いま好きなものをただ好きで
4年半勤めていた会社を辞めた。
いまは最後に有給消化で休みをもらい、2月末まではゆっくり過ごす予定でいる。
毎朝決まった時間に起きて、身支度をし、決まった場所へ向かう、ということがないのは、考えると4年半ぶりだ。
高校を卒業して勤め始めたけれど、わたしは高校が通信制高校だったし、小学校はほぼ不登校だったし、中学校こそ毎日登校していたものの「毎日決まった時間に決まった場所へ向かう」ということは、わたしの人生において実はあまり耐性のない、経験したことのないことだった。
だからこそ純粋に4年半会社で勤められた自分のことを褒めたい気分だし、そして辞めたいまは不登校だった頃のこと、ずっと家にいた頃の空気をなんとなく思い出す。
あの頃わたしは何をしていたんだろう? と考えると謎だし、何かをしていた気もするし、何もしていなかった気もする。
学校へ行くことからは逃げていたけれど、代わりにそれでも逃げられない何かにひたすら追いつめられていたし、楽をしているようで全然楽じゃなかったな、と思う。
そんな頃の空気をふたたび感じるのは、だからなんだか少し怖かった。
実際、辞めてやりたいことはあったはずだけれど、いざ辞めると目の前の白さに茫然として、虚無感や切なさに襲われてやりたかったはずのどれもがなんだか違うように思えてしまった。
ただ、この白さを眺めているうちに思ったことがある。
わたしは不登校だったあの頃より、いまはずっと、好きなものをたくさん持っている。
好きなアーティスト、好きな世界観、好きな価値観、好きな人たち。
そんなものに支えられてわたしはこの4年半、会社勤めなんていうわたしには到底恐ろしくてできそうになかったことを、乗り越えられたのではないかと思う。
スマホを手に入れたことも大きい。
スマホを持ってから、触れる音楽も、知った小説も作家も確実に増えたし、それだけじゃない、たくさんの人の世界、TwitterやInstagram、わたしの知らない人の世界、その人たちがいまもどこかで何かを考えながら生きている、ということを知った。
出会った人も増えた。
学校に行けなくて引きこもっていた頃より、関わる人の数は増えたし、好きだと思える人の数も増えた。
人には恵まれていたので、世界は思ったよりもわたしにやさしいのでは、とさえ思えた。
わたしの周りには、光に透ける小さな宝石のようなものがいくつか転がっていて、わたしはそのひとつひとつを自分の心模様によって選びながら、身につけたり眺めたり抱きしめたりしながら、過ごしてきた気がする。
わたしの好きなものはひとつではない。
そのことが、時折、とても絶望として感じられるし、あるいはものすごく希望として感じられることもある。
何かたったひとつのものやたった一人の人のことを、心から愛することができる人のことが、たまに羨ましくなる。
わたしは誰かに、「あなただけです」と言うことはできないし、誰かを1番にして生きていくことはできない。
ここまで生きてきてようやくわかってきた。
わたしは限りなくすべてを好きになりたい。
だから好きになれない人に出会うたびに傷ついて、自信をなくしてきた。
何か好きなものに出会っても、そのほかの好きなものを置き去ってしまう気がして気がつけば虚しかった。
自分が悪いような気がしていた。
でもそんな気持ちになる必要はないって、いまなら思うことができる。
いま好きなものをただ好きでありたい。
それがどれだけかけがえのないものであることか。
好きなものを好きと思うことは怖い。
それはいつか好きでなくなる日が来るのが怖いから。
でも、好きなものが好きでなくなる日が来たとしても、そうしてわたしが何かを置き去ることになっても、わたしの中に残るものはあるし、たしかに何かが積み重なっていくのだと思えるようになった。やっと。
いまあるのは、この4年半を支えてくれたわたしの好きなもの、好きな人たちへの感謝です。
本当にありがとう。
目の前の白さにはひどく怯えてしまう。
人生に怖いことは尽きない。
何があっても、何がなくても、わたしたちは必ず失くす。
でもいつかすべてがなくなってしまうなら、いまはただ好きなものを好きと思うだけ好きでいたい。
そうやって生きていきたい。繋いでいきたい。
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