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サン=テグジュペリ 人間の土地

今日のおすすめは!
サン=テグジュペリ 『人間の大地』


*定期航空

・先輩パイロット達の高慢で教訓めいた言動
・寡黙な老操縦士の天使のような高貴さと憧れ
・死に無関心な支配人
・計算をするだけの機械のような仕事捌きへの軽蔑
・僚友ギヨメが地図に描き出す生き生きとした小さな目印と励まし
・窮屈で息苦しい狭い世界に留まる白蟻のような人々
・初めての郵便飛行への期待と不安
・雲海の上の非現実的な美しさ
・砂漠での遭難中の懲戒通知と役人への憤り、自由の喜び


雷雨や濃霧や雪などが、ときどき君に難儀をさせるかもしれないが、そんなとききみは、自分以前にこれに出会った人たちのことを思い出すのだ、そして自分に言ってきかせるのだ、他人がやり遂げたことは、自分にもできるはずだと。
ただ、ゴーデスの近くに、ある原っぱを囲んで生えている3本のオレンジの樹について〈あれには用心したまえよ、きみの地図の上に記入しておきたまえ…〉と、言った。
するとたちまちにして、その3本のオレンジの樹が、地図の上で、シエラネヴァダの高峰より幅をきかすことになるのだった。

彼はまた、ロルカの市については何も語らなかったが、ロルカの近くにあるつまらない一軒の農家について語った。

・ギヨメのような友人や家族がいたらどんなに心強いだろうか。
「頑張れ!」と率直に励まされるのも心強いが、無味乾燥な地図上に可愛らしい目印を与えてくれる励ましも素敵。

***

小学生の頃、家の周りの田んぼ道をおばあちゃんと妹の3人で散歩するのが日課だった。
友達のように顔なじみの小さな黄色のお花や大きな1本のまっしろな白樺を「美人さんの木」と名付け、毎日「こんにちは!」と元気に挨拶していた。
当時赤毛のアンや小公女などを好む文学少女であった私は、何にでも命や心があるのだと信じており、美人さんの木も、凛と澄ましている舞妓さんのような女性だと憧れていた。
他の緑の木に混ざって佇んでいる彼女に、思いっきり息を吸って全身全霊で挨拶する。その声が澄んだ森の中に吸い込まれていくのが気持良かった。

春になると、ヘビ苺ではない、本物の木苺がなる秘密の茂みによく行った。
赤くて丸いぷりぷりな木苺と、紫色で細長くて食べると舌が真っ黒になる桑の実。
木の籠いっぱいに摘み込んで、おばあちゃんちまでの帰り道を、いつもよりゆっくり歩きながら、太陽に透かしてみたり1粒1粒じっくり味わった。


広い未知だらけの世界の中で、あの散歩道では、いつでも見守られているような安心感に溢れていた。
不安でいっぱいの世界に飛び出した時、ギヨメの目印は、どんな実践的な地理学よりもサン=テグジュペリに心の平穏を与えただろう。

本当に飛んだ者しか知らない視点だからこそ、不安になった時、ここをギヨメも通ったんだと思い出し励まされたかもしれない。

また、山脈や森で迷った時、その3本のオレンジの樹を見つけたら、知らない土地でギヨメを見つけた時のようにほっとしたと思う。

私も自分の愛する人達が困っている時や不安定な時、ギヨメのように「だいじょうぶだよ、辛い時は思い出して」と可愛らしくも頼もしいお守りを渡せるような人間になりたい。


打ち明け話を小耳にはさんだ。
それは病気のことやお金のことや、世帯の苦労のことだった。
それは、この人々が自らをしめこんだ生気のない牢獄の壁を示していた。
ついに何ものも君を解放してはくれなかったが、それはきみの罪ではなかったのだ、きみは、かの白蟻たちがするように、光明へのあらゆる出口をセメントでむやみにふさぐ事によって、君の平和を建設してきた。
きみは、自分のブルジョア流の安全感のうちに、体を小さく丸めて潜り込んでしまったのだ。
きみは人間としての煩悩を忘れるだけにさえ、大難儀をしてきたのだ。
きみは答えのないような疑問を自分に向けたりはけっしてない。
何ものも、最初きみのうちに宿っていたかもしれない、眠れる音楽家を、詩人を、あるいはまた天文学者を、目覚めさせることは、はや絶対にできなくなってしまった。
こうして、職業の強制する必要が、世界を改変し、世界を豊富にする。
昔ながらの景観の中に新しい意味を発見させるためには、なにも特に、いまここに書いたような夜を、必要とするわけではない。
すると明るい点々が、陰の中に光っていた、煙草がてんでの思い思いの瞑想に、句読点を打っているのだ。

