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死に際で見た幻覚

まずはじめに。この文章は、深夜2時、所謂「丑三つ時」に作成しました。怪物が歩く時間。妖気が開放される時間。僕の中の「名前のない怪物」を顕現させるにはもってこいの時間だ。その上、疲れで頭と身体がぼーっとしている時間だったからこそ、辛かった過去とまた対面することができた。
それでは、どうぞ。

苦い。苦い。苦しい。そんな僕の眼の前に立っていたのは「みんな」だった
「やあ!〇〇くん!元気だね!」「あんなに酷い人間だったのに、まだのうのうと生きているのか!いやあ参った、すごいなあ、君は」
こいつらは幻覚だ。少なくとも僕が知っている「みんな」ではない。明らかに口調も違うし、態度も…いや、これは魂の共鳴なのか?本当はみんなから嫌われていて、殺しの矢じりを向けられているかもしれない。だめだ。曖昧になる。
現実での「見せかけのみんな」
みんな個人の心の中にある「本当のみんな」
僕の魂の共鳴が映し出した「写像のみんな」
どれが、本当の「みんな」なんだ?
懐疑的になる。どんどん追い詰められる。みんなに貢献できているのか?みんなに嫌われていないだろうか?みんなから本当に必要とされているのか?

中学荷年生の頃、現実で悪口を言われたことがあった。
「俺お前のこと嫌いや」「あ、俺も!」「意味のわからんところで変なネタすんの嫌いだわ〜」「まじでおもんないてwww」
みんなが僕に、僕だけに殺しの矢じりを合わせて追いかけ回す。
そんな生活が、2ヶ月ほど続いた。
部活動でも、唯一小学生の頃から剣道をやっていて、まあまあ強いからというだけの理由で、やりたくもないキャプテンを無理矢理押し付けられていた。そして、何かあるごとに先生に責め立てられる。
全員が僕を睨む。お前のせいで負けたんだ。お前のせいでこの部はめちゃくちゃだ。
親も学校を休ませてくれない。頭がヒリヒリする。心臓がキリキリする。脳みそが沸騰する。
気づけば僕は、自室の2階から飛び降りようとしていた。新興宗教の道化師のように、極彩色でかつ、無彩色で。

「このまま死んだとして、誰かに肯定されるのだろうか」
ふと、そんな考えが頭をよぎった。なんだ、僕はただ肯定されたかっただけなのか。やっぱり皆が言う通りの薄っぺらい人間だな。
薄っぺらいなら、薄っぺらいなりにやってやるさ。

あの頃からもう3年と7か月ほど経った。今の僕は、昔のただ肯定されたかっただけの人間ではない。信頼できる友人、潤沢な知識、自由の利く環境。昔の僕からは考えられないほど成長できた。
だけど、それでも、あの頃のことだけは忘れられない。僕の心のビンは、もうとっくのとうにバリンバリンに割れてしまっているのだ。
過去のトラウマはこれからも僕を蝕み続けるだろう。肉体が崩壊するその時まで、ずっと。何があっても絶対に許さない。絶対に…

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