見出し画像

見知らぬミシルの「正解だったら出会えなかった世界」に思うこと




「正解だったら出会えなかった世界」に思うこと





人生は時間であり、それらは有限である。言い換えるならば、選択の大小というのは時間の大小でもある。つまり、そこに費やす時間の長さを示す。そして喪失というのは、費やさないと決めた時間だ。費やさないと決めた時間が、実はかけがえのないものだと知る時、僕らはたちまち後悔をする。しかし、そんなものはその時間を実際に生きてみないと分からない。滑稽なことに、僕らはそういった分からないことを必死に明らかにしようとする。
引用:見知らぬミシル - 正解だったら出会えなかった世界(無料部分)


そう!無駄が嫌い!私は損をしたくない。でも損をして生きてるし、悶々と無駄な時間を過ごしている。これは無駄か、後で後悔しないか、損をしないか。私はいつもそんなことを考えている。それを考えることに多くの時間を費やし生きている。損というのは喪失のことかな。
無駄を愛せることは幸福を意味する。未熟や不幸を愛せることもまた幸福の体現だ。幸福になろうとすることは即ち幸福であることと同義で、幸福であると自覚しなくても幸福だが、自覚をすれば自分のものになる。
私は何をいっているだろうか?他人にわかるように話しているつもりはない。わからないのは私の文章のせいではないからだ。わかるのも私の文章のせいではないのだ。




<見知らぬミシルの人間臭さ>

「費やすはずだった時間への未練」と「費やした時間の喪失感」。費やした時間は喪失しない。わかってはいるけど今は手元にない。

長くは語られなかったが、新しい環境への挑戦と苦悩。短いエピソードに詰まった計り知れない苦痛。あれには私なら耐えられないと思った。全霊を注いで築き上げてきた自信が削られていくような絶望感

そんな絶望のなかで思考の転換をできる機転は、経験の積み重ね、つまり習慣の賜物だなと思った。価値をおく対象の転換とでも言えようか、傷ついた心から視点をずらし状況を好転させる方法を見つけようとする。無駄にプライドに固執しない。あえて「自分自身」というものに拘らないようにしていて、それが習慣になっている気がした。
「ダサい自分」や「不正解の中の不正解」を辿る自分ではありたくないという意思と決意が、その冷静さを保っているのかもしれない。

新しい環境では、それまで用いていた要領が通じない場合も多く、自分が培った経験が無駄になってしまったような気さえする。
実際は、戦う現場が変わった訳で、全く違う世界であるのだ。培った経験は無駄にならないでそのままそこにあるし、新しい環境では新しい経験を積んでいくのみだ。

その意思の切り替えをどの時点でできるか。なかなか切り替えられないという人は「悩む」ことに苦しめられやすいのではないだろうか。その長い苦痛に耐えられなくなって逃げ出しやすいかもしれない。

地面を引きずりそうになっているプロ意識を手繰り寄せてそこを切り替えた彼の執念には本当のプロ意識を感じた。

とはいえ、最近の彼の様子を見ていると、優雅にも泥沼でもがいていて、なんとも親近感のわく人間臭さを感じて「友達になれそう」と思うのであった。


<「不正解」のドラマチック性>

普段、人を導くような存在として活動をしている彼だが、それは大衆がそうしてしまったとも言える。もちろん彼自身の活動のコンセプトでもあるが、彼も人間臭い人間であることを肯定してもしきれない環境ができつつあった。あるとき、彼はもう一つのコンセプトとしてなのか、自身の弱点を曝け出し始めた。その背景には、確実に「正解だったら出会えなかった世界」で語られたリアルな彼の『孤独な葛藤』が関係している。ラジオのサポーター限定配信やnoteでの発信は彼の「自分への戦略」であり「叫び」なのだ。


「不正解の世界」とは、なんともドラマチックだ。

絶望の先の絶望に絶望する絶望の連続。


「費やすはずだった時間への未練」と「費やした時間の喪失感」。費やした時間は喪失しない。わかってはいるけど今は手元にない。

どれほど無念だろうか。
自分の歩んできた道を振り返ったまま、あの時の選択は正解だったのだろうか、正解のはずがないことを悔やみきれずに「今」を呪っていたはずだ。

「不正解」の絶望のなかで、過去の選択を少しでも正解に近づけたくてか、もがきながらも新しい世界に挑戦をした彼は、そこで「ラッキー」に出会った。

「ラッキー」との出会いは、まさに、「彼が正解を選んでいたら“感じることが出来なかった“視界」だっただろう。


始終、個々のエピソードの端々から、見知らぬミシルの「自分の弱みを強みに転換する意思」と「弱みを弱みとして認識するタイミングを間違えない意思」そして圧倒的な「強みを適用させる能力(強み)」を感じることともなった。

特に「強み」を展開した主要エピソードには、彼の洞察力と分析力やサポート力、つまり個人の可能性を見出し引き出す力の細部を垣間見れた。

彼に「ラッキー」を見せてくれた『ラッキー』とは、彼との親和性が異常に高いと感じるほどだったという。

「不正解」にいる彼のために出会うべくして現れた『ラッキー』、また、「ラッキー」に出会うための「不正解」だったと言えるのではないだろうか。


違かったら知らん。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?