金・コネ・語学なしの私がフランスで社長になるまで【海外移住編・完結】
こんにちは。
みなさん、いかがお過ごしでしょうか。
前編では、会社員を辞めるところまでお話させていただきます。それから、思い切ってフリーランスになった時の話から、海外移住2年目で社長になるまでをお話させていただきます。いわゆる【後編】になります。
幼少期から海外移住までのお話は、今回の後編で完結です。
前編の記事はこちらです。↓
「書くこと」が大好きなフリーランス時代
ずっと考えて私が出した、本当にやりたいこと。それは。
「書くこと」でした。
小さい頃から本が大好きで、いつか、仕事として文章や、文字や本に関わりたかったんです。
そしてできれば、そこで自分が書きたい。
小さい時から、親が近所の図書館に連れて行ってくれていました。
自転車置き場のところに生える木々の揺れる木の葉や、図書館に近づくと感じる無機質な建物の匂いと、本の匂いが混ざり合ったのを、今も鮮明に思い出します。
図書館の子供用スペースの絨毯に座って、夏休みなんかは、朝から晩まで本を読んでいました。
小学校の同級生に「さきちゃんずっと図書館にいるよね、住んでるみたいやね」って言われるくらい。
週末に図書館で開催される読み聞かせの会も大好きで、親とよく一緒に行っていました。自分で読むのとはまた違った感じ。
人の声のトーン。ペースで、また世界が変わる。面白い。
本の中の世界は、圧倒的に魅力的で、本を開くとすぐその世界に入っていけた。
本の中で、ジャングルにも行ったし、ドイツにも行ったし大海を泳ぐ旅にも出た。たくさんの仲間に出会った。
そこから、愛や勇気や知識や、憂い、人の悲しみ、喜び、いろんなことを学んで、それが私という人間の軸になった。
楽しくて楽しくて、最寄りの図書館の子ども用の本を全て読みつくしたので、少し遠い図書館に行ったりしていました。
今でも、図書館や本屋が大好きで、私にとってのパワースポット。いるだけで、並んだ背表紙や活字の溜まり場を見るだけで、幸せです。
だから会社員として、営業としてイベントの会社4年半働いて、何がしたいか?と思った時に「書いてみたい」って、思ったんです。
問い合わせフォームから応募をする未経験ライター
「書くこと」を仕事にするにはどうしたらいい?出版社にまともに応募しても、未経験の転職だし、また落ちるのではないか・・・と恐怖もありました。
そうだ、ライターなら最近はネット媒体もあって未経験でも参入しやすいのではないか?と考えました。
そこで、まだ会社員だった頃に転職活動開始。
エンタメの現場は忙しく、
常に深夜まで仕事があり、出張も多い中、出張先の会場で、ホテルでライターになるために記事を書きました。
打ち上げや撤収が終わった深夜2時頃から、記事を書いて、書いて、
ネットの媒体に応募しまくりました。
そうして2つのメディアに採用された頃、1記事3,000円とかの仕事でしたが「うん、なんかいけそう!」って謎の自信を持ち、退職しました。
その時は、記事を書くのもすごく遅くて、1週間で1記事とかしか書けなかったのに「生活費、どんな計算?」って感じですが、
なんか2つのメディアに採用されて、
いけるって思っちゃった見切り発車型タイプの私。
でもそこから、いろんな媒体に応募しました。
募集欄から応募する時もあれば、募集していなくても、お問い合わせ欄から、「ライターです。御社で記事を書きたいです。」ってメールを送りまくりました。
1つに採用されては、他社でも1社書いているので立派なライターです、アピールをし、もう1社受かれば「ここと、ここで2社クライアントがいます。」とアピールをし、そうして少しずつ書けるところを増やしていきました。
大好きなメディアで記事を書けた時は、すごく嬉しかった。
その頃日本にいた私は、海外で働くということに興味がありました。
海外で働く日本人女性たちにインタビューして、時間をかけてまとめました。
そのあと割とすぐ海外に移住しはたらくことになるって、
まだ思っていなかった頃です。
だんだんフリーランスのライターを名乗れるようになってきて、在宅で毎日書きまくる日々でした。
飛び出せカナダへ
実はフランスに住む前に、カナダに数ヶ月だけ住みました。
ずーっとずーっと、海外に行きたかったんです。
父が小さい頃ヨーロッパに出張に行っていて、かっこいい!って憧れてました。
「行けないか?」って何度も企み、高校の時の留学制度に応募しようとしたり、大学の時に国がやっている留学制度に応募しようとしたりしましたが、そういう制度でも、とりあえずちょっとはお金が必要なんですよね。
英語のレベルとか、何の応募条件も満たしてないのに応募したりしてましたがダメで(笑)
そのうち大学を卒業し、会社員になりました。
少し休みができると、いろんなところに行っていました。
インドネシア、台湾、タイ、ニューヨーク、ハワイ、韓国、ハンガリー、オーストリア、グアム、などなど・・・。
海外に行って、知らない街の、馴染みのない空気感、生活感、風を感じるのが大好きでした。
忙しすぎる会社員が終わり、フリーランスになり、在宅でできる仕事だったので、どこでも働けるようになりました。
少しだけですが、お金も貯まって。
「おお、ずっと行きたかった海外にいけるのって、
もしかして今じゃない?!」
「海外に、行こう。」
と思い立ちました。
気持ちを温めていた期間は長すぎたので、決まったら早いですね。
ビザをソッコー取り、身辺整理をして、3週間で飛び立ちました。
ついに海外で生活できる!
