見出し画像

続きは歓声の後で #3 反対側の景色 前編

こちらとこちらの続きです。
男の子側のお話。前後編です。

「かかりちょ〜いつになったら私と付き合ってくれるんですかあ〜」
「世界の終わりがやってきたらかなあ」

まーた適当なこと言ってえ、と俺の目の前で笑うのはまだ3年目の若手だ。見た目はチャラいがしっかりしたヤツで若手の中では有望株とされている。3年前、俺がOJTを組んだ相手でもある。

「おーい、◯◯鉄鋼さんの打ち合わせするぞー」
「ほら、呼ばれてんぞ、行ってこーい」
「はあーい」

金曜の夕方から会議なんてさいあくぅ〜と悪態をつきながら資料を持って会議室へと消えて行く。ああ見えて仕事はキッチリしているから、若手ながらいろんな現場に引っ張りだこだ。

「相変わらずイチャイチャしてんね〜」
「やめてくださいよ」

好青年的な笑顔を浮かべながら部長がやってくる。俺よりも10くらい上、40を過ぎた所だったか。若々しいし、ニコニコしていて柔らかい印象だが、定期的に大きな仕事を取ってくるやり手で、結果を出しているからこそ、多少の無茶はねじ込める力もあるので取引先からも頼りにされている。

「いいじゃん、一回付き合ってみたら?」
「10くらい下ですよ?相手にならないでしょ、お互いに」
「そう?向こうはそんな事ないみたいだけど」
「社内恋愛とかめんどくさすぎますよ」

それもそうか、と笑うけど、この人は先月、超美人として昨年入社してきた新人と式を挙げた。大学院卒とは言え、ひと回り以上下だ。

恋愛は得意じゃない、というかそもそも人間関係が苦手で、じゃあ何で営業なんかしてるんだ、と言われたら、それしかできる事がなかったから、と答える。
お袋と弟は専門分野で優秀だが、残念ながら俺は特別何の取り柄もない親父の血を色濃く継いだらしい。

忘れ物、忘れ物、とさっきの後輩が自席に戻ってくる。

「あ、そー言えば、かかりちょ〜が好きなバンドさん、今度ライブやりますよね」

何年か振り?みたいな結構話題になってて〜知ってます?と探し物をしながら話しかけてくる。

「んー」
「一緒に行っちゃいます?」
「行かない」
「ですよね〜」

あ、あった、とまた別の資料を持って会議室へと歩を向ける。

「会議終わったらそのまま帰れよ」
「あいあいさー」
「残業するなよ、帰れよ」
「ほーい」

営業結果を出すには本人の技量や持って生まれたものも多少はあるが、大抵は結果に見合った努力がその裏にある。最近オーバーワーク気味なあいつに強めに念を押す。

「そういうところだよなあ」

まだ俺の後ろに立っていた部長が微笑ましそうに呟く。

「何がですか?」
「面倒見いいからなあ」
「あいつにだけじゃないですよ」
「まあ、そうなんだけどね」

結構いいコンビだと思うけど、ふふっと笑って去って行く。何しにきたんだあの人。
でも、ああやってフロア内をフラフラと雑談しながら下の人間とも関わりを持って、特性や行動を把握し、困りごとも早めにキャッチしてくれる。さすが若くして部長に登り詰めるだけはある。

静かになったデスクで事務処理をする。
係長の仕事は案外地味で、部下たちが上げてきた請求書の確認に提案資料のチェック、時々は先方にも顔を出して、と広く浅くな感じだ。
その分、彼らがそれぞれの顧客にしっかり向き合えるようにサポートをする。先方の特性、部下達の特性、世の中の流れに社内の状況、根回し。具体的に何かを作り上げていくことはないけれど、空気や流れを読むことを必要とされ、体力は削られないが、年々、気力がどんどん吸い取られている気がする。
金曜日ともなってくると正直、めちゃくちゃしんどい。だから淡々と出来る事務仕事を残しておく。数字をただ無心で確認していく。

