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自分がどう世界を見ているか、それが写真だと思う

自分は一体、なにが撮りたいんだろう?

ワタナベアニさんの、「最初に、撮らないモノを決める。」を読んでから、ずっと考えている。



ここでは、「ついで」で写真を撮ることを問題視しているように思う。特段心を動かされたわけでなくても、なんかそこにあったから撮る、みたいな動機。「撮るために行動していない」「動かずに撮れるモノだけを撮っている」という部分、ドキッとさせられてしまった。
「散歩したからにはなんか撮って帰ろう」と思って適当に行きしな帰りしなにそこらを撮ってみるも、家についてそれらを眺めたらまるで魅力を感じなかった、なんてことが私はよくある。特に興味もない人と会ってその場のテンションで写真を撮りまくったときなども、同じことが発生する。
大抵、そういう写真はその日のうちや写真の断捨離をするときなどにまとめて捨ててしまう。まさに「撮るために行動していない」が故に、すっからかんな写真が産まれてしまう。

これらの写真は、どうしても撮りたいものがあってカメラを構えたときに出る、うまく撮れなかった数枚とは、格段に価値が違う。
なんていうか、すっからかんなのだ。写真を見たときに、この被写体ないしは風景の、どこに自分が魅力を感じたのかがまったく伝わってこない。構図やレタッチの都合じゃない。まず、被写体ないしは風景のチョイスからして間違えている。己の美意識にそぐわないものなんか、自己表現でもなんでもない。


こういう価値観のもと自分の写真を見てみると、被写体ないしは風景と出会って、ピンとくる瞬間ってものすごく少ないことに気がついた。
大抵、「あ、よさそう」と思って撮るんだけど、それは大体私の場合「こうしとけばとりあえず綺麗」みたいな雑な部分が往々にしてある。「撮りたい」よりも「撮っとこう」が先行する。で、大体ボツ。ほら、自分の美意識と向き合うのをすぐサボる。つーか、もっとシャッターって尊重されるべきでは?デジタル、しかもスマホという手軽さに胡座をかいてしまっている。
まあ、写真初めて間もないわけだし、トライアンドエラーの時期なのかもしれんが。いい加減、写真に関する価値観の洗い直しをすべきだ。

このたびトイカメラを注文したので、これを機にシャッターひとつひとつ切る度に自問する癖をつけよう。
「カメラはいらない」とか大口叩いてたけど、単に自分の好みや身の丈やライフスタイルに合うカメラに出会えてなかっただけだったみたい。お恥ずかしい。
「撮る」ために出掛ける、という行為も、なるほどカメラを持っているからこそ発生するものなんだろうな。ちょっとずつ始めていこう。


話を戻す。
私は作品として人間を撮ることが一切ない。そもそも、人間を撮った写真は余程好きな人間でない限り大体捨ててしまう。人間に興味がないんだろう。撮りたくなることがないってことは、つまりそうなる。
風景を撮ることが多いのは、そういうことかもしれない。

初めてデジカメを買ってもらった小学生から高校まで、長らく「建物や電線、電柱など直線的な風景と青空」の組み合わせを撮ることに傾倒していた。その後は夕焼けや朝焼けなど、空のグラデーション。子どもは狭い世界で生きているので、一つのものがとても際立って美しく見えたように思う。今はそれがブレまくっている。
美しいと感じるものが何なのか、どこに行けばそれに出会えるか、しばらく写真を撮るのをやめて考えてみるのがいいだろうか。


なんだ、写真の話も突き詰めていくと哲学だな。こんなに己の美意識が写真に反映されるなんて知らなかったから。
本来は記録の手段だったはずの写真がかくも芸術として確立しているのが、今は驚くほど面白い。

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