スーツケース1つで、カナダへ
ワクワクした私は、スーツケース一つで、カナダ・バンクーバーへ。
フィリピン系カナダ人の一軒家の一部屋を借りて、他の留学生の韓国人・ベトナム人と仲良く暮らしていました。
日本人の友だちは最初全然いなくて、みんなとのコミュニケーションはもちろん英語。英語漬けの毎日。
毎日自分の英語力の成長を感じられて嬉しかったし、語学学校では無理やり自分のレベルより上のクラスに入っていたので、伸びていくのを感じました。
少し経って、英語もひやかし程度にできるようになったので「働いてみよう!」と思いました。
日本食レストランで感じた、移民として暮らす屈辱
貯金の関係もあり、なるべく早く働きたかったので、てっとり早く絶対採用してもらえるであろう、日本食レストランで働くことにしました。
同僚はほぼ全員日本人だけれど、お客さんは地元の方や、日本人以外の方も多い。
英語を使っての初めての仕事の体験でした。
新鮮でした。
お客さんと雑談で盛り上がれた時なんかは
「うわ何・・私英語できるやん・・」って超調子に乗ったりしました。(笑)
ただ、だんだんモヤモヤしてきたことがありました。
飲食店でホールのサービスは、大学生に戻ったような気持ちで。
「箸は右向きに」「そのお皿はそこじゃない」とかで怒られる。
自分が社会人として頑張ってきた10年が、すっかりなくなってしまったような、巻き戻ってしまったような屈辱でした。
海外に来て、移民として暮らすというのは。語学ができないっていうのは、こんなにも仕事が限られるのか。って気持ちになりました。
正社員として働くなんて、好きな仕事を選ぶなんて、何年先なのだろう。
飲食店なら飲食店で、その仕事を目指している人がやるのはいいと思うんです。
ただ、私はお金を稼ぐためだけにそれをやっていて、そこにやりたい理由なんてなかったんです。
そのとき「やりがいを持って、自分の好きな仕事をいつでもできるフリーランスになろう。」って強く思ったんです。
もう、いやいや仕事をするのは、避けたかったんです。
どうしたらいいかわからなくて、「今の生活、どうしようかな・・・。」って、迷う気持ちが出てきました。
また、特にアジアの移民が多いバンクーバー。
しかも留学生が多いので、いろいろ整っていて、めちゃくちゃ暮らしやすい。
ほぼ不自由はない。
個人的な意見ですが、私にとっては生ぬるさを感じていました。
少し、退屈してしまっていました。
フランスへ行った理由は、書きたいことがあったから
カナダにいるとき、度々フランスへ旅行で遊びに行っていました。
フランスの誇り高い街の様子、文化や歴史が詰まっている場所。
詳しい歴史は知らないし、知識もなかったけれど、匂い立つそれらがすごく魅力的でした。
また、はたらく、生きる、休暇を取る文化、パートナシップのこと。
フランスと日本で、人生の捉え方が全く違うように感じる。
知りたい。書きたい!