はっと気がつくともう終業10分前だった。係のデスクには外回りを終えた部下たちが帰ってきて各々に週の締め作業をしている。席を立って彼らに声を掛けに行く。今週の進捗、困り事はないか、今日はもう上がれるのか。この一年、それなりに彼らと関わり、就業後の付き合いもした結果あってか、着実に信頼関係は築けていて、チームの成績も好調だ。
定時になり、皆それぞれ帰路に着く。今日は会議中のあいつ以外はみんな早々に上がれそうだ。そのまま帰るように!とあいつの机に走り書きのメモを置いて、タイムカードを切った。

外に出ると、夕方の風が気持ちよく肌に触れる。夏はまだ先だけど、日中は気温が高く、クールビスが流行って久しい社内では営業職でも背広の着用は5月末くらいから任意になっている。カチッと着こなしていない方が全力で頑張ってくれている、と好感を持つ相手先も多く、先方の顔色を伺いながら使い分けている。

駅に向かう途中でレコードショップが目に入る。件のバンドのポスターがでかでかと貼られ、ニューアルバムが店頭にずらっと並んでいた。
久しぶりに覗いてみるか、と足を向ける。
音楽アプリが台頭してからショップに足を運ぶ数は確実に減っているのだろう。金曜の夜なのに人はまばらだった。サンプルCDが掛けられていて、いまだにこういうのあるんだな、とヘッドフォンをつける。
昔は新曲が出る度に追っていたのに、今ではアルバムの半分以上がわからない曲だ。それでも、馴染みのある声は変わらずやさしくて、この声にずっと助けてもらってきたなあ、と懐かしく思う。

中学からどハマりしたこのバンドの、歌詞が何より好きだった。ボーカルが描く世界観は、全てを理解できるわけではないのに、どこか俺に向けて歌ってくれているようで、苦しい時や辛い時、寄り添って、側にいて、時に背中を押してくれた。
思春期を家庭のゴタゴタの中で過ごしたから特に、その期間の曲は身体に染み込んでいる。
新しいアルバムでは当時の曲をリカバーしていて、歌詞はそのままに洗練された音が、今の俺にも響いてきた。

やっぱいいなあ、と音楽に浸っていると、スマホが揺れる。画面を見ると弟からの着信だった。

「…何?」
「にーぃちゃーん!何してんだよう、遅いよお!今日、俺こっちいる日じゃん!母さんたちも、もう来てるよ!」
「え?うちにいんの?」

そーだよう、言ったじゃーん、早く帰ってきてよねー!騒々しく言いたいことだけ言ってプツッと通話は終わった。
はあ、とひとつため息をついて、CDを1枚取り、レジに向かう。

大学で大阪に行った弟はそのまま向こうで職を見つけ、エンジニアとして働いている。結構有能らしく、大阪を拠点に日本各地に留まらず、最近はアジア諸国にも足を伸ばしているらしい。
仕事一辺倒かと思いきや、プライベートもちゃんとしていて、この夏、大学時代から付き合っていたという彼女と結婚する。

駅に隣接するデパ地下に向かいながら、母さんたち、と言っていたから旦那さんもいるんだろなあ、と考える。
父さんと離婚した後、母さんは会計事務所に一般職員として入社した。家から近く、給与が他よりも少し高かったから。
資格は持っていなかったけど、真面目で数字にめっぽう強い母さんはぐんぐんと実力を挙げ、上司の後押しもあって公認会計士の資格に挑戦し、2年掛かって合格した。合格率10%を下回る難関資格をたった2年で突破した母さんを、心の底から尊敬したと同時に、やっぱり俺とは格が違うなあ、と劣等感を感じたりもした。

母さんが公認会計士として働き始めた頃、父さんの会社が傾き始め、あれよあれよという間に業界最大手の企業に買収された。父さんは、買収後、すぐに早期退職した。しがない営業マンだったから、きっとろくな仕事も与えられず、ぞんざいに扱われていたんじゃないだろうか。だから抵抗せずに受け入れた。辛い状況は同じ営業マンとしてなんとなく想像ができる。
それでもまだ、大学に入ったばかりの弟のことは考えて欲しかったな。母さんの稼ぎがあればなんとかなると見込んでいたのかもしれないけれど、現実はそう甘くなく、俺も泥をかぶることになったから。

