さきち
「人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり」 かの有名な中国春秋時代の哲学者「老子」の言葉にこういうものがある。 「人のことを理解できる者は智者(道理を弁えた、賢い人)であるが、己を理解できる者は明智(優れた知恵)を持つ者である」 数々の文化や感情を許容して噛み砕き、その先に出てくる事象を理解すること。そうして己をより深く客観的に観察する力を養うことで、己を知る。 まずは人を理解する。そして自分の本質を理解する。 そんなきっかけをくれる文章を集めたマガジン。
個人的に好きな映画の感想をまとめています。
日常に垣間見える細やかな幸せ。ほっこりと「生」を実感出来るシーンを集めました。
六 「チョコがいい!チョコだけがいい!」と娘。 「え!ミックスじゃなくていいの?大人になったねえ。わかった!チョコだけのやつね」とパパ。 七 「タッタンッ、タッタンッ」 自転車がマンホールを踏む。 八 「あっつ〜」 Tシャツの胸の部分に、つまんで扇いだ跡がついてる。 九 「風すらも味方してくれないぜ」 「たしかにな」 と話す2人の男子小学生。 十 「今日は半月だね〜」とお母さん。 「ほんとだ!あれは上弦の月だよね!」と息子。 「そうだね〜」
夜更けにひとり、公園でブランコを漕ぐ女性。 彼女はなにを考えるんだろう。 なにを考えているんだろう。 次の日、少しでも彼女の思考に近づこうと。 彼女に寄り添おうと、 夜更けにブランコを漕いでみる。 家々に灯る明かりが次第にぽつりぽつりと、深い闇に溶け込んでいく。 あたりを照らすのは滑り台と砂場の間に置かれた一本の街灯だけ。 時折り勢いのなくした蝉が短く鳴く。 スズムシの鳴き声は近頃涼しくなってきた夜を、 さらに涼しく感じさせた。 彼女と同じ漕ぎ方、同じ角度で夜空を眺
蟬が鳴く。 ジリジリと照らす陽の下で、ジージーとバスが歌い始めると、ミンミンとテノールが声を合わせる。 自然が作り出すハーモニー。 しかし僕は、蟬が嫌いだ。 1週間か2週間そこら、全力で鳴いて、無力に死ぬなんて…。 美しすぎやしないだろうか。 彼らは僕らにどんな印象を残そうと、あれほど鳴き続けるのだろうか。歌い続けるのだろうか。 僕らは思う。 蟬の命は儚いものだな。 あるいは、こう思うかもしれない。 蟬のように全力に生きれたら、気付いた時には無力に死ぬことが出来て
夏になると、少年たちは海に出かけ、 暑い日差しを全身に浴びながらこう言うだろう。 今年こそは、 今年の夏こそは愛する人を見つけてみせるぞ。 真夏になると、少女たちは思うのだ。 またこの季節が来たわね。 今年は誰にしようかしら。 夏になれば恋が蕾を開き、愛が実るだろう。 その儚く美しいひとときを、少年少女は心の底から楽しむだろう。 近い将来、青春時代はこうだったと語ることになるだろう。 そうだとしても…。 今年もそんな夏が、脆く麗しい接吻が、 徐々に、しかし着実に
拘りのないイヤホンで、夏に向けた涼しげな音楽を聴く。 慌ただしかった上半期は終わりを告げ、落ち着きを求める下半期が到来する7月の初めだ。鎌倉に向かっている。 風にのる潮の香り、周りには山々が聳え、絶妙なバランスを保つように海が見える。 浜辺ではしゃぐ水着と、 きのこに見える砂浜に生えたパラソル。
娘たちの肌が次第に露出し始める頃 その透ける肌や下着に僕らは それぞれに自分勝手な妄想と 自己中心的な愛情を抱く その美しさを何に例えようかと 僕らは身勝手に考え 娘が願わずとも詩人になる 自己中心的な愛情は娘たちに 一度 偽りの幸福を授け そして永遠の空虚をもたらす そうと気付かず僕らは それでも自分勝手な妄想にとりつかれた 身勝手な詩人として 存在しないわけにはいかないのだ 永遠の幸福を求めて
