)
ではその生の情報をどう取得して判断に繋げるのか?

それは「単純にみること」なのだと思います。
ガストン・バシュラールの著書『空間の詩学』の中で現象学者として詩から受けるイメージを観察する態度に共感し、私も実践しようと試みる中でまず初めに取り掛かったのがこの「単純にみる」という態度です。
単純にみるとは言っても、その言葉の通りすべてを単純なものとして還元してしまうとあまりに多くのものを取りこぼしてしまうので危険です、なので私が言いたいことはそういう単純さではありません。
批評家や心理学者、精神分析学者らが詩から受け取るイメージについて語る時、彼らの専門性によって詩的イメージの本質は複雑に否定され、取りこぼされ、翻訳の裏切りを受けてしまいます。
そういった状況から詩的イメージを正しく観察するために、バシュラールは対象が放つ虹色の光彩を単純に受け取り身をゆだねる現象学的態度を取るよう述べています。そのような単純な受け取りの功績が詩だけでなく情報にも適用され得ると私は考えているのです。
我々一般人が世の中に湧き出し溢れ出る情報をすべて測定し、唯一無二の真実のみを抽出することはもはや不可能です。何より、真実は複数存在し、そのなかには受け入れがたい真実が多分に含まれます。
そういった情報に我々が対処するためには、「(情報を)対象とみなさずに、その特殊な実存を把握する」というバシュラールが詩的イメージを把握するための手法と同様の対応が必要なのだと思います。


私がどんな風に情報の信頼性を判断しているかを具体的に話してみようと思います。

結局、ヒトの危機については身体が全てのことを理解しています。そこでもとよりHSPである私は、その敏感さで受け取った危機信号をより信頼性を高めた状態で明確に示すことができるように瞑想による精神鍛錬を始めました。
瞑想は外部の情報をニュートラルに認識し正しく判断を下すために、心と身体の状態を観察し、整理します。そして仏教の瞑想が目標とする自我を超えた無我の状態、それは万物共通の自然物としての身体を自覚することなのだと思います。情報を受け取るためにまずはその状態を準備します。

そこから信頼できるかどうか、判断を下していく作業に入ります。
このとき、対人なら簡単です。芸術が発する電気信号(バシュラールのいう、詩的イメージ)をキャッチするのと同様にして、相手が発する電気信号をキャッチします。一瞬の表情であったり、一瞬漏れ出る感情の匂いです。(いや、実際感情が匂いみたいな感じで認識できるので顔を見ていなくても隣にいれば察知できるのですが、実際人間は感情で匂いが変わるようです。感情が変化するときにホルモンのシグナル反応により血中成分が変化しており、犬は人の感情をその匂いで認識しているという実験があります。どうやら鬼滅の刃の炭次郎も同様の能力をもっているらしいので、もしかしたら鬼滅の作者さんも感情の匂いが解る人なのかもしれませんね~。)
単純にみれば、相手のふるまいや言動に惑わされることなくその人の気質はわかります。(経験的に、わかりにくかったのは訓練を積んだ僧侶と、営業という天職に就いた狩猟者ぐらいな気がします。)
そうやって相手の内心を察知したときにああ、この人は何か隠してるなあ、とか、何か目的があるなあとか、そもそも合わない匂いだなあというのが明確な人は警戒したら良いですし、誠実であることを徹底している様子が明確で理性的な人はある程度信頼しても良いだろうと思って判断しています。
感情の匂いだとわかりにくく感じられるかもしれませんが、学生の絵を見た時に「おや、何か迷ってるのかな」とかわかる時があると思いますがそんな感じです。いちいち線の震えとか絵具の付きとかを分析してみなくてもきちんと絵が語っているのを受け取れますよね。「わからん、、、」という方は瞑想と絵画体験を繰り返して動物としての察知能力を是非取り戻してみてください。

それでも、人の意見や情報をそのまま丸っと受け入れて自分の行動にすること自体がそもそも危険であることは変わりありません。まずは信頼する前に発言者や内容を最初に身体で大まかに振り分けて、自分で納得するまで保留させます。
特に対人ではない状況(文面やZOOMなど)ではふるまいや匂いで判断することができませんから、直接の情報とのやりとりは特に保留することが一番大事かもしれません。情報にもやっとしたものを少しでも感じたら保留する。そして身体感覚をコンパスとして自分の頭で考える。
論文は当然信頼性の高いものなのでハードルは下がりますが、それでもその内容が理論的に合っていたとしても現実でも正しいかどうかは別の話です。
例えば私はアトモキセチン錠を服用していますが、奇跡レベルで薬剤の全ての数値が一緒であるトーワとニプロの錠剤において、何故か私にはニプロのものは全く効果が無いということがありました。薬剤師さんにも研究者さんにもまったく意味の解らん現象だそうですが、事実そういうことが起こるのでほんと信頼できるのは数値でも権威でもなく自然物である自分の身体の反応だけです。そして身体の差があればそれだけ真実は無数にある。

時間がかかっても確実な身体感覚で判断する。無数にある真実の中で生き物としてサバイブする。それによって自分の人生を生きることができているとはっきりと言えるので、万が一間違えた時も自分で責任を負えて安心です。
もやっとした回答ではありますが、「こうすれば真実が解る!!」みたいな判断方法なんて一番怪しいのでそんなものは言うことができません(笑)
そんな感じでしょうか。


私は社会をサバイブするために膨大な知性で拡張していくよりも生き物としての能力を活用しようとしているわけですが、人間拡張が一般的に期待されている昨今、Kさんは人間の理想的な在り方とはどのようなものだと考えられますか?よければ教えてください。

https://www.afpbb.com/articles/-/3127980
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/1800/
https://logmi.jp/business/articles/276594

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