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君の音を聴かせてよ

 

 私が勤務しているホールは、音楽専用のホールだ。
そこで色々な演奏者のコンサートが行われ、私は時に受付、時に裏方、と役目を持って当日走り回る。
一応肩書きは「レセプショニスト」。名前は格好がいいのだが、チケットのもぎりからチラシのデザイン、ホールの掃除にドア係、クローク。いわゆる「なんでも屋雑用係」といっていい。
演奏技術しか学んで来なかった私には、最初とても大変な仕事だと感じた。
ひとつのコンサートを作るのに、裏方がしっかり働かなければならない。スポットを浴びる側から、支える側に回ったことで、仕事はやりがいがあると感じた。が、体力的にもキツイ仕事だった。

 あるとき、ホールの支配人から
「演奏できるスタッフのコンサートを開いては」
という提案があった。
現在常勤で支配人含め5名の正規スタッフがいて、その中で演奏学科を卒業しているのが、私以外にトロンボーンを吹く男性。非常勤のアルバイトスタッフの中には、音楽大学の学生が3人いた。そこで、1年後の予定で「スタッフコンサート」を開催することになった。
 演奏することからたった半年離れていただけで、こんなに弾けなくなっているなんて予想していなかった。無理のない曲を、と、支配人に言われたが、それでも、仕事の合間にする練習ははかどらなかった。
 その頃彼は、自分が関わっているプロジェクトのことで多忙だった。
お互い忙しい中、顔を見られる30分だけ、カフェのチェーン店で会うことが二人の持てる時間だった。

 本番3週間前。
私は急に何もかも怖くなり、ピアノの前に座ることができなくなった。
メールも電話も出られない程塞いでいて、誰とも会いたくなく、仕事に行っていても上の空だった。
 真夜中、テーブルに置いたスマホのランプが点滅していた。着信を見ると、彼からだった。3時間の間に、10回くらい以上。
 重い頭をあげ、着信から電話をかける。コール3回で彼の声がした。
「どうした、全然連絡が取れないが」
え、と、思わず声が漏れた。
電話の向こう側から、厳しい声が聞こえた。
「俺に返事できないほど忙しいのか」
私は声が出なかった。彼の声がだんだん強くなる。
「そんなに余裕がないのか」
「俺のことを忘れるほど仕事に夢中か」
「それとも別の男が出来たか」
違う、とつぶやくが、声が掠れてしまう。どうして、どうして声が出ないんだろう。
 
 気づくと、う、う、と、嗚咽が漏れていた。お互い忙しくて会えないのを我慢しているうちに、感覚が麻痺してしまった。連絡が取れないほど忙しい、なんて言い訳をしたくなかった。彼だって忙しいのに、私だけ大変なんだって顔をしたくないのに。でも、言葉が、声が、出ない。
「…お前、様子がおかしいぞ」
さすがに沈黙が続き、彼も私が普段と違うと気づいたらしい。
「顔が見えないのはもどかしいな」
時計を見ると、もう真夜中だ。私が黙っていると彼が言った。
「俺がそっち行ってもいいか」
確かに何度も私の家に来ている彼だが、こんな真夜中にいきなりやってきたら、両親が何事かと心配する。私は、なんとか都合をつけて家の近くまで出る、と告げた。それがやっとだった。

 そっと抜け出そうとして、母に見つかってしまった。咎める母に、「煮詰まっているので、夜風に当たりにいく」とだけ告げた。ラフなチュニックにコットンのパンツ、財布とスマホだけを入れたサコッシュを肩からかけた私はさぞ異様に見えたことだろう。母はため息をついて「気をつけて」とだけ言葉をかけてきた。