「おーかえりぃー!」

ご機嫌に玄関のドアが開く。

「今日来るって聞いてないけど」
「うん!確認したら連絡し忘れてたわ!」

ごめんね〜と笑いながら俺を家の中に通す。
日頃の弟を見ていると、とても有能には見えないのだが、一度家のネットワーク関係をお願いした時に、ものの数分で設定し終えていて、流石だな、と感じた。アンテナの置き位置やケーブルの長さも完璧で、家のネットワーク環境が快適なのはこいつのお蔭だ。

「おかえり〜」
「お邪魔してます」

母さんと共に旦那さんがリビングから顔を出す。
父さんが死んで1年くらいした時、母さんから神妙な面持ちで、相談がある、と話を切り出された。仕事先でアプローチを受けている、どうしたらいいと思う?と、まさか30過ぎて、自分は相手もいない中、親から恋愛相談をされると思わなかった。
お相手は仕事もプライベートも真面目な方で、付き合う時には息子の俺たちにもきちんと挨拶をしてくれて、まあ、いいんじゃない、と言うと、母さんはちょっと恥ずかしそうに、少女みたいに朗らかに笑った。ふたりは堅実に付き合いを重ね、昨年末に籍を入れた。

「食べ物あるかなって思ったけど、おつまみとスイーツ買ってきたよ」
「さすが、気が効くわねえ」
「あー!俺の好きなジャーキーあるじゃーん、にいちゃん、わかってるう」
「僕が持ってきたお酒にも合いそうだね」

手土産を渡し、和やかな雰囲気を耳に感じながら洗面所へ向かう。
ここは父さんが死んだ時に母さんが買った家だ。前の家を売った分と保険とを合わせてほとんどキャッシュで。お父さんのお金を変に遺しておきたくない、と。ここぞと言う時の女性の思い切りは、男よりもよっぽど肝が据わっている。

弟はもう拠点を大阪に持っていたし、母さんと俺、ゆくゆくは母さんが自分ひとりの終の住処にしようとしていたから、そう広くなく、大人4人入ると少し手狭に感じる。

結果的に母さんは今の旦那さんと結婚し、父さんの気配があるここは新居として避けられ、今は俺がひとりで住んでいる。30半ばにして持ち家あり、悠々自適な独身ライフだ。

「そーいえばさー」

弟が能天気な声をあげる。

「にいちゃんの好きなバンド、今度ライブすんじゃん?もうチケット買っちゃった?」
「いや、買ってない、っていうか東京日程お前らの結婚式の日だろ」
「それ2日目でしょ。初日は前日じゃん」

まあ、確かにそうではあるが、翌日弟の結婚式なのに前日にライブ行くほど流石に俺も若くない。

「そんな体力ねえよ。前日から大阪入りするつもり」
「いや、実はさー」

こっちのことなんてお構いなしに話を続ける。でも、そこに嫌味がないのが弟の良いところでもあり、狡いところでもある。

「うちの嫁さんもそのバンド好きじゃん?で、ライブ日程発表の時に絶対東京ドーム行きたーい!ってなって、チケット取ったんだけど」
「取ったんかい」
「いや、前日だからその日のうちに帰れば翌日式でも大丈夫じゃね?ってなって」

でもさ、とちょっと恥ずかしそうに、幸せそうに弟は続ける。

「赤ちゃん、いるのわかっちゃったじゃん?で、つわり?みたいなのも結構辛いみたいで、やっぱライブは辞めようってなって」

そう。おめでたいことは続くもので、つい先日、弟の婚約者の妊娠が発覚したのだ。入籍前とは言え、婚約はしているし、順番は間違っていないのだが、ドレスやら何やらで少しバタついているらしい。

「体調は大丈夫なの?」

母さんが口を挟む。

「うん。食べられないものも多いんだけどフルーツとかは大丈夫みたいだから、とりあえず食べられるもの食べて休める時に休んでってしてる」
「そんなパートナー置いて、こんなところで油売ってていいのかよ」
「ほんとは俺だって今日帰りたかったよう!でも、明日朝どーしても1件現場行かなきゃだから今日は泊まりなの!」