午前8時。夏真っ盛り。 いつもより少し早起きをして、近くの公園にランニングに向かう。太陽がカンカンと照っている。しかしながら公園での朝のランニングはとても気分が良いものだ。 公園をゆっくりと走っていると普段気にもしないことが目に入ったりする。道端に咲く色鮮やかな花々。青や黄色、ピンクといったものもある。葉の上をスタスタと歩く鳥たち。鳩、鴨、椋鳥。フサフサと生い茂る木々。池で日向ぼっこする亀。青い空。 そういったものの中に蝉の死骸があったりする。 夏の始まりに蝉が殻を破り成
午前11時。欠伸が出る。 コンビニで軽い朝食を買って、駅に向かう。 駅に入ると「エスカレーターをご利用の際は、手すりにお掴まりください。」と、形式的な女性の電子音声が聞こえる。 エスカレーターの数に合わせて、上り下り分の音声も含めて。 「エスカレーターをご利用の際はエスカレー手すりにターをご利用のお掴まり際はエスカくださ手すりにいレーターお掴まりくだをご利用の際はエス...」 山彦とは違うが、何よりも雑音に近いものには変わりない。 エスカレーターをご利用の際は、手すりに
かくかくしかじか、昔話をします。 自己紹介とも言えましょうか。私が文章を書く理由について。 今のところ投稿している文章、文章と言えるかどうかは別として、は殆どが4年前から6年前の文章で、その当時の癖として携帯のメモに残すというものがありまして。 何か思い立てば書く。 朝起きて、東から登る橙から黄色に輝きはじめた太陽に心が打たれれば短い文章を書き、少しばかし理不尽な夕立に遭遇すればその気分で文字に起こす。 新たな恋に心踊らされれば恋文とも取れる言葉を紡ぎ、はたまたひと
「今日も悪い天気だな」 午前10時、僕はつぶやく。 実のところ、ここ1週間ずっと雨が降り続けている。 朝起きると灰色の雲に覆われた空が窓から見えるのだ。それが1週間目となるとさすがに嫌気もさしてくる。 そろそろ朝陽を浴びたい、とそう思うのが普通だと思う。まさにそういう気持ちなのだ。 天気、と言ってみる。 よく考えると天気とは実にわかりやすい言葉なんじゃないかと思えてくる。天の気持ち、天の気分。要はそういうことなんじゃないかと。 今はすごく天の気分が悪いのだ。1週間と
わたしは、 あなたに溺れているのかな? それとも、 わたしに自惚れているのかな? わたしは、まだ、
あなたは見違えるほど美しくなった。 私の体は止まったまま、 私の心は止まったまま。 チクタクチクタク、 と時間は進んで行くけれど。
悲しみの喜びを知って なにを思っているんだろう、 西日の差す窓辺で あなたは毎日白ワインを片手に、 日が沈むのを眺めている。
一 「また走るの付き合ってや」という関西弁の男性 「はい、是非!」という関東弁の後輩 「ありがとうな」 「ありがとうございます!」 二 「胃が痛くなることばかりだよ」 と2人の娘に話す父 三 『褒め方叱り方』 という本を読む よく怒りそうな女性 四 「面白いと言ったらお笑い、お笑いと言ったらテレビ、テレビと言ったら、、、」 という兄妹 五 「お母さんが外出たらなんで雨が強くなるんだろうねえ〜」と母 「正解はあ??」と小さな娘 「お母さんは雨女だからだよ〜」
それでも男たちは 身の回りで起きる数々の気に食わないこと、 その発生場所について文句を言い合っている。 その男たちは 文句という共通点を抜きにしては仲良くなり得ない人種だった。 時に、文句は人をつなげる。 しかし、その周りにいる人々を無意識に遠ざけている。 そして意識的に、 傷付けている。
間違いやすい世の中だ 力強い渦に呑まれるように 自らを失っていく 僕らが求めるもの 僕が求めるものは? 渦中、がむしゃらにもがいても ふりほどいても 先には闇が広がるばかり その闇に一歩足を踏み入れた するとまるで夢のように 光に照らされる 闇は足を引っ張るんじゃない 心を、身体を、 スッキリ洗い流してくれた 僕らはこの日差しの中で 白昼夢のような そして、地に足をつけるのだ 闇に気付いても恐れない その先に明るい未来があるのだと