 彼は、私の家の近くの通りに車を停めて待っていた。ハザードランプがついていなくても、すぐわかった。
「乗れ」
促されて、私は助手席に乗り込んだ。彼の車に乗るのは、これで5回目だった。車の中は静かで、音楽はかかっていない。
「顔色悪いな。ちゃんと食ってるか」
「あなたこそ・・・疲れてるみたい」
「俺のことはいい」
「よくない」
「お前の方が心配だ。何があった」
 私は、スタッフコンサートのことを話した。出ることは自分で決めたこと。彼と会えない時間にずっと練習をしてきたこと。人の前で演奏をすることから離れてしまっていて、今とても怖くて逃げ出したいこと。彼のことを忘れたことはないが、忙しい彼に余計な心配はかけたくなかった。
「全く、お前らしいな」
鼻をつままれた。
「お前な、考えすぎなんだよ、いつもいつも。なまじっか頭がいいやつは、起こってもいねえことばっか考える。いるんだよ、うちのスタッフで。後輩の男でな、優秀なやつだが、考えすぎて頭から湯気を出してる。今のお前もそうだ」
褒められたのかなんなのかよくわからないが、少なくとも彼が私のことを「頭がいい」と思っているらしいことだけはわかる。そんなこと言ったら、彼の方がよっぽど賢くて優秀なんだけど。
 彼は公園の駐車場に車を止めて、尋ねた。
「もっとシンプルに考えろ。お前はそのコンサートに出たいのか。出たくないのか。どっちだ」
「出たい・・・」
自分でも驚く程、即答だった。そして、どういうわけかその言葉を発したあと、涙がこぼれた。
「なら、歯を食いしばって最後までやるしかねえだろ。立ち止まってる暇はない。だが、そんなことすら見えなくなっちまってたんだよ、今のお前は」
「う・・・」
彼が私の名前を呼んだ。そして「来い」と手を広げた。私は彼の腕に飛び込んで、泣きじゃくった。
 そのまま眠ってしまったらしい。気づいたら、朝日が昇る頃だった。
彼は私を抱き寄せたまま、優しく髪を撫でてくれた。私はしがみついて、また彼の胸で泣いた。
「朝だな」
「うん」
「めんどくせえから今日は休む。お前も休め」
大胆な提案に私は驚いた。忙しいんじゃなかったのか。
「プロジェクトは佳境だ。俺ひとり1日抜けて回らないなんて状態じゃない。お前のことも心配だ」
確かにそうだ。私もそういえば、このところ休んでいない。
「休んでどうするの?」
「のんびりドライブでもするか?」
それはいい提案だと私も思った。港の方に出て、湾岸道路を走るのも、山へ行くのもいい。
「やっと笑ったな」
また鼻をつままれた。私が口を尖らせると、彼はにやりと笑った。久しぶりに見る悪党顔だ。
「電話にも出ねえから、ついに俺は捨てられのかと思ったぜ」
「そんな…」
 はじめて彼が「好きだ」と言ってくれた日にくれたブレスレット。今も左手首にしている。ピンクのローズクォーツが少し、くすんで見えた。
「捨てられちゃうのは、私の方だと思ってた」
「なんでだ」
「こんな泣き虫の情けない女の子、愛想つかされたって」
「それも含めてお前に惚れてんだ。言わせるなよ、恥ずかしい」
 彼の顔が少し赤く、ほころんだ。

「俺は、”絶対大丈夫”なんて甘いことは言わねえ。世の中は、そんなにドラマみたいにいつもうまくいかない。だが、努力家のお前が積み上げてきたものは、無駄にはならない」
 彼は、スマホで会社に電話をし「急で申し訳ありませんが、連日の残業で疲れているので、余っている代休を使います」と告げた。休みは簡単に取れたらしい。私も、職場に休みを告げると、今日はコンサートがないから休養をとってもいいと支配人に許しを得た。

「お前の演奏を聴くのは久しぶりだな。行くからな、コンサート。だから、最後まで足掻け。お前はそれができる」
私は頷いた。
 乾いた彼の唇が、私の唇に重なった。

「聴かせてくれ。お前の音が好きだ」
低い声は甘さを含み、私の耳をくすぐった。

BGM:ブラームス「インテルメッツォ 作品118-2」


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