会社員のときに感じていた違和感「たくさん働くのが美徳」「プライベートも犠牲にしなければならない」風潮。
みんなが深夜4時とか、遅くまで働く会社。
違う文化を伝えることで、選択肢が増えて、心地よく感じるのではないか。
あの働き詰めの日本に、何か変化をもたらせられるんじゃないか。
大事なものに時間を取れない文化を、自分を犠牲にする文化を、変えたい。
そんな風に考えていたら、だんだんとフランスに移住したい気持ちが強くなり、旅行からそのまま、フランスへ住むことにしました。
フランス料理を作ったり、郊外に遊びに行ったり。楽しい日々はあっという間に過ぎていきました。
ただ、ノリで来て、パスポートだけで居られる期間は3か月。
このままフランスに住み続けるなら、ビザを取得しなければなりません。
だから一度、日本に帰国しました。
そして2か月準備して、やっとワーホリビザをとって。フランスに戻ってきました。
日本の同調圧力に負けていた自分に気づく
20代後半、そのときわたしは、まだまだ仕事したかった。
ひとは一人一人それぞれ人生が違うんだから、
結婚や出産などタイミングが違って当たり前。
でも飲み会に行けばいつも同じ話。
その頃、遊びや集まりに行くのが本当につまらなかった。
こんな仕事をしたいとか、こんな人生にしたいとか。どんな夢があるとか。
そういうことを話したかったんです。
今なら自分が話したら受け入れてみんな聞いてくれたんじゃないかなって思いますが、当時はわかりませんでした。
私がしたい話は、どこでできるのか。
情熱を持って、時間が一瞬で過ぎ去るような場所は、どこにあるのか。
周りに合わせないといけない、合わせられないと浮いてしまう、
そんな日本という国から、どんどん逃げたくなっていました。
結局、私が一番同調圧力に負けてしまっていたんです。
人生立て直し。負けず嫌いでフランスに残り、バイヤー活動を開始
そして、フランスの地でいざ「どうやって暮らしていこう?」ってなりました。
フリーランスのライターの仕事はあったし、なんとか暮らしてはいけたけれど、十分ではなかった。
加えて、ライターという仕事。
言語のお仕事だから、海外で簡単にははじめがたい職種。アート、料理人とか、美容師、カメラマンなどのスキルがある仕事ではないので、現地の情報を知ってちゃんと発信したいなら、言語をしっかり習得しなければいけませんでした。
外国ですぐ取材とかを始められるわけではなく、日本のネット媒体への寄稿のみ。
しかも、宵越しの金は持たないタイプの私。貯金はあんまりありません。
物価が高いフランスでは、生活がカツカツになってしまうのではと思いました。
そんなこんなで収入源について考えている時、友人とLINEをしていたら「フランスに住んでるやったら、ネットショップとかやったらいいやん!」言われました。
「ネットショップかー。なにすればいいんだろう・・・。」
ネットで調べてみると、オンラインショップを開き、海外の店舗でカバンや財布などの商品を買い付け、日本のお客様に送るシステム。無在庫販売で、注文が入ってから買いに行くシステムなので、資金がなくても始められる。
こんな素敵なビジネスある!海外にいるならやってみるしかないじゃん!!って思いました。
これが、バイヤーという仕事との出会いでした。
バイヤー活動開始 パソコンパニック初期編
やってみたい!と思ったらすぐに行動に移す私、早速ネットショップを作ります。
会員登録をしたら次にすることはなにやら「出品」だそうです。
出品をするには、商品のページを「編集・加工」しないといけないらしい。
うーん。やったことない。
ペイントで加工しようと試みてみましたが、パソコン作業が超、苦手な私。
どこをどういじったら画像を貼り付けられるのか?背景を薄く?文字を入れる?
え?なに?
pr:vj34wprgjqヴェッbrshfb @dvせlkjdbvジェ・・・・
すぐに頭がパンクしました。わからなすぎて、パソコンを何度も投げそうになりましたが。
これをやらないと進めないし、始めたのに途中で辞めるの悔しいし。。。ってことで、気が狂いそうになりながらも、3週間くらいかけて何品か出品しました。かなり遅いスピードです。
少しすると、ちょっとだけ慣れてきて、毎日何品かずつ出品をしました。
すると、ある日1品売れたのです。
「わ、売れた!!!」すっごく嬉しかったです。
バイヤー活動 梱包工場中期編
早速フランスのオンラインで買い付けたのですが、 待てども待てども来ない。
全くわからないフランス語でなんとか調べてみると、なんと不在だったから、郵便局に戻っていったらしく、郵便局に何日もあるとのこと。
「えっ?私、ずっと家にいたのに・・・。不在通知もなかったし。。」
そうです、フランスの郵便事情は、、、最悪なんです。(笑)
フランスのアパルトマンは、ほとんどエレベーターがなく、かなり上の階でも階段で上がらなければいけないことが多いんです。
だから、面倒くさがりな郵便局員は、上がらずに、不在通知を入れて帰るんです。たまに、不在通知すら入れないことも・・。
ネットで荷物を追跡して、初めてわかったりするんです。
そんなの、日本だったら考えられないですよね?
