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続きは歓声の後で #1 続きは歓声の後で

「マジか…」

推しのバンドがライブする。
5年ぶり、しかも東京ドームで、ときたら、ファンとしては予定や予算なんて二の次でチケット合戦に参戦するものだ。
最速先行予約QRが同封された最新アルバムを予約して、日々の仕事に忙殺された金曜の夜。ポストを覗くとそれがあった時の高揚感ったらない。

お風呂に入って、いそいそと晩酌の準備をする。万全の準備の後、丁寧に開封して、既に音楽アプリで何度も聴いた楽曲を、パソコンに入れて盤で楽しむ。

どうせ流れるスピーカーは同じで、でも、彼らが組んだ曲順で、歌詞カードを眺めながら聴くのはまた一味違うのだ。そう思うのは、年号ひとつ前の生まれだからだろうか。

聴き慣れた声が紡ぐ、新しい音に浸りながら、安いワインを傾けて、あ、そうだ、と予約QRを読み込む。日時と席種を選んで、枚数で手を止めた。

30を過ぎた私の周りには、同じバンドのファンはいないし、それ以外の友だちも皆それぞれに生活があって、夕方からの、しかもそれなりのお金を聞いたことあるなあくらいのバンドのライブに割いてくれと頼めるような人はいない。

1枚、を選択して確定ボタンを押す。少しさみしい気もするけれど、変に気も遣わなくていいしね、と、自問自答しながらワインを煽る。
疲れと、酔いと、昔から聴き慣れたやわらかい声が心地よくて、まぶたの重みに負けてしまう。
ゴロン、とベットに横たわり、目を閉じる。ぼんやりとした頭に浮かんだのは、私より大きな、骨ばった背中だった。

***

大学生の終わりに付き合った人は、同じゼミで、同じようなテーマで卒業論文を書いていた。いつも特定の友達とつるんでいた彼は、お世辞にも愛想がいいとは言えなかった。3年次ではさほど仲は良くなく、ゼミで顔を合わせば挨拶する程度。

そんな私達の距離がグッと縮まったのが推しバンドだった。

4年の始まり、卒業論文に向けたテーマ出しの段階で躓いた私達は、家にパソコンがない組として、放課後、誰もいなくなったパソコンルームでふたり、それぞれに作業をしていた。
黙々とパソコンに向かうも、お互いに段々とキーボードを叩く音も少なくなり、お腹すいたな、とふと顔を上げた時に目が合った。

「…調子どう?」
「ダメだね…ぜんぜん終わりそうにない、と言うか先が全く見えない」
「私も…」
「売店行ってくるわ。何かいる?」
「あ、私も一緒に行く」

疲れが溜まった身体を引きずって売店に向かう。ぼんやりとした頭で目についたものを、バサバサとカゴに入れていく。

「それ、全部買うの?」
「え?」

ふと見ると、食べ切れないほどのチョコレート菓子にあまい飲み物が数本、カゴに入っていた。

「あー、疲れには糖分だよ?」
「いや、それにしても多過ぎじゃね?」
「確かに…疲れてんのかな」
「だろうね」

ははっと笑った顔が、いつもと全然違って胸がキュッとなる。

「そんなに笑うことないじゃん」
「いや、なんか、すごい、ツボにハマった…」

お腹を抑えて笑う彼に、君だって相当疲れてるでしょ、と口を尖らせる。
そんな風にジャレながら商品を選んで、部屋に戻る頃には和やかに話すようになっていた。
自席に戻り、チョコをつまみながら、さあ、もう一度頑張りますか、とパソコンに向かう。

「ねえ、音楽掛けてもいい?」
「いいよー」

ひと列向こうから届く声に応える。
少し間が空いてスマホから音楽が流れる。
ピアノの音が心地良い軽快なバンド曲。

「え、君もこれ聴くの?」
「え、これ知ってるの?」
「うん、CD全部持ってるよ」
「マジで?」
「今回のアルバムの最後の曲が好き」
「うわ、めっちゃわかるー」

イントロのピアノソロたまんなくねえ?とかさっきよりももっと砕けた口調で、疲れもあってなんだろうけど、いつもより全然、表情豊かに語る彼に、あっという間に心を掴まれてしまった。

