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Essay|わたしの40%は

10月5日で23歳になった。

23歳になっても、何も変わらずわたしは生きているし、でもまったく何も変わらずにいられることなんてなくて、日々、少しずつ変わっていく。

この1年で大きく変わったことと言えば、転職をして、一人暮らしを始めたことで、だからもっと自分のなかで何かが大きく変わった実感があってもいいはずなのに、正直なところ、なんだか停滞した感じがしている。

こんなはずじゃなかった、とまでは思わないけど、なんだこんなものか、と思う日もある。

浅はかかもしれないけど、わたしは一人暮らしをしていちばん、詩が書きたかった。
誰にも邪魔されず、一人きりの時間で、好きなだけ時間を使って、詩が書きたかった。
だけど今それがいちばんできていないし、それどころか、詩を書きたいという意欲すら削がれていた。
モチベーションがなくて、でも、生活をすることに対してはそれなりに真面目で、働いて、料理をして、頑張って日々を回している。

でも、それが本当にしたいことだったの? と思うと、自分のやっていることの意味が、ときどきわからなくなる。

そんな、ゆるやかに夢を見失っていくような日々のなか、23歳を迎えた。

当日の朝は、毎年日付が変わってすぐに連絡をくれる友達から今年もLINEがきていて、それに返信した。
Xで今日誕生日ですとつぶやくと、いいねをくれたり、コメントをくれたりする人がいて、とても嬉しかった。

昼頃、母と待ち合わせをしてランチを食べ、大型の図書館をぶらぶらして本を借りてから、ケーキ屋さんでケーキをご馳走になった。
母と別れた後はGUに行って服を見て、本屋さんで単行本を1冊買い、ドラッグストアで切れかけていたトイレットペーパーを買って帰った。

帰宅後、洗濯物を取り入れて、それを畳みながらボイスメモを聞いた。

ここ数年誕生日には、ボイスメモを残すようにしている。
その時思っていることや、どんな1年だったか、どんな1年にしたいかを、上手にはまとまらないけれど、とぼとぼと自分の声でスマホのレコーダーに録音する。

その、昨年録ったものと、一昨年録ったものを聞き返しながら、「なんて一生懸命生きている子なんだろう」と、他人事みたいに思った。

自分の声は知らない人の声みたいで、それなのにすごく懐かしい人の声でもあるような気がして、まるで初めて会った人に瞬間的に抱く好感のような、よくわからない親しみと温かさに包まれた。

しゃべり方も、思っているよりずっと優しくて、可愛らしかった。

その印象が、客観的なのか、それともものすごく主観的なのかはわからないけれど、こんなふうに、自分を内側からではなく外側から感じることがもっとできればいいな、と思った。

内側から自分自身を感じていると、足りないもので溢れて、満ちないもので溺れそうになることがある。
自分を際限のない存在だと捉えてしまって、内側から外へと自分が打ち寄せて、ああなりたい、こうなりたい、そしてそれに届かずに、苦しくなる。

でも、外側から自分を見たら、わたしはただの女の子で、ともすれば過剰かもしれないくらい自分と向き合っていて、不器用で一生懸命で、もう、それでいいのかもしれないと思った。

自分がどんなふうに変化するかをコントロールすることはできないのだと思う。
でもわたしは100%自分をコントロールしたくて、それにずいぶん苦しんでいるような気がする。

60%くらいコントロールできれば上出来なんじゃないのかな。残りの40%ぐらいは、運や、出会う誰かや、自分ではどうにもできない偶然に左右される。

わたしはその40%を楽しめるだろうか。

今まで正直、あまり楽しめていなかった気がする。

でも、これからの人生で、わたしはその40%を、目一杯楽しめるような人間になりたい。
勝手に40%とか言ってしまっているけど、たぶんその割合すら人生では変わっていく。
それを受け入れられるような柔軟さがあれば、そしてそれを受け入れても擦り減らない自分自身がいれば、きっと大丈夫だ、と思う。

わたしは大丈夫だ。
だってわたしには自分の誕生日に自分の声を録音するぐらい、一生懸命生きている子がいるから。

だから大丈夫。

自分への自信がすぐになくなってしまうようなわたしだけれど、これからもこうやって自信を取り戻しながらまた見失いながらもがき続けるような人生になると思う。

これまでだってそうだったし。

でも、それでいいよ、と思ってあげられたらいいのだ。
それでいいよ、と思ってあげるだけでいいのだ。

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