→息を吸う時に煙草の先端が赤く光を放つ。そして喫煙者は思考する。そして、思考の区切りがついた時にふうと吐き出す。



*僚友

・メルモスの航空路の開発とアンデス山脈での遭難
・メルモスの死と受容
・ギヨメの遭難、捜索活動、邂逅、死
・1人の若い自殺者
・庭師のまことの死

彼らはしばしば自らの手でその耕したあの南大西洋の波間に眠ってしまったのだと。
メルモスは自分の仕事の背後に隠れてしまったのだった。
麦刈り男が、きちんと束に結わえあげてしまうと、自分の畑にごろり寝転ぶようにして。
彼はそのような、ありきたりな美徳の彼岸に身を置いている。
勇気を賞められて彼が肩をぴくりとさせるのは、彼の聡明さがさせるのだ。
彼は知っている、何人にもあれ、ひとたび事件の渦中ではいってしまったらけっして恐れたりするものではないと。
人間に恐ろしいのは未知の事柄だけだ。
だが未知も、それに向かって挑みかかる者にとってはすでに未知ではない、
ことに人が未知をかくも聡明な慎重さで観察する場合はなおのこと。

彼の偉大さは、自分に責任を感ずるところにある、自分に対する、郵便物に対する、待っている僚友に対する責任、彼はその手中に彼らの歓喜も悲嘆も握っていた。
彼には、かしこ、生きている人間のあいだに新たに建設されつつあるものに対して責任があった。
それに手伝うのが彼の義務だった。
彼の職務の範囲内で、彼は多少とも人類の運命に責任があった。
人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。
人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。
人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。
ぼくは死を軽んずることをたいしたことだと思わない。
その死がもし、自ら引き受けた責任の観念に深く根ざしていない限り、それは単に貧弱さの表われ、若気の至りにしかすぎない。

ぼくはかつて1人の若い自殺者を知った。
どんな恋の悩みが彼をして、入念に、自分の心臓に一弾を打ちこませたものだか、ぼくにはもう記憶がない。
ぼくはまた、どんな文学的な誘惑に駆られて、彼がその手に雪白の手袋をはめたのやら、知らない。
この人間の頭蓋の中には、何ものも存在しなかった。
何ものも。
存在したのは、ただ他の多くの娘と同じような愚かしい一人の娘の姿だけだったのだ。

この言葉…。ここでは詳細を語れませんが、これまでの様々な辛い事件を考え、死を軽んじてしまう時に、一歩立ち止まり、一生心に留めておくべき座右の銘のような存在となりました。


「このごろでは、わしは土を掘って掘って掘り抜きたいほどですわい。
土を掘るってことがわしには、いい気持ちなんでさあ!気が楽でさあ!
それにわしがしなかったら、だれがわしの樹木の手入れをしてくれましょう?」
彼は自分が耕さなかったら、地球全部が荒無地になるように思えるのだ。
彼は愛によって、あらゆる土地に、地上のあらゆる樹に、つながれていた。
彼こそは仁者であり、知者であり、王者であったのだ。




*飛行機

・人類の未熟さ
・道具の進歩、生活に馴染むこと

1本の円柱、1本の竜骨、または1台の飛行機の機体に、女の乳房の、女の肩の曲線の、あの単純な純粋さを与えるまでには、多くの世代の経験を積まねばならなかったのだ。
発明の完成はかくて、発明の忘却とその境を接するのだ。
そして今日われらが用いる器具を見ても、目立つようなからくりはすべてすこしずつ消え失せてしまって、海が磨き上げた小石と同じほど、自然な品物となっていると等しく、使われているうちに機械が少しずつ自らを忘れさせてゆきつつあるのも、確かに賞讃すべきことだ。




*飛行機と地球

・人間の生活圏は地球のほんの一部。飛行機によって自由を手に入れた。
・火山を見下ろす景観の移り変わり。人間の生活圏への変化。
・人間と人間の隔たり
・不帰順族の領域内への着陸
・人類未開の土地、人類の干渉を受けていないありのままの地球の美しさ
・何千年万年もそこにある隕石、宇宙との繋がり
・地球の磁力、地球との繋がり
・砂漠の不時着。何も持たない自分。
・慎ましく暖かい生活。
・凝り固まった安全なで居心地の良い世界にとらわれている老嬢。