それから急激に距離が縮まった。卒論作業のほとんどの時間、彼と推しバンドの声があった。まだ20年そこそこしか生きてきてない私たちだけれど、それぞれの人生の節目節目に彼らの楽曲があって、この曲の時ああだった、こんなことを感じてた、なんてことも共有し出したら、それはもう、心全部曝け出すようなもので、それをわかるわ〜なんて受け止めてもらえたら、もう、恋に落ちるしかない訳で。

夏休み前最後のゼミの日、いつもと同じように彼らの曲をBGMに、隣り合ってふたりで作業していた時

「あの、さ…」
「んー?」

パソコン画面を見ながら、私より大きな骨ばった手が、ダブルクリックするのを見ながら、私は言葉を繋いだ。

「すき、なんだ、けど」

体温が上がるのがわかる。心臓の音がうるさい。握りしめた拳が汗ばむ。
伝えなくても、良かった。そのままの関係で卒業まで一緒にいることはできたと思う。でも、育ってしまった気持ちをそのままに、これから長い夏休み、会えるのかな、会えないのかな、と悶々としながら過ごすのは辛かった。
大丈夫、ダメだとしても暫く夏休みで会わないし、そこでリセットできる。でも、やっぱり、もっと特別で、一緒にいれたら嬉しいよな。
期待と、緊張。彼の顔なんて見れなくて、続く言葉も見当たらなくて。

「…えっと…それは、俺のこと、ですかね?」

項垂れた頭で頷く。

「え、えー、あー、おまえ、今言う?」

あー、うー、と唸る彼をチラッと見上げると、多分私と同じくらいの赤面していて。頭を抱える彼と、バチっと目が合う。

「…俺も、すき、です…」

ひゅっと、呼吸が止まるみたいな、漫画みたい、こんなの、

「心臓痛い…」
「いや、それ、俺もだから!」

なんで今なの!?もっと雰囲気とかタイミングとかあるじゃん!?と変なテンションで捲し立てる彼に肩の力が抜けて、顔がゆるむ。

「なに笑ってんだよう」
「ひゃって〜」

ほっぺを摘まれる。でもやさしい触れ方だから全然痛くない。嬉しい。ニヤニヤが止まらない。
ヘラヘラ笑う私に、ちょっとムッとした彼の手が、私の頭に伸びて、少し引き寄せられ、唇が触れ合う。
びっくりする私に、ちょっと気まずそうに目を逸らす彼。

「…急な告白の仕返し、デス」
「…心臓が痛すぎるんですけど…」

日が暮れても熱気を帯びた帰り道、ギュッと繋いだ手、夏特有の浮き足だった世の中で、私たちもきっと少し、地面から浮いていたと思う。

***

目が覚めた時にはお昼を回っていた。
特に予定がないとはいえ、せっかくの休みを無駄にしてしまったような罪悪感がある。
動かないとなあ、と頭では思うけれど、仕事の疲れと抜け切れないアルコール、夢に見た甘酸っぱさに身体は再びベットに引き寄せられる。

「もう10年も経つのになあ」

やけに鮮明に思い出した記憶の余韻は確かに自分のことだったはずなのに、どこか他人事で。これが想い出になるってことなのかもしれない、なんてもう30過ぎ、彼氏もいない女が学生時代の元彼を思うなんてさすがに気持ち悪すぎるな、と苦笑する。

別れは大学生カップルにありがちな社会人になってからのすれ違いだった。
私は小さなイベント会社で企画部門に入社した。企画ではあるものの、新入りのペーペーはことあるごとに現場にも向かわされた。一年目は背中で覚えろ!みたいな昔ながらの会社で、人からしてみればブラック企業と言われる部類だろう。でも私にとってはやりたい仕事に携わるチャンスをくれる場所だった。仕事漬けの毎日はしんどかったけど、楽しかった。でも、若い私に、仕事以外に時間や意識を割ける余裕はなかった。
一方で彼も、中堅会社の新人営業マンとして日々奮闘していた。平日は朝早くから終電まで働くことが多くて、その分、土日祝はしっかり休める会社だった。
平日は昼夜問わず働く彼と、土日出勤も多々ある私。会える時間は限られていた。