ぷんぷん、みたいな形容詞が周りに見えるようだ。犬みたいな奴だなあ、と思う。

「あ、そう、でね!チケットが2枚余っちゃうから、せっかくだったらお兄さんどうですかって、嫁が」

嫁、というワードに、へへっと照れる顔をちょっと可愛いな、と思えるくらいには俺も弟に甘いんだろう。

「そういうことなら行こうかな。勿体無いし。いくらよ?」

財布を探そうとすると、弟は大袈裟にぶんぶんと手を振って止める。

「いいの、いいの!にいさんには、ほんと、たくさんお世話になってるし、嫁とも話してあげる形にしたいねって」

だから貰ってよ、ね!と笑顔で言う。

「でも、俺、一緒に行くようなヤツいないけど」
「誰でもいーじゃーん。友達でも会社の人でも、あ、もちろん気になっている人がいるならその人でも!」
「いねえよ」

だよねーとちょっと哀しそうに弟は笑った。

「でも、1枚残ってもなんだし、せっかくだから2枚貰ってよ。何ならリセールしてその分でグッズとか買ってもらっても構わないから」

にいさんが使って、そう言って弟は電子チケットのURLをポンっと送った。

酒とつまみでお腹を満たし、会話の中心は翌月の弟の結婚式の話や仕事のこと。当たり障りない話をしてお開きとなった。
家族といえど、もうそれぞれが立派に大人で、分かり合える部分も、そうでない部分があることも互いにわかっている。だからこそ踏み込まないし、踏み込んでこない。その距離感がちょうど良くもあり、時々無性に虚しくなる。
弟にも母さんにも、自分の家に帰れば、もっと奥まで分かち合える相手がいる。でも、俺は…まあ、だからと言ってそういう相手を見つけるための行動をしていないんだから仕方ないんだけど。日々の生活で精一杯、正直そこに割く気力はないよなあ。

「はあ…」

って、それが言い訳だってことも、薄々どこかで気付いてはいるんだけど。
母さんたちが帰り、弟も寝床についたしんとしたリビングでひとり、グラスを傾けながらため息をついた。

***

翌朝、早くからゴソゴソと動き出した弟の気配で目が覚める。リビングに行くと、もう出社準備を終えた弟がコーヒーを淹れているところだった。

「あ、おはよー。起こしちゃった?」
「…ん」
「コーヒー飲む?」
「…ありがと」

眠い目を擦って椅子に腰掛けると使い慣れたマグカップがことん、と置かれた。
斜め前に座る弟は、朝日を浴びながらパソコンを開き作業をしていて、こういう所が自分と違うんだな、と痛感する。

「ん?どうかした?」

視線に気がついて弟が声を掛ける。

「いや、良い男になったなって思って」

ぶはっとコーヒーを思い切り吹いて、あ、やべ、沁み、と布巾片手に焦る弟を頬杖付いて眺める。

「何、急に」
「別にー」
「もー」

机を拭きながら笑う弟が眩しかった。

「チケット」
「ん?」
「ライブのチケットね、売ってもいいんだけど、俺はできればにいちゃんに誰かと行って欲しいと思うよ」

少し申し訳なさそうに笑う。最近、弟はたまにこういう表情をする。

「ひとりでも楽しいことは、ふたりになるともっと楽しくなるから」
「…うん」

現場に行く前に会社寄ってく、と早々出掛ける弟を見送って、空っぽになった家の中、ソファにひとり脱力する。

両親の離婚理由は、よくある不倫だった。会社の後輩と何度か飯に行くうちに、親密になり、一線を越えた、ということらしい。
母さんがいる癖に他の女に手を出すなんて、と、当時の俺は全く理解できなくて、軽蔑し、顔を合わせるのさえ吐き気がしたが、今になって少しだけ、親父の気持ちがわかるように思う。
家事育児に加えて仕事まで立派にこなす母さん、コミュニケーション能力に長けプライベートも仕事も毎日を心から楽しんでいる弟、そこに劣等感を感じないか、と言われると口篭ってしまう俺がいる。きっと、父さんも同じだったんじゃないか。完璧すぎる母さんと自分を比べて耐え難くなった時に、そこを埋めてくれたのが、不倫相手だったのだろう。