ぼくらも長いあいだ、曲がりくねった道路に沿うて歩き続けていた。道路は不毛の土地や、石の多いやせ地や、砂漠を避けて通るものなのだ。(…)
飛行機のおかげで、ぼくらは直線を知った。(…)
泉を追いかける必要から解放され、ぼくらは遠い自分達の目標に、ぴたりと機首を向ける。
するとはじめて、ぼくらの直線的な弾道のはるかな高さからぼくらは発見する、地表の大部分が、岩石の、砂原の、塩の集積であって、そこに時折生命が、廃墟の中に生え残るわずかな苔の程度に、ぽつりぽつりと、花を咲かせているにすぎない事実を。

直線を知った事に喜びを見い出せるのも、宮崎駿先生の仰る、当時の飛行機乗りにしか分からない空の1つかもしれない。


ぼくはあなたを感激させるために、あなたの目を世界に開かせるために、あなたを籠絡するために、自分が飛び越えてきた死の危険を物語ったものだ。
あなたはおっしゃった、ぼくがいつになっても変わらないと。(…)
違いますよ、違いますよ、ぼくが今度帰ってきたのは、庭の奥からではありはしませんよ、ぼくは世界の果てから帰ってきたのですよ(…)
すると、あなたはおっしゃるのだった、とかく男の子というものは、駆けずりまわったり、難儀をしたりすることで、自分を強いと思っているものなのですよ、と、こう。

教会の修道女の信念が動かしえないと同じように、ぼくにもこの老嬢の信念は動かしえなかった。
そしてぼくは彼女を盲にして唖にしているその貧しい運命を憐れんだものだた…。
この同じ世界に棲みながら、ひとり人間だけが、自分の孤島を築きつづけているのである。
なんという大きな空間が、人と人とのあいだの心の通い路を閉ざしていることか!
彼女は、一人の恋人の、思いと、声と、沈黙で、自分の王国を築き上げることに成功した。
するとそのとき以後、彼以外の男はすべて、彼女にとっては、野蛮人でしかなくなってしまったのだ。
他の星に棲む者以上に、ぼくには彼女が、自分の秘密の中、習慣の中、自分の記憶の楽しいこだまの中に閉じこもっているように思われる。
昨日、ようやく、火山から、芝生から、または海の中から生まれ出たばかりだというのに、早くも彼女は神様になっている。
人生とは一種の贅沢なのであって、人間の足の下には、どこに行っても、深さのある土地などはありはしないという事実を。
砂と星とのあいだで、素裸で、自分の生活の中心からあまりにも多くの沈黙に隔たれている自分の今の身の上を。
なぜかというに、ぼくは知ってたからだ、その中心に辿り着くために、ぼくは日々を、習慣を、月々をすごすであろうことを。
いまこうしてここにいるぼくは、世界中に何ひとつ所有しないぼくだった。



*オアシス

・アルゼンチンの趣ある家への宿泊
・溌剌とした2人の娘からの品定め
・蝮の試練、微笑、打ち解け
・娘から女になること

二人は妙に挑戦的な態度で、黙りこくってぼくに握手の手を差し出し、そのまま姿を消していった。
ぼくは、面白くもありおかしくもあった。
すべてが単純で、言葉少なで、ひそやかで、ちょうど、ある秘密の最初の一語に似ていた。
不思議な家ではあった、それは投げやりだとも無精だとも全然感じさせず、ただ異常な尊敬の念をおこさせた。たぶん、年々が新たな何ものかを、この家の趣に、その表情の複雑性に、その友誼的な空気の熱意に、また客間から食堂へ通う途中の危険に、加えつつあるのに相違なかった。



*砂漠で

・砂漠での孤独
・時間の流れ
・屯所での歓迎、帰郷への憧れ
・匪賊の進行
・郵便機の到着を待つ不安、嵐の予兆
・モール人との交渉
・モール人の信仰心の揺らぎ、叛逆
・駱駝の略奪
・人身売買されるモール人
・働けなくなると砂漠へ解放される奴隷
・サン=テグジュペリが解放した奴隷の門出
・砂漠に帰郷した時に気付く故郷の狭さと自分の成長

ところがぼくは、ジーッという音を聞きつける、ぼくのランプに蜉蝣が突き当たったのだ。なぜというわけもなしに、この蜉蝣がぼくの心臓をつねる。

するとまたしても、ぼくは曖昧な気持に襲われる。
それは喜びかもしれない。あるいは不安かもしれない。
とにかくそれは心の奥から来る事は確かだが、まだ漠然としていて、わずかに口を動かすに過ぎない。
いまぼくを原始的な悦びで満たしてくれているのは、天地間の秘密の言葉を、言葉半ばで自分が理解した点だ。
未来がすべて、かすかな物音としてだけ予告される原始人のように、ある一つの足跡を自分が嗅ぎ付けた点だ、この天地の怒りを一羽の蜉蝣の羽ばたきに読み取った点だ。

