恋女房染分手綱「道中双六の段」あらすじ
恋女房染分手綱
道中双六の段
丹波の国、城主の由留木殿のお湯殿子である調姫は年月が経つのも早いもので十二歳になった。
かねがね約束していた江戸の入間殿への婚礼が正式に決まり、今日はその嫁入りの旅立ち当日、城内は忙しく賑わっていた。
江戸から迎えの本田弥三左衛門という家老が、待ち合わせの朝の九時を前にして訪れていた。
「それでは、お供が揃ったら若年寄から出発なされ。わしはしんがりをつとめる。全て昨晩伝えた通りだ。若い者ども、雑兵、走り使いに至るまで、大酒をしないように。馬の乗り継ぎ、船渡しでも気をつけるよう。宿では茶屋の給仕にでれでれとうつつをぬかすな。
とはいえ。
長い道中だ。下々も退屈のすることだろう。色ごとは目につかぬように致す事。
めでたい事だからとはいえ、姫のお供だ。多少は我慢いたすように」
家老の言葉に、家来たちは「はっ」と答えて、あとはいよいよ姫が来るのを待つのみである。
奥から女中の声が聞こえた。
「お待ちになってください、お姫様」
女中が調姫を呼び止めている。どうやら姫は関東に行くことを嫌がって逃げているようだ。
「乳母の重の井殿の背中もぶたれなされて、ご機嫌も損ねております」
そこへ、泣き腫らした目をして調姫が走り出てきた。
「江戸も東もいやじゃ。行かない!」
追いかけて、乳母の重の井も出てきた。
「お姫様、下々の子供でも九つや十では聞き分けがございますよ。ご覧ください、百里も向こうからお迎えに来てくださったみなさまを。江戸へ行かれたら入間様の総領嫁御とおなりになるのです。私のお育てが悪かったということになれば、私は切腹しなければなりません。さあ、良い子。お嫁入りいたしましょう」
「江戸がよいものというのは皆の嘘じゃ。腰元たちの唄を聞け」
調姫は自身の遊び相手として仕えている十二、三歳のお伽小姓を傍に呼んだ。
お伽小姓は唄い始めた。
〽︎山も見えざるかりそめに江戸三界へ行かんして、いつ戻らんすことぢゃやら、殺しておいていかんせの、放ちはやらじと泣きければ
重の井が不機嫌にお伽小姓の唄を止めた。
「誰に習ってそんな派手な歌を姫様に教えたの」
本田もどうしてよいやら分からない。
「お姫様、あれは人々のおふざけです。花のお江戸は京にもまさって良いところですとも。浅草上野の花盛り、堺町や木挽町では芝居太鼓の賑やかなお囃しで弁慶や金平が切り合いを見せてくれます。
それになんといっても江戸へ行くまでの道中の素晴らしいこと!富士の山という天まで届く山をご覧にいれましょう。
以前私がご結納のお使者で参ったとき、お姫様はまだお二つでございました。光陰矢の如しとはこのことで、そんなふうにやんちゃなことを仰るまで長生きをなさるとは感服いたしております。
さあさあ、ご機嫌を直していただいて、こちらへお越しになってください」
本田の力いっぱいのなだめすかしにも、姫は「いやじゃいやじゃ」と駄々をこね、重の井も「どうしてよかろう」と困り、ご家老本田も手の打ちようがなくなってしまったのだった。
そんなところへ中居の若菜が走り入ってきた。
「重の井さま、面白いことがございます。あちらで十歳ほどの小さな馬方が『道中双六』という東海道の絵の描かれた遊びをしていました。
お姫様のご機嫌直しにお目にかけられてはいかがでしょうか」
これは良いことを聞いた、と重の井はその子供を呼んでくるように命じた。
やがてその男の子が金の間へと連れられてやってきた。
馬方とあって、洗練されていない身なりである。
ざんばらの髪で、姫の前だというのにもかかわらず、縁先にどっかりと座ったのだった。
「ばかばかしい!」
第一声はそれだった。
「仲間うちで道中双六を打って、靴の銭の足しにでもしようと思っていたのに!
それならさっさと出発しよう!さあ馬を出そう!」
「船頭、馬方、乳母と皆同じことじゃ。利巧な子だこと。歳はいくつじゃ? 名前は?」
重の井はつっけんどんなその子どもの馬方に尋ねた。
「歳は今年で十一。五つからこの仕事をしている。名前は山芋の三吉」
「三吉。良い名じゃ。
道中双六があるということだが、皆で遊ばぬか? さあ、腰元たちも来い。姫さまもいっしょに遊びましょう。
さあ、三吉、遠慮はいらぬ、こっちへ来い」
三吉はとくに遠慮をする素振りもなく「はい」と答えると女中たちのそばにやってきた。
そうして東海道の絵を取り出すと皆の前に広げて見せた。
東海道五十三次を、歩くことなく膝の歩みだけで制覇できるこの双六。
膝栗毛の馬に「はいどう」と掛け声をかけて進め、歩んでいくように楽しめる。
さいころは桜の木。
花の都を真ん中に、さあ琵琶湖へ進もう。
打出の浜から大津の宿へ。
どさくさまぎれに旅人たちが「乗り遅れるな」と乗り込んでくるのだ。
草津では有名な「姥が餅」がある。
もう少し進んで水口の宿ではどじょう汁が有名だ。
どじょうの踊り食いなどもある。
鈴鹿山脈を越えることができるかは、さいころ次第だ。
さあ、さいころを振って。
鈴鹿山脈を降りていく。
鈴鹿関から亀山の宿へ。
石薬師の宿、桑名の宿。
東海道唯一の海上路、七里の渡しから宮宿へ。
どんどん進んでいく。
場所場所で名物がたくさん。
お金がつきないように気をつけて。
鞠子宿。手鞠で遊ぶのもいい。
府中の宿、江尻の宿。
興津の宿では有名な三保の松原がある。
海岸沿いに三万本もの松が生い茂っているのだ。
また、観月の名所といわれる清見寺もある。
蒲原の宿、吉原の宿。
うなぎの蒲焼きが美味しいのは沼津の宿。
江戸がどんどん近づいてきた。
三嶋の宿を越えると、箱根の宿へは三里ほど。
さいころ次第ではここで関を越えることができるか、関所手形を忘れたことで振り出しにもどる悪手もある。
三吉は姫の進み具合を見た。
「合点か」
重の井に言う。
「承知した」
ういろうが有名な小田原の宿、大磯の宿、藤沢の宿。
妨げもなく姫のさいころは幸先よく進んでいく。
戸塚の宿、保土ヶ谷の宿をこえて、川崎の宿。
真っ先に駆けていく姫。
品川を越え、一番に江戸に着いた。
なんとも楽しい道中双六である。
興にいって、また、お側の衆たちにもはやされて、調姫はご機嫌だ。
「江戸に行くことがこんなに面白いとは知らなかった!さあさあ行こう行こう!」
先ほどまでとは打ってかわって、江戸へ向かうことに姫は乗り気になったのだった。
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