2020.3.11 元競技ダンサーがアルゼンチンタンゴを踊ると

9年前の震災の日もダンスを踊っていて、そして9年経った今日もまたわたしはダンスを踊っていた。そう言うと運命的な響きがあるような気もするが、実際のところは人生の半分くらいの時間は毎日のようにダンスを踊っていたので、その中のたまたま1日だったというだけだ。

そんななんでもない1日になるはずだった大学3年生の終わりの、あの日。「もし今日死んでいたとしたら就活をしている自分に後悔するのではないか?」と思っていっさいを辞めて、わたしはそこからしばらくダンサーになった。直接被害にあったわけではないのに、少なくとも人生の方向性を決める大きな出来事だった。きっと日本中にそういう人がたくさんいるのだろう。現在の新型コロナ騒ぎも、のちに振り返った時にそんなふうに思う出来事になるのかもしれない。

自分をダンサーと言える自信がないくらい踊らない時間が長くなったけど、それでもまだわたしはダンスシューズを履いている。今日は、前回連れて行ってもらったタンゴ教室のグループレッスンに参加した。前職の同僚2人が通っている教室で、その2人も参加していたので久しぶりの再開だった。

この前踊った先生と、今日教えてくれた先生は、同じタンゴを踊っているのにだいぶ感触が違う。どう違うのか説明するのは難しい。動の色気と、静の色気、みたいな感じだろうか。生命力とエネルギーがびしばし伝わってくる踊りと、落ち着いた佇まいの中で柔らかな力強さを感じる踊り。どっちもそれぞれ素晴らしい。

社交ダンスの時もそうだったが、本当に触った瞬間にひとりひとり違うので面白い。手を触ると、その人がどんな身体の使い方で、どんな精神状態で、どんなふうに踊るのかなんとなくわかるような気がするし、それは踊り始めるとだいたい当たっている。人間の身体というのはすべてがそれぞれ違うのだ、という事実にいちいち感動してしまう。そしてそれがしっかり噛み合った時の気持ちよさも。

今日は初めてワルツの曲で踊って、こんなに自由に音で遊んでいいんだな、ととても楽しかった。まだ4拍子で刻むような音楽はいつ足を出せばいいのかよくわからないところがあるが、ワルツは「こう踊ったら面白そう」というイメージが浮かぶ。

社交ダンスに慣れてしまうと、タンゴに戸惑う部分はいくつかあるのだけど、わたしが感じた違和感は特に「音楽の捉え方」と「体重移動のタイミング」の2点だった。

社交ダンスのステップは基本的にステップごとに使う音の拍子が決まっていて、同じステップで始まりが同じなら誰でも同じタイミングで踊れるものだ。でもタンゴでは、どうやらそういった定型の音の取り方というのはないらしかった。

また、体重移動も「このステップの時はこちらの足」というのが社交ダンスでは決まっているけど、タンゴも基本はあるものの、それもちょっと曖昧というか、リード次第で変わりうるものみたいだ。体重を集めて足を揃えてきたのに、その足に乗り換えずにそのまま出て行くことがある、というのがいまいち慣れない動きなのでよくわからない。なぜそのようにできているのか、というのをもっと知れば戸惑わずにできるものだろうか。

レッスン代支払い用のプリペイドカードも買ったことだし、定期的に通って解明していきたいと思う。ちゃんとタンゴシューズも買わないとなあ。では、今日は運動したおかげもあり眠いので、短いけれどこのへんで。

たのしいものを作ります