小学4年生から合唱部に入部し、ある程度の音楽感を身につけた段階から
ずっと考えていたことがある。
五線譜に表せない、私達が何気なくたてる生活音や町中の環境音、演奏会の張りつめた「沈黙」や「咳払い」さえも、「音楽」なのではないかと気付き、部活仲間に話していた。
全く共感は得られず、中学生になったある日、ジョン=ケージの「4分33秒」の存在を知った。
その時の感動は正に、言葉半ばで自分が理解した点にあった。
そして大人になった今、あの時の感動を言語化できた事を嬉しく思う。


モール人の子供たちは、この黒い漂流物の傍らで遊んでいる。
そして毎日、夜が明けると、まだ動いているか、駆けて見に行くのをおもしろがっていた。
おもしろがってはいたが、年老いた自分たちの家族を嗤うことはしなかった。
これがきわめて当たり前の順序なのだった。

彼は横たわったままで、一種眩暈のような飢餓は感じるが、悩みの種になるような不満は何も感じない。
彼はすこしずつ土に同化していった、太陽に乾かされ、大地に受け入れらて、三十年の労働、ついでこの睡眠と、大地に対するこれが彼の権利だった。
ぼくの心を痛めるのは、彼の苦痛ではなかった。
彼に苦痛があるとは全然信じなかった。
しかし、ある人間の死とともに、未知の世界が一つ死んでゆくわけだが、ぼくはこの男の中にはどんなイメージが消えてゆくのだろうと考えた。(…)
固い彼の頭蓋骨が、ぼくには宝物箱のように思われた。
だが彼は、あの店へ入ってきた時と同じように気軽に出てくることができた。
理由は、彼女達が、彼を必要としないからだった。(…)
彼は自由だった、だがあまりにも無制限に自由なので、自分の重量を地上にまるで感じないほどだった。




*砂漠の真ん中で

・1935年、インドシナへの長距離飛行の途中にエジプトのリビア砂漠の奥地で遭難。
・快速車の衝突事故、死によって失われる新たな景色、助けを乞われるが立ち去る罪悪感
・夜間飛行中の砂漠の丘へ墜落事故
・極限状態の精神
・砂漠での狩猟、喉の乾き、蜃気楼、幻影
・フェネックとカタツムリ
・人間の好奇心
・タンクに溜まった毒々しい水と吐き気
・機体を離れての模索
・死を目前にした寒気
・遊牧民の足跡の発見、生命の水

〈ぼくの小さい狐よ、ぼくは今度はさんざんだ、だが不思議なことには、こんなひどい目に遭ったことも、きみの生き方に、関心をもつ妨げにならなかった…〉

そしてぼくは、しばらく夢想に耽る、人間というものは、どうやら、どんなことにも慣れるものらしい。
三十年後に死ぬかもしれないという考えは、一人の人間の喜びを傷つけはしない。三十年も、三日も、要するに遠近法上の問題にしかすぎない。


〈世間の人たちは、一個のオレンジが、どんなものだか知らずにいる…〉
ぼくはまた言う、
〈ぼくらは死刑を宣告されている。それなのに今度もまた、この確乎とした事実が、ぼくの喜びを妨げない。ぼくが掌中に握りしめているこの半顆のオレンジは、ぼくの一生の最も大きな喜びの一つを与えてくれる。〉

私にとってのオレンジ

東北大震災当時、高校1年生の冬だった。
あの日は所属していた吹奏楽部の3年生を送る会で、公民館の体育館に集まり、青春最後の演奏をしたり、休憩時間には慣れないバスケなどをしてわちゃわちゃ遊んでいた。
送迎会後は太っ腹な顧問のおごりの焼き肉食べ放題イベントが控えていたので、私は気合いを入れて、前日の夜ご飯と当日の朝ご飯を抜いて、万全の準備を整えていた。なんと食い意地が張っていたのだろう(笑)
この時は約1週間飲まず食わずになるなんて予想もしていなかった。