まあ、許されることではないけどな、と思いながら昨夜弟からもらったチケット画面を開く。公演までひと月ちょっと。売るなら早い方がいい。

「誰かと一緒に、ねえ」

ソファにゴロンと寝転がり、2枚表示された画面を見る。一緒に行く相手なんて、全く頭に浮かばない。ほんの少しだけ会社の後輩が頭を掠めたが、ないな、と、画面を閉じる。
まだ眠たい身体がソファに沈んでいく。
最後にライブに行ったのはいつだったか、記憶を遡りながら眠りに落ちる。俺の名前を甘く呼ぶ、ちいさな背中を思い出していた。

***

学生時代の終わりに付き合った彼女は、小動物みたいな人だった。
彼女を認識し始めたのは一年の文化祭。友達の付き合いで、入ってもいないサークルの下働きをさせられていた時だった。あまりにもコマ使いみたいに無遠慮に使われるので、隙を見てサボっていた時だ。誰も来なそうな廊下で階下の喧騒を眺めながら、ようやるわ、とジュースを飲んでいた。

視界の端から腕章を付けた小さな女性が走ってくる。確か同じ学部の、くらいの認識で、うわー実行委員とかやってるんだ、と小馬鹿に思った。各屋台にプリントを配りながら何やら声をかけている。ペコペコしながらニコニコして、でも疲れた様子はなくて。テキパキと動く彼女は少し誇らしげで、キラキラして見えた。

そこから何となく目で追うようになった。
彼女はよく動き、よく笑い、リーダータイプではなかったが、広く穏やかな交友関係を築いているように見えた。
人当たりがいいし、気遣いも丁寧で、俺とは真逆の性格だな、と思った。当時の俺は、両親の離婚からしばらく経ってはいたものの、高校時代の失恋も相まって、なるべく交友範囲を拡げないように、深めないようにしていた。
付き合う人間が増えるほど、気遣うことも増え、煩わしさも増える。特別が増えるほど、失った時の代償も大きい。

だからゼミで同じクラスになった時は嬉しいような、ちょっと面倒なような、そんな気持ちだった。向こうは俺のことなんか知らない癖に、勝手にあれこれ考えている自分に呆れたりもした。

4年に上がって、研究テーマを絞り込む時、不可抗力で彼女と2人きりになった。勝手に気まずさを感じながら、カチコチと時計の音だけが響くパソコンルームで、全く終わりそうもない作業に向き合う。地獄のようだ、と思ったけれど、途中で切り上げ帰らなかったことを思うと、心の奥底では一緒にいられることが嬉しかったのかもしれない、と後から思った。多分、初めて見た時からずっと惹かれていたんだ。

何かのきっかけで会話して、お互いに好きなバンドが一緒で話すようになった。
家のゴタゴタを慰めるように聴いていた曲たちばかりだったから、思い入れも深く、詳細は省きながらも、ここに共感する、とか、このフレーズが泣ける、とか、そういう話を全部、彼女はうんうん、わかるーと聞いてくれた。全部が全部、話せたわけではなかったけれど、曲と共にあった自分の中の苦しさや虚しさを受け止めてくれた気がして、とても嬉しかった。

その先の関係になりたい、と思わない訳ではなかったけれど、色々と拗らせた俺は、とりあえずこのままでいいじゃないか、と自分を誤魔化して彼女の隣に居続けた。均衡を崩したのは彼女だった。

「すき、なんだ、けど」

その言葉に、一瞬固まって言葉が出なかった。関係が崩れてしまう。これまで通りでなくなってしまう。
なんて言おうか戸惑って彼女を見ると、真っ赤な顔をして項垂れていて、それがとても、愛おしく思えた。

