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私が畑をはじめた理由

私のご近所のおじいちゃんが、毎朝早くにリアカーを押して畑に行っている。玄関には玉ねぎが干してあって、時々我が家に野菜を届けてくれる。

ある時ふと、なんとなく畑をやってみたくなって、おじいちゃんの家にピンポンして、「今度、一緒に畑に行ってもいいですか?」って聞いたら早速畑に連れていってくれた。昨年の7月のことだ。

いつも歩いている道をジャージに長靴、首にタオルを巻いて、帽子をかぶって野菜をのせたリアカーを押しておじいちゃんと歩く。
自分が田舎への憧れから思い描いていた風景が日常に映し出されて不思議な感覚だった。

家から徒歩10分の畑には、飼われている鶏が威勢の良い声でコケコッコーと鳴いており、趣味で畑をやっているおじいちゃん達が麦わら帽子をかぶって作業をしていた。
関東の都市にいることを忘れてどこか遠くまで旅に来たような感覚に興奮した。

堆肥作り、土起こし、トマト・なす・きゅうりの収穫、じゃがいも掘り…

作業をしていた時、おじいちゃんはふいに自身の被爆体験を話し始めた。

私が母のお腹の中にいる時からの長い付き合いのあるおじいちゃんが広島の被爆者の一人であることをその日私は初めて知った。

当時中学2年生だったおじいちゃんはたまたま乗っていた列車がトンネルの中を通過した時に原爆が落ちたため助かった。同級生のほとんどが死に、生き残った不思議さに未だに頭を悩ますと言う。

畑に行った日はすごく暑い日でTシャツは汗でビッショリになるほどだった。原爆が広島に投下された日は雲ひとつない晴天ですごく暑い日だったらしい。気温や匂いなどの五感がおじいちゃんの原爆の記憶を呼び起こす。

いつも「でっかくなったなぁ」と声をかけてくれる元気で明るい近所のおじいちゃんに影を落とす原爆の記憶。初めて、広島・長崎の原爆を身近に感じた瞬間だった。

おじいちゃんはまた畑に来てねと帰り際に大量のお野菜をお土産に持たせてくれた。

その数日後、おじいちゃんは急に入院することになった。おじいちゃんの息子さんから、退院の予定は2週間後だからそれまで畑のお世話をしてほしいと伝言をもらった。
それから2週間、私はおじいちゃんの畑のお世話をしながらおじいちゃんの帰りを待っていた。

でもおじいちゃんは帰って来なかった。

2週間が経って、なかなか帰って来ないことを心配していた時、おじいちゃんが亡くなった知らせを聞いた。あまりに突然の死で信じられなかった。

畑は私が引き継ぐことになった。

おじいちゃんが原爆の話をしてくれた畑を私は自分の教室にしようと考えていた。おじいちゃんのこれまでの人生から語られるたくさんの知恵と哲学をもっと聞きたかった。でもおじいちゃんはもういない。

おじいちゃんがもし生きていたら、私にどんなことを教えてくれるのだろうか。そんなことを考えながら畑をすると畑がいろんなことを教えてくれる。

いつも食べている野菜がどんな風に出来るのか、私と自然の関係、さらには畑のご近所さんたちが私にたくさんのことを教えてくれる。

おじいちゃんがいないのは悲しいけれど、この畑にはおじいちゃんが私に残してくれたフィロソフィーがたくさん詰まっている気がする。
そんな気持ちが私を畑に向かわせる。

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