運命のあの時間。
ドン!と大きな爆発音が聞こえ、震度7の揺れが襲ってきた。
「地震だ!」と身構える隙もなく、目の前がぐにゃりと歪み、上下がどちらか混乱し立っていられなかった。
バスケットゴールが弾かれたバネのように揺れ、窓ガラスは建物の軋みに堪え兼ねてミシミシと割れ始め、散った。
部員達は泣き叫びながら階段を1段1段必死に手すりに掴まりながら降りていくが、そんな中、私は「わははは!」と腹を抱えて大爆笑していた。
笑いながらも、人間は突然死の脅威に襲われた時、笑う事でストレス発散するというのは本当だったんだなあなんて、頭の片隅では冷静に関心していて足は勝手に外へ向かう。

駐車場に避難したものの、震度5レベルの揺れが20分毎に襲ってきていた為、電柱はメトロノームのように激しく横に振幅し、エンジンのついていない無人の車が勝手に滑っていく。
その光景に見慣れ始めると、部員達は家族に電話をかけ始めた。
この町は津波被害が酷く、多くの生徒が実家を失ったが、なんとか合流し、次々とあるはずのない家に帰っていった。
私は遠く離れたこの町に知り合いはおらず、時間が許す限り電話を試みた。当時都内住みだった方も経験したかもしれないが、あの時、福島県内でも電話が全然通じなかった。
瓦礫の山、どこかに潜んでいる死体に囲まれ、ひとりぼっちで、死んでいるかもしれない家族に電話をかけ続けるのは心の底から怖かった。
でも、そのときは恐怖を自覚しておらず「焼き肉食べたかったね〜」などと友達に話しかけ、笑い、去っていく友達には「またね〜」と手を振っていた。
日が暮れ、顧問と二人きりになり、一旦学校に戻って保健室で寝泊まりしようという話になった時も漫画のような展開で内心わくわくしていた。
決して楽観思考なのではなく、恐怖で感情が麻痺していたのだと思う。
保健室で仮眠をとり、夜中にやっとおばあちゃんと電話が通じたとき、一気に緊張から解放されて、膝から崩れ落ちながら号泣したからだ。

それから数時間後、家族と再会する事ができた。
丑三つ時に瓦礫の泥の中に足を突っ込み、繁華街に居ながらにして充満している潮の香りと、死体なのか何なのか正体不明の嗅いだ事のない嫌な匂いに息を止めながら、降りている踏切の遮断機を妹と2人がかりで持ち上げて母の車を通し、故郷に向かった。
車内では各々どんな経験をしたかを、まるで女子会のようにわいわい3人で話し合い、逃げ切れた事を称賛しあった。
中2の妹は丁度卒業式が終わって帰宅した所で、ひとりぼっちの大きな揺れにパニックになりながらも、事前に私が家族分用意していた避難袋を持ち出し、屋外に避難できたらしい。
「普段しっかりしているのはお姉ちゃんだけど、タワー・オブ・テラーとかいざという時に勇気をだして両手を挙げられるのは私だよね〜。今日もきっとお姉ちゃん1人家にいたら避難袋を持って来れなかったかもよ〜」なんて冗談をいいながら場違いに笑っていた。
でも、笑っていないと、電灯も生気も見当たらない真っ暗な道の恐ろしさに飲み込まれそうで怖かった。
海からは3、4キロも離れているのに、昨日まで町があったのに、
水平線が見える。
何もない異様な光景を前にして、現実を直視する話はタブーだった。


私達は福島第一原発のある大熊町生まれの為、あの日の夜は原発事故の事など何も知らず、町のスポーツセンターに避難し夜を明かした。
次の日、おばあちゃん達と念願の再会をするも感動の抱擁などは特になく、転んだ子供に声をかけるくらいのテンションで「大丈夫だったか〜」と聞かれてほっとする。
一方、元原発職員の叔父はメルトダウンしたのかもしれないと脅かしてくるので、トラウマのはだしのゲンを思い出して不安になった。

町内アナウンスが流れ、地区毎にまとまって自衛隊のトラックで避難しろ、私用車は渋滞回避の為に使用不可との指示があり、ぞろぞろと集合場所の神社へ向かう。何時間か待ったが、結局その日は自衛隊の迎えは来なかったので車中泊し、次の日トラックが来てくれた。

ボロボロの自衛隊のトラックの床は隙間が開いていて、流れていく砂利道が見えた。
水溜りにはまると車体がゴトンと大きく跳ね、固い椅子にぶつかるお尻が痛かった。永遠と続くボコボコの地面の窪みが腹の中まで反響した。
いつ、どこに辿り着くのか分からない旅。果たして何十年後に帰って来れるのだろうか。
東北の極寒の風に凍えながらドナドナを脳内で口ずさみ、こんなにぴったりな状況って今後経験することってないかも、ちゃんと見ておかなきゃなんて半ば笑いながら揺られていた。
出発してから約4時間。
やっと夜中に郡山の中学校の体育館に到着し、放射線検査を受けてから入場。
この体育館に辿り着くまでに数カ所の避難所を巡ったが、「大熊町民は被爆しているかもしれないから駄目」と受け入れ拒否が続いていたので本当に有り難かった。