「これが、海外かーー!」っていう気持ちに。(笑)
フランスの洗礼を受けました。(笑)
少しずつ、ページの作り方も、リサーチもわかってくるようになって、商品が売れるようになってきました。
すると、次に出てきたのが梱包問題。
商品が次から次に家に届きます。梱包しても、しても、終わらない。
梱包って、ちょいって終わりそうに見えますが、意外と時間がかかるんですよね。
1日に10個くらい梱包している時は、それだけで1日が終わっていました。
そして、郵便局に行っても、行っても、発送が終わらない。
アパレル繁忙期の秋冬の時期に従って、売り上げはどんどん伸びていき、商品はバンバン売れ、1日に3回とか、郵便局に行っていました。
「何この娘。。」と郵便局員にも冷たい目でみられるし、仕事も一人でやっているし、ちょっと辛くなっていきました。
忙しすぎて、友達の誘いも断りまくり、大好きなパリにいるのに全くパリを楽しめてなくって、何も感じられない、淡々と作業をこなすだけの毎日が過ぎていきました。
外注化・月利益100万円達成な後期編
忙しすぎてかつ、孤独で精神がやられ、過呼吸になった日を境に、1人でやるには限界があるな・・・とある日気づきました。(遅)
深夜に過呼吸になり、海外という地で孤独なことが追い打ちをかけ「ちょっとやばいなこの状況は」と思いました。
その頃月の利益が、当時の目標を超えて50万円くらいあったのですが、この方法じゃ物理的にも精神的にも頭打ちだ・・・と思いました。
なのでついに、作業の一つをアウトソーシングに出すことに。
出品を契約した方にお任せしたら「わあ、なんて楽なんだろう!」と思いました。
また、買い付けも1人でやらずに何名かにお願いをすることにしました。
空いた時間で、リサーチや経費の生産、新しい方法の開拓なんかができます。
そうするうちに、また利益が伸び出してきました。
また、誰かと一緒に仕事をすることで、誰かとつながっている感も得ることができ、状況は好転していきました。
そして、バイヤーを初めて半年で、月収100万円を達成。
とっても嬉しかったです。
海外でも、生きていけるんだ。
頑張れば、道は開けるんだ。と嬉しかったです。
それから、ドキドキしましたが会社も立てて、順調に事業は進んでいきました。
生活のために始めたネットショップですが、楽しくて、ライター業と並行して思ったより長く、2019年まで続けました。
日本で、カナダで、この地フランスで。
たくさんたくさん経験を重ねて、また書くことや発信することを丁寧にやっていきたいなと思い、大きくなりすぎたネットショップを手放しました。
フランスに来てから、「何が自分の好きなこと?」「自分は何がしたい?」
毎日毎日、世間の声に惑わされず、自分の頭で考えて続けた結果、自分に自信ができたし、だんだん見る視点、考える視点が変わってきました。
こんなところで晒けだすことは、恥ずかしい、承認欲求の塊みたいだっていう域を越えて、こういう風に書くことによって、誰かの役に立てるかも、誰か救われる人がいるんじゃないかって思ったんです。
正直に言うと、過去の自分を救ってあげたいのかもしれません。
この記事で、勇気が出たり、救われた気持ちになったり、希望が湧いたりしてもらえる人がいたら嬉しい。
私の体当たりすぎる人生が報われます。(笑)
そして、一人一人の人生なんてそれぞれ違うのだから、選択肢がたくさんある、ということを知ってほしいのです。
幸せの選択肢は一つじゃない。周りと一緒にしなくていい。本当に自分が好きなこと、を知るのが大切だと思う。
お互いにその選択肢が、自分と違っても、自分と真逆でも。
いいね!って認め合える世の中になったら。
そうなったら、私はとっても幸せです。
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