それでも、入社してから半年くらいまではお互いを鼓舞しながら、時には甘えて甘えられて、夏休みは合わせて取ったりふたりの時間を過ごしたりしていた。
転機は私の企画が初めて通った時。今からすればそんなに大変でない小規模なイベント。それでも初めて自分が考えたものが形になる。仕事に向かう熱量が、それまでとは比にならないくらい燃え上がった。時間も、意識も、全振りで仕事だった。

「身体、大丈夫?」

全く会えなくなり、なんなら連絡もつかなくなった私を心配して、彼がうちに来た時のこと。当然のように仕事を持ち帰り、帰ってきてからもパソコンを開く私に彼は半ば呆れていたようにも思う。いや、正直にいうと、どんな表情をしていたのか覚えていない。きっと、見ていない。何でこんな時に来るんだろう、と正直面倒だとさえ思った。

「うん、とりあえずイベント終わるまでは死ねないし」

若さ故、そして私の性格故の行動を、彼もわかってはいたのだろうけれど。その時、多分、彼も人生の大変な時期だった。少しの沈黙の後、言いにくそうに口を開く。

「…ちょっと聞いてほしいことあんだけど」
「え〜なに〜?」
「家の話。ちょっと重い」
「…あー」

シングルマザーであることは聞いていた。でも、それ以上は話してこなかったし、こちらからも積極的に聞くことはなかった。

「ごめん、今ちょっと余裕ない」

彼の顔もまともに見ずに言った。
少しの沈黙の後、穏やかな声で彼は言った。

「うん、そうだよな。ごめん」

いつもの調子だった、と思う、でも、きっと、装っていただけで、私もきっと、気付いていた。それでも、その時の私には、相手の気持ちを慮るような余裕はなかった。

「イベント終わってからでもいい?」
「…うん。ありがと。とりあえず帰るわ」

身体壊すなよ、そう言って彼は出て行った。それから彼から連絡が来ることはなかった。気付いてはいた、取り返しのつかないことになるかも、と頭の片隅でわかっていた。でも、行動にまでは至らなかった。時間の無駄とさえ、思ってしまっていた。

やっと全てが終わったのはひと月後だった。
イベントが無事に終わって、打ち上げでベロンベロンに酔っ払って起きた次の日。
朝方に帰ってきて、起きた時にはもう、お昼を回っていた。ガンガンと痛む頭と身体の倦怠感、でも心は晴れやかで、さて、なんて彼になんて連絡をしようか、とスマホに向かう。
前回のやり取りはもうひと月も前で、恋人としてこれはどうなんだ、と思う。ひと月あいた今、なんて送ればいいんだろう。

『イベント終わったー』

とりあえず、いつもの調子で、と心掛けたけど、いつもの調子さえ思い出せなかった。
月曜日ということもあって、既読はなかなか付かなかったけど気にならなかった。仕事中だろう、くらいに思っていた。返信が来たのは思ったより早い、夕方を少し回った時だった。

『お疲れ』

無機質なひと言。その返信に、嫌な予感を覚える。明日も休みだよー、会いたいよー、なんて無邪気に言える雰囲気じゃなかった。どうしようか、と悩んでいると続けてメッセージが飛んでくる。

『今から会える?』

ああ、これは、きっと良くない方のやつだ。心臓の奥の方から冷える感じがした。

『ごめん、今日は無理かも』
『そっか、じゃあ直接じゃなくてごめんなんだけど』

え、あ、そういう感じ?
嫌だ。その先は見たくない。

『別れよう』

どうか勘違いであって欲しい、なんて願う間もなくメッセージが続いた。
そうだよな、私が放っておいたんだ、私が突き放したんだ、当然の結果のはずなのに、指先まで冷えて、心臓がアイスピックで刺されたみたいにギュッとなった。
開きっぱなしのトーク画面、付いた既読をきっと彼も見ている。
どうしよう、なんて返せばいい?でも、もう、どう足掻いたって、きっと彼の中の結論は変わらない。それを覆すだけの熱量が、今の私にはあるだろうか。