段ボールが配られ、体育館の隅に住む事になった。
高校生の多感な時期、学校のジャージ姿で、瓦礫散策後にお風呂も入らず体臭が気になる中、幼馴染の男の子や女の子達と、会話内容も家族構成も丸わかりのプライバシー皆無な段ボール生活を共にするのは尊厳が失われているような屈辱だった。
食べ物も毛布もなく、コンセントもないので携帯も使えず、本もないし、紙とペンもなかったのでぼーっと体育座りで過ごす。
読書が生活の一部である読書家にとって、1ヶ月以上本を読みたくても読めない状況というのは何よりも苦痛だった。
周りを見渡し、服のタグや窓から見える看板の文字を何度も何度も読んだ。何週間か後にパンの配給が始まると、日がな1日、プラスチックの袋の裏にある栄養成分表を読むのが趣味になった。
栄養学の知識はないので理解はできなかったが、活字中毒の禁断症状を満たしてくれる文字はこれしかなかった。

ある日、親切な自衛隊のお姉さんからカンパンを1個貰った。
いつも大食いの妹が絶食続きであまりにも可哀想だったので「おなか空いてないからいいよ」と譲ったり、冷え性の母に「寒くないから掛けな」と私の毛布を渡した。
当時は、辛い時こそ小公女セーラなどの主人公のように気丈に振る舞い、人を助けるべきだ、その為に沢山の物語を読んできたのだという使命感に駆られていた。
しかし、起きている時は意識して不安を押し殺していたが、寝ている時には体育館に響き渡る寝言で、何かに向かって怒鳴っていたらしい。
朝すっきり目が覚めてその事を家族から聞く度に恥ずかしくなった。
学校では大人しい純粋キャラで通っているのに勘弁してほしい。
悪口は絶対に言わないをモットーに学生時代を過ごし、マザーテレサみたいだね、心が綺麗だよねなんて褒められていたのに。
トイレに行く時、同級生と出くわすのが気まずく感じた。



そして、待ちに待った炊き出しが始まった。
体育館内に給食の時のような長机が用意され、大きなお釜が3つも並んだ。
おばあちゃんは率先しておにぎり作りに参加し、町民は礼儀正しく長蛇の列に並んだ。鞄も粗末な袋も何も持っておらず手ぶらだったので、ホームレスの炊出しもこんな感じなのかなと、自分もホームレス同然である事を忘れて空想した。
丸6日ぶりの食事。水道も止まっていた為、それまで飲まず食わずだったのに、おばあちゃんは自分の分を確保するより真っ先に、孫である私達へおにぎりを手渡してくれた。
おばあちゃんは微笑みながら、「ちょっと大きめにしておいたからね」とひっそり囁いた。

握りこぶしくらいのほかほかのおにぎりは、海苔もなく、荒塩がかかっただけの質素さだが、つやつや光るお米が美しかった。
熱々のおにぎりを落とさないよう、右手、左手、右手とお手玉のように転がしながらパリパリのラップを丁寧に外す。
せーの、いただきます。
家族でタイミングを合わせて、宝物のように小さく一口かじった時、味蕾に電撃が走った。
お米ってこんなに甘かったんだ。
お米ってこんなに美味しかったんだ。
食べ進める毎に、まるで千と千尋の神隠しのあの場面のようにボロボロ大粒の涙が頬を伝った。
鼻水やら涙やら色々ぐしゃぐしゃ混ざりながら、どれがおにぎりの塩味なのか分からないしょっぱさが効いて、生きた心地がした。
思えば、常に気持ちが張りつめていて、終始ニコニコ笑っていた私は、この時初めて人目を憚らず泣いたのだった。



***

家族と「今まで生きた中で一番美味しかったものは?」の問いを話す時、全員口を揃えて「もちろん、あの時のおばあちゃんのおにぎり」と笑いながら話す。

サン=テグジュペリの1つのオレンジの真価も、このおにぎりと同じだと思う。この経験をするまで一個のオレンジが、どんなものだか知らずにいた。
「ぼくの一生の最も大きな喜びの一つを与えてくれる」という言葉通り、私にとってのオレンジは、空腹を満たすだけでなく、心も満たし、生きる勇気もくれた。



