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記念日にふりかえって、変わらないことを、想う

5 年前の今日、結婚した。その日、手の届くところがないような、上という上がないほどの、つきぬける青空だった。今日の青空も、そのときのように、広く、心地よく、澄み渡っている。

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5 年前には、今日、いまどんな暮らしをしているかなんて想像もしなかったけれど、あのとき青空を見上げながら、この先絶対に大丈夫、と根拠のなく持った確信は、守られ続けてきたと感じる。


結婚した当日のことも、8 年半前に夫とはじめて出会った日のことも、すごくよく覚えている。

夫と出会った、ということがなければ、忘れ去られていたであろう、どうでもいい事を、事細かに、出会う前後の行動も含めて、すべて記憶しているのだから、不思議だ。

事実もだし、感覚も。

出会った瞬間、家族だ、と思ったこと。
夫をはじめて見た瞬間、全身の血の巡りを、指先の毛細血管まで感じて、この血をずっと、先祖まで辿っていったら、絶対にこの人と私の家系図は、ひとつに繋がっている、と感じたこと。


この 8 年半を、今日ふと、ふりかえってみたけれど、夫と私のあいだに、とくに変わったことが、なにも思いつかなかった。

はたから見れば、それなりに転勤や入院など、大変なこともあったはずなのに、夫と一緒なら、それがマーブル模様のように、やわらかな日々へと溶け込んでいった。


ここまで、私たちが大切にしてきたことは、何だろうか…。

それは、本質は変わらない、ということかもしれない。


互いにかける言葉は、付き合いはじめから今日も変わらず、春の陽気のように、あたたかで、ぽかぽかとしている。
花が咲くような家族の笑顔は、いつも変わりなく、ここにある。
その笑顔は、夫が私の好きなところ、として結婚式で唯一挙げてくれたものでもあった。

外の空気も好きだけれど、家族の空気も好きで、呼吸がおちつく場所が、ここにある。

出会った当初から本質そのものが変わっていないのは、変わらない、ということを、大切にしているから、変わらないのかもしれない。

たとえばなにかをやってもらった時、毎日やってくれていても、いつも、新鮮に、ありがとうと言うようにしている。
毎日、朝が来たらおはようと言うように、してもらった事は毎回、ありがとうと笑顔で言う。

やってくれているという事実や、誠実さ、その人のその思いは、はじめの時と変わらない。なのに、最初はお礼を言っていたのに、当たり前になってしまって、もしお礼を言わなくなってしまったら、やってくれている人の気持ちや誠意そのものは変わらないはずのに、次第にお礼だけがなくなってしまうなんて、さみしい。
だから、当たり前は、毎日更新されていると思いながら過ごし、感謝している。

先日、最後を最後だと感じる、という記事を書かせてもらった。それと同時に、私は毎日は最初だ、とも感じている。

新鮮な毎日は、いつも、そのとき生み出される相手の心を知り、そのときの感謝を生む。


私が言ってもらって嬉しい夫の言葉のひとつに、おいしいね、がある。
毎日、これまで何度もつくったことのある料理を作るけれど、夫は毎回、食べたらまずひとくち目に、おいしいね、と言ってくれる。
いつも今日はじめて食べたかのように。

そんな言葉だけれど、何回言われて、毎回うれしい。なぜなら、今日つくったごはんは、今日の日だけのためのものだから。その気持ちや行ないは、何年経っても、毎日変わらない。


私は研究者をしていて、変化を楽しむ、刺激的な仕事をしている。
でも、それができるのは、安定している部分があるから、変わることができるように思っている。

腹と心を据えて、なにかをするには、安定して変わらないものが必要なように思う。
変わらないように思える毎日、同じことを繰り返しているように思える毎日は、どこかべつの場所を変えるために必要としている。

だから、そういう意味でも、変わらないものは大切にしている。


私の結婚指輪には、無数の細かい傷がある。
この結婚指輪にはもともと永久保証というものが付いていて、一生、何度でも、無償で傷を磨いてもらえ、ピカピカに戻してくれるサービスだ。

でも、私はそれを利用したことがない。
この無数の傷が、これまでの積み重ねてきた私たちの日々の刻印のように思え、それを含めて、この結婚指輪が好きだからだ。

傷がついても、それさえ愛しく、その傷の奥の指輪は、当時のまま光っている。

そんな秘めた輝きのように、夫婦の本質は、いつまでたっても変わらずに、大切に輝かせ続け、これからも夫婦で共に、幸せの刻印を、刻んでいきたいと思う。

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