「…えっと…それは、俺のこと、ですかね?」

小さく頷く彼女に、自分の体温が上がるのがわかった。気付いたらキスまでしていた気がする。散々悩んだ癖に、何やってんだ俺は。

彼女との日々は想像以上の楽しさだった。
付き合いたての夏休み、彼女がひとり暮らしなのを良いことに転がり込んで、ほとんど毎日一緒に過ごした。就活を早々に終えていた数ヶ月前の自分に心から感謝した。
いろんなことを思いつく彼女は、スイカ割りをしたい!と丸いスイカを買って来たはいいけれど、割る所がなくて狭い風呂場で目隠しして、ふたりでわーわー言いながらやったり、公園で何度も花火をしては通報され、お巡りさんと顔見知りになったり。

夏の終わりにはふたりで一緒にライブにも行った。色違いでお揃いのライブTシャツを着て、タオルにリストバンド、ポーチまで買って、はしゃぎ過ぎかな、と苦笑する彼女に、たまにだからいいんじゃん、と言うと、そうだよね!と満面の笑みが返ってきた。イントロが流れる度に表情がコロコロと変わる彼女がとても可愛いらしかった。

今までの人生になかったスパイスをたくさん教えてくれた。楽しいこと、嬉しいこと、愛おしいこと。
だから、余計に話せなかった、それまでの自分を。ネガティブなことで、その幸せを、壊したくなかった。

学生のうちはそれで問題なかった。これからもきっと問題ない、そう思っていたけれど、現実は厳しかった。

就職して半年も経たず、親父のリストラ、金銭面の躓き、現実的な問題がずしりと乗っかってくる。

希望の職種に就いた彼女は日々楽しそうに忙しくあって、会える頻度はガクッと下がり、だからこそ、せっかく会えた時に暗い話はしたくなかった。

社会人になって初めての夏休み。正直、大きな出費はしたくなかったけど、せっかく彼女と過ごせる時間にケチケチしたくなかった。
楽しいはずなのに金のことばかり気にかかる、そんな自分も嫌だった。
屈託なく笑う彼女に、隠し事ばかりの自分が苦しかった。

夏が終わり、彼女の仕事はより忙しくなった。曜日を問わず働いているようだった。ほとんど会えなくなった。連絡さえも取れない。
俺自身も平日は忙しく働いていたけれど、土日になるとポッカリと時間が空く。そんな時に暗い感情は足元からヒタヒタと忍び寄る。先の見えない不安、どうしようもない寂しさ。

耐え難くなって、彼女に会いに行った。タイミングとしては最悪だった。今言うべきでないことはわかっていた。それでも、もう、限界だった。健康補助食品を片手にパソコンに向かう彼女に言った。

「…ちょっと聞いてほしいことあんだけど」
「え〜なに〜?」
「家の話。ちょっと重い」
「…あー…ごめん、今ちょっと余裕ない」

そうだよな、わかってはいた。でも、実際に彼女の口から聞くと、こんなにも重い。

「うん、そうだよな。ごめん」

傷付いたことをなるべく悟られないように、意識的に穏やかな声で言った。その後、どうやって家に帰ったのか覚えていない。翌日から、俺は狂ったように仕事に打ち込んだ。

残業を積極的に受け入れ、先輩達に取り入って仕事を貰い、兎に角がむしゃらに働いた。
そうする事で金にもなるし、色んなことが忘れられるから。

その姿勢が今どき珍しい積極的な若者、として年配者の目に留まり、気にかけて貰えるようになった。言われたことを素直に聞き行動する、ハキハキ喋り、上っ面の会話でニコニコする。全部が結果に繋がるなら、こうすることで楽になるのなら、もう全部どうでもよかった。
有難いことに酒もそこそこ強く、夜の街も誘われれば行った。仕事に精を出し、付き合いも悪くない、上司が求める部下を演じた。

その中でも当時係長だった今の部長が目を掛けてくれて、家の事情も少し話すと、役職が付くよう、いろんな面で取り合ってくれた。お蔭で今、同期の中でも出世頭となっている。

