生まれ変わったら猫がいい

社会を生きていく上で、誰しも複数の顔を使い分けて生きているはずだ。
自分の所属の数だけ顔は存在するだろうし、家族、友達、知り合いでも振る舞いや態度を変えるだろう。自分を表出できる度合いや、表出する部分が、もはや対個人レベルで違ってくる。

人によって態度や振る舞いを変えることに関して、いい悪いはここでは問わない。よっぽど強い自我があるとか、守りたいものが少ない人でない限り、これは事実であろうと思うから。


ところで、動物占い、皆さんはやったことあるかな。動物と色をモチーフにして、人のタイプをいくつかに大別するというやつ。ちなみに私はペガサス。すげえ、想像上の生物も使われてんのか。ごめん、自分で例を出しておきながら全く詳しくない。
まあべつだん占いに限らなくても、人を動物に例えるシチュエーションって少なくない。人懐こいなら犬、気まぐれなら猫、他と群れないポリシーを持つ一匹狼。仲が悪いふたりのことは犬猿の仲って言うよね。

私は小さい頃、親に猫と言われていた。何がきっかけだったかは覚えていない。大きくなってから次第に言われなくなった。なんだったんだろうあれは。確かに一番の友達は猫のぬいぐるみだったし、焼き魚は家族で一番綺麗に食べたけど。
代わりといってはあれだけど、次第に犬だと言われることが多くなっていった。常にうるさくて愛情表現が鬱陶しくて構ってほしがりの困ったちゃんみたいなニュアンスで。小型犬、それもチワワのイメージ。静かにしてると心配されるくらい、騒がしい小型犬のイメージが定着しちゃっていた。

愛してほしくて必死で、誰かにしっぽを振っていないと落ち着かないみたいなところは、本意ではないけどぐうの音も出ない。本当は安心できるあったかい場所で日がな一日まあるくなって眠っていたいところだけど、猫だって野良ならごはんを貰うため人間相手にかわいく営業しなきゃならないのだ。


しっぽを振って愛想を振りまいているうちは、心を開いているように見えて、実際は相手を全く信用していない。そうやって無理をして、少しでも自分の株を上げ社会的に得をしようと頑張ってしまう癖がある。大体そうすることで良い印象は持ってもらえるけど、「一線を引かれている」と思われてしまうことが少なくない。
人間関係を損得で考えてしまう癖、どうにかならんもんかね。

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