『そうだよね。わかった。今までありがとう』

既読はすぐに付いた。
返信が来ることは、なかった。

なかなか、ひどい別れ文句だったな、と過去の自分の行動を振り返って恥ずかしく思う。何だよありがとうって、何だよわかったって、相手の気持ちなんて全然考えず、自分ばっかりだった癖に。まあ、でも、それがあの時の私だもんな。
プライベートはズタボロだったけれど、あの時の自分の頑張りがあって、今の立ち位置にいることはよくわかっている。

***

参戦用のグッズをネットで選びながら、会場で会っちゃったりするんだろうか、なんて性懲りも無く妄想する。
あ、久しぶり、なんて、お互いちょっと気まずさもあったりして、でもちょっと話せたらいいな、それで、ちょっと近況報告なんてしたりして。お蔭様で仕事ばかりだけど頑張ってるよ、充実してるよ、そっちはどう?なんて。
いやいや、普通に考えて彼女いるでしょ、なんなら結婚してるかも、子どもがいてもおかしくない年齢だし。表面には出にくいけど、相手のことをじっくり観察して、優先して、大事にしてくれる人だ。きっと奥さんは幸せ者だろうな、なんて所まで考えてかなしくなる。
あんな別れ方をしておいて、今更どの面下げて、もう一度彼の人生に関わりたいなんて思っているんだろうか。もし仮に、万が一会えたとしても、私に向けられる目は冷たい軽蔑されたものだ。目が合ったって無視される。彼の人生の中に、もう私はいないのに。

そこまで考えて、思う。
ああ、私は、もう一度会いたいんだ。
自分で思っていた以上に、後悔してたんだなって。

会える確率なんて、相当低い。
でも、もし、もし、本当に会えたなら。
傷付けてしまったことは、謝れたらいい。
そんな妄想を思い描くのは、数年ぶり、しかもバンド初の東京ドーム公演だからなのかな。特別だから、私にとっても、特別であったらいいのに、なんて思っているんだろうか。

「いい歳して、何考えてんだろ…」

***

いつも通り仕事をして、休みの日にはダラダラして、時折そんな妄想をして。そうしているうちにライブの日になった。金曜の夕方、午後半休を取って会場に向かう。

事前に買ったライブTシャツをとタオル、リストバンドを鞄に忍ばせ出社した時は、はしゃいでいるなあ、とちょっと自分に呆れたけれど、タイムカードを切って、会社を出たら、そんな気持ちは消え去った。10代の頃のドキドキとワクワクが、開演時間はまだまだ先なのに私を早足にさせた。
まだ平日として世の中が動く中、ひと足先にオフになると、ちょっと悪いことをしているような、先生に嘘ついて早退した時のような、ほんのりとした背徳感と高揚感があった。

会場が近づくにつれ、グッズを身につけた人たちが増えていく。
活休していた訳ではないけれど、ボーカルの病気だったり、バンドマン特有のスキャンダルだったりで、新曲やアルバムの進みは途轍もなく遅かったし、ライブなんてもっての外、だったのに、最近では有名どころのアニメ主題歌を歌ったり、映画にも楽曲提供をしている影響か、若いファンも多くいる。私たちみたいな昔からのファンと半々くらいだろうか。

10代後半から20代かな、と思える子たちはみんな、友達同士だったり、カップルだったり複数で来ていて、フォトスポットや会場をバックにしてあれこれポーズを変えて写真を撮っている。すごいな、キラキラしてる、眩しいなあ、と微笑ましく眺める。負け惜しみでなく、羨ましくは思わなかった。もう、私はその土俵にすら立ってないんだな。