〈ぼくらが、いまその秩序に従って生きているこの世界のことは、もし人が自らそこに閉じ込められなかったら、察する事もできない〉と。
ぼくはいまはじめて死刑囚の、あの一杯のラム酒と、一本の煙草の意味が了解出来た。(…)
ところが彼は、ラム酒がうまいので微笑するのだ。
他人にはわからないのだ、彼が遠近法を変えて、その最後の時間の人間の生活となしえたことが。
実際、人はほんのわずかしか苦しみはしない…。
もちろん苦悩はあるにはあるが、そのうしろには、じつは疲労と妄想が、交響楽化されて織り込まれている。
ぼくも実はしらなかった、自分がかほどまで、泉の囚われだとは。
ぼくは、疑わなかった、自分に、こんなにわずかな自治しか許されていないとは。
普通、人は信じている、人間は思い通り、まっすぐに突き進めるものだと。
人は人間の働きをしてみて、はじめて人間の苦悩を知る。
人は風に、星々に、夜に、砂に、海に接する。
人は自然の力に対して、策をめぐらす。
人は夜明けを待つ、園丁が春を待つように。
人は空港を待つ、約束の楽土のように。
そして人は、自分の本然の姿を、星々のあいだに探す。
ぼくはある工場で、モーツァルトの演奏を聞いた。
ぼくは、そのことを書いた。
ぼくは、二百通の罵詈の手紙を受け取った。
ぼくは、モーツァルトよりも安寄席を好む人達を憎みはしない。
彼らはあれ以外の歌を知らないのだ。

ぼくが憎むのは、安寄席の持ち主だ。
ぼくは人が、人間を堕落させるのには忍びない。



*人間

・スペイン前線での出来事
・死を覚悟している時の幸福な睡眠

空中の夜な夜な、砂漠の夜な夜な…、これなどは、だれにでも与えられるというわけにはゆかない稀な機会には相違ない。
だが、事態が彼らを動かす場合、普通人とて、すべて同じ念願に駆られる。
愛するということは、お互いに顔を見合うことではなく、いっしょに同じ方向を見ることだ。
ともすると、これが理由となって、今日の世界がぼくらの周囲に軋みだしたのかもしれない。
各自が、自分にこの充足感を与えるそれぞれの宗教に熱中する。
言葉こそは矛盾するが、だれも皆、ぼくらは同じ熱情を云々しているのだ。
ぼくらの個々の理性の果実なる方法こそは異なるが、目的は異ならない、目的は同一だ。
アンデス山にかかったとき、彼の中に生まれた人間、それこそが彼の本然だったのだから。
戦争を拒まない一人に、戦争の災害を思い知らせたかったら、彼を野蛮人扱いしてはいけない。
彼を批判するに先立って、まず彼を理解しようと試みるべきだ。
人間の本然というのは彼を一個の人間にしてくれるそのものだ。
人間と、その様々な欲求を理解するためには、人間を、そのもつ本質的なものによって知るためには、諸君の本然の明らかな相違を、お互いに対立させあってはいけない。
そうなのだ、きみらは正しいのだ。
きみらはいずれも正しいのだ。
本質的な物を引き出す試みとして、しばらく、人さまざまな相違を忘れることが必要だ。(…)
しかも、このような区別は非難しがたいものなのだ。
ただ、本然というのは、諸君も知られるとおり、世界を単純化するものであって、けっして混沌を創造するものではない。
本然というのは、全世界に共通なものを引き出す言葉なのだ。(…)
本然というものは、けっして自己を証拠立てるものではなくて、物事を単純化するためのものなのだ。


これこそ音楽家の顔だ、これこそ少年モーツァルトだ、これこそ見事な生命の約束だと。
伝説の中の少年たちも、この少年となんら変わるところはなかった、保護され、いつくしまれ、教育されたなら、この少年になりえないというものは何一つないはずだ!