彼女とはメッセージのやり取りで別れた。ちゃんと会って話すのが道理だろうと理性が言うが、仕事に全振りで体力も気力も使ってしまっていたから、それさえ煩わしく感じた。でも、それはきっと当時の自分を守る言い訳に過ぎなくて、結局はただ、怖かっただけなんだ。いつだって真っ直ぐに話す彼女に、自分も真っ直ぐ、向き合うことが。

***

『昼休みひま?ランチミーティングできる?』

週中の昼間、部下達は出払ったオフィスでデスクワークをしていると、同じく社内にいる部長からメールが飛んできた。
チラッと席を見るとアイコンタクトを返してくる。何か人に聞かれたくない話かな。
大丈夫ですよ、と返信すると、場所を指示され部長はそのまま席を立った。少し間を空けて後に続く。

指定された場所は会社の近くにある定食屋で、奥に半個室の席がある。社内にもそこそこ立派な食堂があるのに違う場所、ということは、まだ公にしたくない何かなのだろう。
部長は既に席について出されたお茶を啜っていた。

「お〜忙しいのに悪いね」
「いえ」

お茶を持ってきた店員に日替わり定食を頼んで席に着く。

「何かありました?」
「んーまあ、ね」

で、最近どう?といつもの口調で聞いてくる。チームの現状や気に掛かっていることを話しているとふたり分の食事が届く。

「相変わらず美味しそうですね」

にこりと店員に声を掛ける部長は、根っからの人たらしだよなあ、と思う。こういう人が上に立つんだろうな。
箸をつけながら、部長が本題を話し始めた。

「君のところのさ、元気な彼女、別部署にもらってもいい?」
「…随分急ですね」

話を聞くと隣の課に家庭の事情で退職する人がいると言う。たまたま同じチームのひとりは来月から産休に入り、欠員2名はキツい、とのことだった。

「いつからですか?」
「ほんとは今すぐにでも、と言いたいところなんだけど、現実的には厳しいから下半期からかな」

うちの会社は12月決算なので、9月を境に上期と下期が分かれている。

「2ヶ月後ですか…彼女の持っている担当はどうします?」
「大きなところは残して、小さなところは今のチームで分担する形を取ってほしい」

期待の若手、と言えどまだ3年目のあいつが持っている担当はそんなに多くない。業務的には実現可能な所だろう。スケジュールアプリを開きながら確認していると、部長が付け加えるように口を開いた。

「それに、そろそろ潮時でしょ?」

怪訝な顔をする俺に、部長は苦笑しながら続けた。

「君たちの関係。深くするつもりがないなら、ちょっと離れた方がいいよ」

思わぬ話題の展開に頭がついていかない。

「近くにいたら、君、面倒見ちゃうじゃない」

そう言って部長は味噌汁を啜る。
俺は箸を持ったまま固まっていた。

「仲良いように見えたから、君にその気があるならそれもいいかなって思ってたんだけど。彼女の気持ちに応えるつもりはないんでしょ?」
「…ない、ですね」

あいつが妹のように懐いていた所から少しずつ変化しているのは俺にもわかっていた。だけど、徹底的な何かがあった訳でもないのに、こちらの態度を変えるのもおかしいだろう、とそのままにしてきた。

「今はまだみんな微笑ましく見てるけど、このままいくとあんまりいい感じにならないと、僕は思う」

だから、ちょっと物理的に距離を置いたらどうかなって。淡々と言う部長を、そんな所まで配慮して人事ってするのか、と驚いていると

「普通はここまで配慮しないよ。僕なりに君のことは気に掛けているんだ」

部長は笑った。

「弟さん、来月結婚式だろ?家のことも落ち着いて、君自身もプライベートを考え始めるんじゃないかなって。その時に、いろいろ、関係性も変わってくるでしょ」

仕事に影響出そうなところは整理しとくに越したことはない、そう締め括り、お茶を飲んで一万円札を置いた。

「話はそれだけ。彼女には僕から伝えようか?」
「あ、いえ、私から」

そう?じゃあ、よろしく、と席を立った。
ひとりポツンと置いていかれた俺は、まだ頭の中の整理がつかないまま、とりあえず目の前の飯を腹の中に入れた。

***

社内が騒つく金曜の夕方。デスク一台と椅子が4脚だけある狭いミーティングボックスに、あいつと、あいつの直属の上司にあたる主任を呼び出した。異動の話をすると、ふたりとも神妙な顔をしながら、特に意義もなく、わかりました、と言った。まあ、異議を唱えたところで、もうほぼ決定している事項に一社員があれこれいえる訳ではないから、当然と言えば当然なのだが。今後のスケジュールを一緒に確認し、簡単に引き継ぎなどの話をする。詳しくはまた週明けに、と区切って部屋を出る。