当選したチケットはアリーナブロックで、しかも今までにないくらい、ステージから近かった。既に開場しているのに、まだまだ伸びる会場入りの行列に身を任せる。人混みはそんなに得意でないから、マスクをして、ワイヤレスイヤフォンで遮断する。

彼らの声に守ってもらう、昔はそんな感覚が強かったな、と思い出す。彼らが新曲を出す度に、拝めて、何度も聴いて、歌詞に涙し、生活のどこかにいつも置いて、命綱みたいに。
でも、それも、彼と別れてからは無くなった。安心だったはずの彼らの音楽が、楽しかった思い出とリンクし過ぎて私を苦しめた。新曲サイクルが遅くてよかった、と思ったのは初めてだった。

「はあ…」

会場に来てまで妄想とか、ほんと末期だわ。天井の低い通路を抜けて、ようやく会場に入る。相変わらず列はぎゅうぎゅうだけど、天高があるだけで開放感がある。

「はあ〜」

久しぶりのライブの空気を吸い込んで、もう、ウジウジするのは終わりにしよう!と思う。だってせっかくのライブだ。若い子みたいにキャピキャピは楽しめないけど、私なりに彼らの音楽を全身で楽しむぞ、そう切り替えて自分のボックスへと足を踏み入れた。

***

当たった時はすごくテンションが上がったアリーナ席だったけれど、いざ会場に来てみると、ここで2時間半立ちっぱなしかあ…と不安を覚えた。椅子のある席の方がよかったかな、もう歳なんだな〜と自嘲する。
ブロックの前の方は既に何時間も前から並んでいたであろう若者たちに陣取られていて、とりあえずブロック後方、人との間隔がある程度確保できるところを位置取る。

いや、でも、やっぱステージ近っ、久しぶりのこの感じ、テンション上がるな〜とマスクの下でひとり噛み締めていた。

開演までそれなりに余裕を見て入場したから、まだ暫く時間がある。何となしに周りを見回す。ひとりで来ている人もそれなりにいるみたいだ。
ふと、同じようにブロック後方で全体を眺める男の人が目に入る。あれ…?と思って見ると、目が合って…

「え…」

嘘でしょ、思わず目を逸らす。いや、でも、え…?パニックになりそうな自分を落ち着かせて、もう一度男の人を見る。
やっぱり…何度も思い描いた妄想が、目の前にあった。向こうは素知らぬ顔でスマホをいじっている。

彼だ、確かに。そう思うと全身から変な汗が出て、鼓動で送られた血液が指の先まで行き渡っているのをいつもより鮮明に感じた。ジンジンする、ザワザワする。
妄想と、全然違う。話しかけるなんて到底無理だ。妄想の私はなんであんなに饒舌に、表情豊かに彼に話しかけられたのだろうか。そんなこと、絶対にできない。妄想にはない、4次元の空気感が、肌感覚が、そう言っていた。
さりげなく距離を取って、人を盾に彼の目に触れない所へと逃げた。それが私の、現実だった。

バクバクした心臓を落ち着かせるようにバラードを選曲して、ふうっと大きなため息をついたところに、思いもよらぬ声が掛けられた。

「おひとりですか?」

見知らぬ男性、歳は私より少し上、40歳前後かな?中肉中背、愛想がいい、というよりは少し気持ち悪い笑みを浮かべている。

「え、…私、ですか?」

片耳のイヤフォンを外しながら答える。
そうです、そうです、と妙な馴れ馴れしさを持って話しかけてくる。あ、これはやったな、と思った。捕まるやつだ。

「僕もひとりでしてね、もし良ければ一緒に楽しめたらなあ、なんて。せっかくだし、誰かと楽しみたいじゃないですかあ」

はあ、と相槌を打つと、押せばいけると思われたのか、ペラペラと喋りだす。好きな曲やファン歴、これまでのライブの感想、自分の住まいや仕事、恋愛経験まで…いや、なにこれ。
あははは、と迷惑そうに笑い返すも、通じる相手ではなくて。

