第25回 革命はポルカに乗って(リトアニア)
エマ・ゴールドマン。1869年リトアニアに生まれ、アメリカで活動し、1940年カナダで亡くなった。フェミニストの間ではよく知られた、アナーキストの女性解放運動家である。
彼女は、自分らしい生き方を信条にした。その伝説の思想的自由奔放さを表した、このポスターが、70年代のアメリカに登場した。
高々と掲げるバナーには、「もし私が踊れないなら、私はあなたの革命に参加する気はない――エマ・ゴールドマン」。
舞曲は、リトアニア人が大好きなポルカだろうか。
エマ・ゴールドマンは、日本の女性運動とも無縁ではない。平塚らいてうとともに雑誌『青踏』を編集発行した伊藤野枝に強い影響を与えた。
エマはアメリカで雑誌『母なる大地』を発刊して、反戦や産児制限などで論陣を張った。10代だった伊藤野枝は、『母なる大地』で女性の自由に関するエマの論文を見つけて感銘し、『婦人解放の悲劇』と題して和訳し、日本に紹介した。
野枝は1923年、憲兵に連れ去られてその日のうちに扼殺された。残された子ども5人のうち2人に「エマ」と名づけていた。
流浪の民のエマ・ゴールドマンは、小国リトアニアのカウナスで、ユダヤ人の家に産まれた。13歳のとき、一家はサンクト・ペテルブルクに移る。
「女に学問はいらない」という親に逆らって、15歳で姉とともにアメリカへ移住。ニューヨーク州ロチェスターに住んで縫製工場の女工となる。結婚して永住権を得た後、すぐ離婚。ニューヨークシティに移り、労働運動に身を投じる。
24歳のとき、「仕事を要求せよ。仕事をくれないなら、パンを要求せよ。どちらもだめなら、まずはパンだ」と、1000人以上の群衆を前に演説をし、初めて逮捕された。「社会を扇動した罪」だった。
後の30年間で、逮捕されること6回。1916年、産児制限運動で逮捕。1917年、反徴兵制運動の扇動で逮捕。出所後の1918年、再逮捕されて国外追放。革命に命を投げだすつもりでロシアに移住したが、そこで目にしたのは極貧にあえぐ民衆だった。
ロシアに絶望した彼女はイギリスにわたり、1921年『ロシアへの幻想の崩壊』を書いて、共産主義者を激怒させた。こうして彼女は、アメリカ資本主義とソ連共産主義の双方を敵に回した。
時空を超越した人生だった。
ソ連とナチスドイツに囲まれて侵略の大波に洗われ続けた母国リトアニアが、国として本当に独立できたのは、1990年になってからである。
(三井マリ子/「i女のしんぶん」2015年5月10日号)
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