何年も前、私は児童養護施設の職員として働いていた。
施設に住むのは、親に虐待され、尚且つ知的障がいを抱えている3歳〜小学5年生までの子供たち。
親に首を占められ殺される寸前だった子、里親に保護されるもまた1人になってしまった子、親からのDVが原因で施設が保護したものの、血眼で探してくるからこの施設にいる事を絶対に明かしては行けない極秘の子。色んな訳ありの子供が集まっていた。

まだ平成の夏、5歳の男の子がネグレクトが原因で緊急保護されやってきた。
当時新社会人だった私は、名前と年齢しか判明していない、どんな素性かも分からない衰弱した男の子の担当を指名され困惑していた。
A1ランクの最重度知的障がい者で、歩くことや食べること、排泄など全てに介助が必要なお子様だった。

初めて会った時の彼は、男の子にも関わらず、背中の中頃まで伸びたロングへヤー姿で、ガリガリにやせ細っていた。ネグレクトで保護される男の子は生まれて1度も床屋に行ったことがない事が多いが、この子もそうだった。
一人で立っていることもままならぬ、まるで宙に浮いているかのように常時ふわふわと左右に体を揺らし、虚空を見つめていた。
彼の目線に合わせてしゃがみ、前髪をかき分けて瞳を見つめてみる。
「ゆうくん、おはよう」と挨拶しても反応なし。彼の眼球の前で指をゆらゆら振っても、目で追えない。
それでも、能面のような感情の全く無いお顔は透き通るような肌で、つぶらな目には一点の曇りもなく、純粋そのものだった。
なんて可愛いのだろう。ありったけの力を注いで彼の生活が豊かになるようにしてあげたいと、みるみる母性が溢れてきた。

アンパンマンの歌が好きだという情報を入手したので、四六時中歌って聴かせてみた。もちろんぴくりとも反応はない。
ご飯の時、寝る時、トイレの時、お皿洗いの時、散歩の時…辛抱強く1ヶ月ずっと歌い続けてみた。
全然進歩もなく、ひな人形に向かって歌っているような気分だった。
保護者である私の存在を認識しているのかも怪しかった。

しかしある日、朝ごはんのスプーンを口に運んで、「あ〜ん」と話しかけた瞬間、
「あんぱんまんはきみさ〜!!!」と1フレーズだけ大声で歌い出し、
ゲラゲラ、ゲラゲラ笑い出した。
職員も、他の子供達もびっくり仰天、一瞬息を飲んだ。
初めて聞いた声、初めてみた笑顔。
わっと一気に緊張がほぐれて、「ゆうくんすごいね〜!!」「アンパンマン上手〜!!」とみんなで拍手し、わしゃわしゃ撫でたり、ほっぺをつんつんして褒め讃えた。
心の底から湧いてきたこの感動は今でも忘れられない。
長い沈黙の中で、ゆうくんの心にはずっと響いていたんだ。

ゆうくんはそれから徐々に心を開き、いつもニコニコしている男の子に成長した。
初めての床屋さんでは大暴れしたものの、すっきりとした短髪になり、
絵本で見た事があっただけの未知の乗り物の電車にも挑戦して乗れるようになった。
入学式まで毎日通学路を往復する練習や、階段の上り下りの練習を重ね、少しずつ安定して歩けるようにもなった。
「ばなな!」「ごちそうままでちた!」「せんせ!」なども発語できるようになり、今では元気に小学校へ通っている。



どんな子供でも、幸せに生きる事を約束されている。
もし、その子が親から捨てられても、障がいを持っていても、いじめられていても、それは子供のせいではない。
大人が子供の可能性を信じ、「どんな君でも愛しているよ」と伝え続ければ、サン=テグジュペリがいうような美しい粘土の人間が育つと思う。

もし苦い過去を抱えたまま、成長した大人になったとしても、自分の中の殺されたモーツァルト、つまり、約束されていた未来とやり遂げるべき使命を見つけ出しさえすれば今からでもやり直せるはずだ。
サン=テグジュペリは、障害を乗り越える事でモーツァルトを発見し、内に秘めていた最大限の力を発揮できると沢山の例で示してくれている。

障害を通して、自分という粘土をこねあげる機会は、砂漠の遭難や東日本大震災のように大きな出来事ばかりとは限らない。
そのような辛い経験は人生に1度で充分だ。
私はサン=テグジュペリのような注意深さがあれば、読書からでもモーツァルトになる機会を得られると思う。
読書によって教養を磨き、その教養によって視点を増やし、自らの障害を認知して乗り越えていく。読書の面白みの1つではないだろうか。

私はまだ自らのモーツァルトを見つけられていないため、現時点での最低限の生活が真実の自分だと低く見積もり、結果、自分は生きる価値のない人間だと死を軽んじていた。
その自分の過ちを「人間の土地」を通して認識できた事は大きな収穫となった。
もしまだ自分のモーツァルトが見つかっていない方には是非、サン=テグジュペリの「人間と土地」を手に取って頂きたい。
自分を見直すきっかけになる、かけがえのない読書体験になるであろう。





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