「ね、是非、もっと前の方でご一緒に」

無遠慮に男の手が伸びてくる。うわ、触られたくない、と反射的に身体を引く。私を追いかけ更に伸びたその手が、触れることはなかった。

「俺の連れに何か用ですか?」

頭の少し上、懐かしい声が降ってくる。
男の手は彼に払われ、驚いた男は、あ、お連れさんいらしたんですね、何だ言ってくださいよう、と早口に気持ち悪い笑みを浮かべてブロックの端へと消えていく。振り返るとそこには、最後に見た顔より少し大人になった彼がいた。

「久しぶり」
「…久しぶり」

笑顔もなく、感情を感じない声色。
ザワザワした会場の中で、私たちの周りだけがしんっと音を無くしたみたいに思えた。
何を言えばいいんだろう、何で助けてくれたんだろう、あ、お礼か、お礼言ってない。

「あ、ありがとう…」
「どういたしまして」

再びの沈黙。え、これ、どうしたらいいの…?

「迷惑だった?」
「え?」
「いや、あいつと見たかったかなって」
「いや、それは全くない!ほんとに助かった!」

そ?とちょっと笑う彼に、ちゃんとキュンとしちゃう自分が嫌だった。そんな資格、ないのに。

「連れは?いないの?」
「あ、うん、ひとりで…そっちは?」
「俺も、ひとり」

そっか…の後の言葉が続かない。会話がなくてもそばに居てくれるのは、またあの人がこちらに来ないようになのだろう。無言の優しさが痛かった。でも、ひとりでいて、またあの手の人が来たら、どうしたらいいのかわからない。
それに…チラリと横を見ると手持ち無沙汰にスマホを弄る彼がいた。本当に、会えた。
会えたら、何をするんだっけ。
もう、何度も妄想してきたでしょ。
もう、あの頃の、子どもの私じゃ、ないんでしょ。

「あ、あのさ」

彼がこちらを見る。その瞳には付き合っていた頃のやわらかさや甘さはない。当然のことなんだけど、ただの男の人の視線に心が怯む。でも、勇気を出して、妄想の100分の1でいいから、頑張れ、私!

「その、あの…すごく、今更で、今更こんな事言われてもかもしれないんだけど…」

彼が私を見る。その視線から逃れたくなって俯く、けれど、それではちゃんと、伝わらない。
せっかく会えたんだから、できなかった後悔より、やった後悔!

「あの時は、ごめんね」

目線をしっかり合わせて伝える。プレゼンの基本だ、いつも後輩に言っているじゃないか。
言葉に詰まってもいい、でも、伝えなきゃいけないことは明確に、きちんと届くように。何を伝えたいのか、心をつくすこと、それが大事なんだ。

「自分に余裕がなくて、聞いて欲しいって言ってくれたのに、聞けなくて、ごめん」

「別れる時も、ちゃんと話し合わなくて、ごめん」

「自分ばっかになってて、気持ち考えられなくて、ごめん」

箇条書きで、飾りっ気なんてなくて。妄想の私はもっとあれこれ肉付けして、いい感じに伝えられていたのに。現実はなんて難しいんだろう。でも、それでも、ここ最近ずっと、私なりに考えてきたこと。10年越しに、伝えたいこと。

「…怖かったんだ。傷付けて、ごめんね」

うん、とだけ言って彼は黙る。そこに開演前のアナウンスが流れた。会場は湧き立ち、みんなが少しずつ前へと動く。私たちは取り残されたように、そのままで並んでいた。

「今、彼氏とかいんの?」
「へ?」
「俺はいないんだけど」
「わ、たしも、いないけど」

そか、と短く答えて彼はステージを見る。
開演前に流れるお決まりの音楽がボリュームを上げていく。

「じゃあ、せっかくだし、一緒に楽しむ?」

悪戯っぽい笑みで言う。会場の照明が段々と暗くなり、比例して歓声が大きくなる。

「話はそれからにしない?」

その声に負けないよう、顔を近づけて耳元で話す彼の声に、まるであの頃みたいに心が弾んだ。ああ、私、まだまだドキドキできるんだ。
会場内に歓声と手拍子が鳴り響く中、彼の耳に届くように言った。

「…うん!」


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