往復note(14):老いないこと、死なないことへの回答

https://note.com/grasspanda/n/nb59e6e797b04

Kさん、お返事大変お待たせしました。前回の「note13:往復note (13): 老いないこと、死なないこと」の記事、とても面白く拝読しました。

人が老いない社会や死なない社会について、私も想像してみます。

Tさんは、人が老いない社会や死なない社会について、どんな想像をしますか?少し想像してみてください。それでは、質問です。Tさんは、最近読んだ本で印象に残ったものはありますか?あればそれについて、なければ近況報告みたいな感じでお願いします。


老いも死もない世界について考えてみたいと思う。

そのテーマを聞いて最初に思い浮かべたのは、ヴィルヘルム・ハマスホイの絵画だ。沈黙の絵画といわれるほど、彼の絵は何も語りかけてこず、時間が止まったような空間が描かれている。誰もいない居室、振り向かない女。日没か早朝か曖昧な動かない陽光。描かれるすべてのものは亡霊のように静寂をまとってたたずんでいる。この世界には神はすでにいないようだ。

もうひとつ、ロイ・アンダーソンの映画『さよなら、人類』もあげたい。こちらもハマスホイと同様、神のいない世界である。無意味で空虚な日々を皮肉を込めてたんたんと描いている。何も感じなくなった心の手触りがそこにある。

他界観念が無くなった世界で、C・レヴィ=ストロースのいうところの「人間の文化の領域」と「自然の野生の領域」の距離はますます開いていく。死を失った人間は、いつまで生きていることを覚えているだろうか。ただただ人間文化の領域だけで暇をつぶすのだろうか。多くの人々は毎日毎日同じ私を繰り返す。次第に人間の脈打つ鼓動も刻々と移り行く陽光も、永遠の命の前では退屈な働きに成り下がるだろう。夕焼け空に一日の終わりを感じて胸がざわつくことも、朝焼けの空に新しい世界を感じることもない。水になる空想も虫になる空想も鳥になる空想もここでは意味がない。幼いころの全てが初めて見るもので輝いていたあの感覚ははるか遠い記憶の中に薄れて消え去るだろう。尊いものはいずれ当たり前になり、色彩をなくす。

死というリミットが無ければ、まるでゲームの世界のようにただただ暇つぶしを繰り返すしかない。常に何かしらミッションがあり、そのクリアに向けて遊びに興じる。ゲームマスターの意向のもとにやるべきとされることは次々に与えられ、世界に縛り付けられる。プレイヤーは従順な心でひたすら与えられたミッションをこなし、ゲームマスター未満の頂点を目指す。ゲームの困難さを自ら選択することはできず、当然ゲームプレイが下手ならいつまでもミッションクリアの称号はひとつも得られない。ゲームチェンジが無ければ、あなたはひたすらダメなプレイヤーでいなければならない。その頃にはロイ・アンダーソンの世界の住人だろう。他界観念を失った我々に救いの神はもういない。冴えない男たちは売れないユニークグッズをひたすら売り歩くしかないのだ。


現代でも死は遠い存在となっている。生きていることを日常の中で感じることはどれほどあるだろうか。それでも幸いなことに、我々にはまだ死の時計を持っていて、生きていることの価値を思い出すことができる。その方法のひとつが芸術の体験なのだろうと思う。

Kさんへの質問

note大変tお待たせしました!!!おかげさまで、んんん…となっていたことが少しまとまったような気がします。

さて、今回のKさんへの質問です。

先日天理はならぁとへご一緒させていただいて、展示・企画についてお互い色々思うところ考えたことがあるかと思います。そのときに「一般の人々にはマルシェや講座など親しみやすい企画をやらなければ現代アートは受け入れられないのか?」といったような話をKさんはつぶやかれていたと思います。(ニュアンスが違っていたらごめんなさい!)そのことについてお聞きしたいのですが、Kさんは一般の人々がどの程度まで現代アートもしくは芸術を理解することが望まれると思われていますか?

現代アートがなかなか浸透せず「美術館にはよく行くけど現代アートは好きじゃない」と言われてしまいがちなことの問題点のひとつとして、現代アートと自分との中に同質性が見当たらない人々と現代アート現在地との乖離があるのではないかと考えます。

美術界隈の流行のスタイルや時事ネタなど、現代アートらしいしぐさを押さえておかなければアートとしての形態が崩壊する作品はたびたびみかけます。私は一般の人々にとってそのような現代アートしぐさがある意味「車界隈でいうところのシャコタン・鬼キャンをかっこいいと思う層が共有している価値観・文脈」に相当するのではないかと推測しています。車界隈外にいると、極端に車高を下げてタイヤを八の字に広げた改造車よりも改造していないノーマル車のほうが完成されていて品があるように見えてしまいます。しかし、改造車界隈には改造車界隈の文脈があり「新しいかっこよさ」が共有されています。もともとタイヤを八の字にしてキャンバー角を付けるのはコーナリングをやりやすくするための技術なのですが、それをデザインとして取り入れ過激にしたものが鬼キャンになります。そこに至った背景には車をかっ飛ばしたり改造する「俺」の自己主張があり、車+俺の融合が新しいかっこよさの価値観を生んだのです。「改造車/現代アートを理解できないトキメキの無い/低俗な庶民を啓蒙せねばならない」という風なことをおっしゃられる方も度々見受けられますが、上記のような一般人の価値観と離れたところで形成されていったものを理解してくれというほうが無理難題なのではないかと私は思うわけです。もちろん、ここには現代アートに対する誤解や小難しい話に対する拒否感などの問題も多分に含まれているのですが。

本当は一般人も最終的に現代アートを面白がれるようになるテーマパークのような超充実展覧会企画について何か提案があれば伺ってみたかったのですが、ちょっと話が膨大になってしまいそうなので、それはおいおい小分けにして妄想していけたら良いなと思います。(NFTや投資的価値づけでの現代アートの浸透は除いて。)


正直私も最近の時事ネタの顔色を伺い他の価値感や可能性を排斥する一部の現代アート界隈に辟易しているので、初めて現代アートを見たときの自由な庭としての多様性の面白さがより多くの人に伝わっていけば良いと願うものです。

以上です!ありがとうございました。

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