幾つかのタスクを片付けて、まだ残っている部下達に声を掛け、退社する。あいつはもう自席には居なかった。異動はあいつにとっては本意ではないだろう、飲みにでも行ったかな、と思った。

エレベーターに疲れた身体を乗せる。ここ数年で、夕方になると目が霞むようになってきた。同期にポロッと溢したら、おっさんかよ、と笑われた。昇進も早い分、プレッシャーも大きいから、身体も心も老化が早いんだろっと笑い返しておいた。

「ふう」

一息ついてエントランスをくぐる。

「かーかりちょ!」

急な呼びかけに驚く。その俺を見てあいつが笑う。

「わはは、びっくりさせちゃいました?」
「お、おう。帰ったんだと思ったわ」

えへへ〜と笑いながら、ちょっと言いにくそうに照れながら口を開く。その仕草に女を感じた。

「かかりちょーと飲みに行きたくて」

あいつの一言「完全に俺の心はシャッターを閉めた。勘弁してくれ、その一言が真っ先に出てきた。とりあえず会社から離れるように歩きながら話す。

「あ〜」
「先約ありですか?」

いや、えっと…どうしたらいいんだ?こんな時。ちらっとあいつを見ると、期待と不安が入り混じった顔をしている。まだ20代中頃の表情は、今の俺からすると随分と幼く思えた。

「いや、ふたりでは行けないかな」

ニコッと外面を作る。こいつの思いには応えられないが、部下として、人として、こいつが嫌いな訳じゃない。だったら逆にちゃんと、気持ちがないことを示してやらないといけないのかもしれない。
えっと…と戸惑うあいつの目を見て言う。

「俺はお前の上司だから。それ以上でもそれ以下でもないよ」

いつもチャラチャラとして、明るいあいつの瞳が分かりやすく曇る。ほんの少しだけ、何本気にしてるんですか、冗談ですよ〜と笑ってくれるのを期待した。でも、それは叶わなかった。
俺だって言いたくなかったよ、こんなこと。少しの沈黙の後、あいつが口を開いた。

「そ、そーですよねー、うん、うん、ごめんなさい!えっとお…お疲れ様でした!」

足早に街の喧騒に消えていく。あいつが見えなくなるまで見送って、地下鉄の階段を降りた。

***

「だあ〜疲れた〜〜」

駅前のスーパーで買い込んだ惣菜やビールを袋ごと机に置いてソファにぼすん、と腰を下ろす。終業後の一連のやり取りを思い出し、また気持ちが重くなる。恋愛、マジで苦手だわ…。
缶ビールを開け、AIスピーカーに音楽再生を頼む。もう来週末にライブを控えた彼らの音楽が空気に流れ込む。

結局残ったチケットは売りに出し、ほぼ定価で返ってきた金は、弟達の好意に甘えてライブTシャツにした。それでも余った分はプラスにしてご祝儀に乗せるつもりだ。
30過ぎた男がひとりでライブ参戦、しかもTシャツ着てとか痛いかな、と思ったけど、まあ祭りみたいなものだし、せっかくだから、と買ってみた。それでも一番地味な、わかる人にしかわからないようなデザインを選んだ。

彼らの声とビールが身体に沁みる。
もう、なんか全部嫌だ。全部めんどくさい。
ろくに着替えもせず、ローテーブルに突っ伏してた。音楽だけ耳に入れながら、目を瞑る。俺ひとりにとっては広すぎる部屋の真ん中で。


続きはこちら


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?