ドライブ・マイ・カーを観て感じたこと
先日、映画「ドライブ・マイ・カー」を観ました。
アカデミー賞の国際長編映画賞を受賞、カンヌでも脚本賞を受賞しており、世界中で「これは名作!観るべき!!」と評価されている作品。
観終わった感想👉
うーん・・・観る人によって大きく評価は分かれるな・・・
(感想になってないけど。)
この感想(?)の意味を、少し紐解いていきたい。
映画に求めるものは人それぞれ
みんな、映画に求めるものって何だろう?
明日を生きる勇気や活力を求めて観る人もいれば、
人生を生きるうえでの新たな「問い」のようものもを求めている人、
単純にエンタメとして楽しむ人、
芸術作品として文学や芸術性の完成度の高さを求める人もいる。
私は、映画はエンタメとして楽しみたいタイプ。
観ている間「次はどうなるの!?」とハラハラドキドキしたり、主人公に感情移入して泣きそうになったり怒ったり、最後には「あー楽しかった!」とスッキリとした気分になる映画。
そういう人には「ドライブ・マイ・カー」は100%合いません。
そんなこと初めからわかってるわい!という声も聞こえてきそうですが…
著名人の感想は
以下、映画の公式サイトに記載してあった著名人の感想をご紹介します。
なるほどと納得する反面、こういった巨匠と言われる方の評価が、この映画の評価を必要以上に増幅させてしまっている気がするのも事実。
本当に腹の底からこの作品を面白い!と言っている人はどれだけいるのだろう・・・
179分という長さ
長さを感じない!なんてコメントがあふれているのだけど。
正直言って、長い。
前半はめちゃくちゃ退屈です。
主人公は「ワーニャ爺さん」の演劇を演出するという設定ですが、この「ワーニャ爺さん」のセリフがずーっと続く。
しかも、わざと棒読みで。
感情移入してはいけない、下手な演出はしてはいけない。
テキストをただ読むという行為を続けていると、いつしかそのセリフが完璧に自分のものになり、それを演じる際に何かが憑依したように現れるからそうしなさい、というのが演出家の意向なのだけど。
ようわからんセリフが棒読みで永遠繰り返される、これはまぁまぁの苦行です。
ただ、なんか気になってみちゃうんだよね。。。
そうこうしている間に主人公やドライバーの隠れていた闇、感情が露出してきて、どんどん引き込まれていってしまう。
このあたりは役者や映像づくりの上手さなのかもしれない。
作品のテーマとなっている「ワーニャ爺さん」
私自身、原作「女のいない男たち」を読んでいないのでなんとも言えないのですが、書評などを観ていると映画にはあまり関係なさそう。
私はハルキストではないですが、村上作品はわりと好きで読んでます。
でも、映像になると興ざめしてしまうものが多い。
やはり、独特の世界観ーどこかでぐにゃりと歪められてしまったような世界観ーが魅力だと思っているので、それを実写で表現するのは無理があると思うのです。
と話が少しそれましたが、作品のテーマとなっているチェーホフの「ワーニャ爺さん」は読んでおいた方がよいと感じました。
劇中でもいくつかのシーンを切り取って演じられているのですが、韓国語になったり英語になったり手話になったりとでややこしく、あまりセリフが頭に入ってこない。
チェーホフの「絶望から忍耐へ」というテーマを理解しておくと、私にとっては「苦行だ」と感じた部分の内容が、もっと面白く感じられらかもしれない。
今検索したら、「100分で名著」でチェーホフの「かもめ」が題材になっていた回があるようなので(2012年とめっちゃ前やけど!)また観てみよう。
どう解釈したらよいのか?迷う部分
私は単純にエンタメとして楽しめる作品が好きだと言いましたが。
だからと言って”単純明快な表現”を望んでいるわけではありません。
観る人の心の状態によって、いろんな捉え方ができる余白のようなものがあった方がよいなーと思ってます。
そう言った観点からは、以下の点はみんなどう解釈したのだろう?と聞いてみたいところ。(※ネタバレ含みます)
音は、悠介に何を伝えたかったのか?
音が語る物語にはどういう意味があるのか?特に最後の話は何なのか?
物語はみさきが悠介の車に乗って韓国で生活しているシーンで終わる。これはどういう意味か?
1つ目は、音が「帰ったら話があるの」と言っていたところ。
結局夫には伝えることはできず、くも膜下出血で死んでしまう。
本当は何を伝えようと思っていたのか。浮気を告白しようとしていたのか。別れようとしていたのか。自身の精神が崩壊していると訴えていたのか。悠介に恨みを伝えたかったのか。
ー全部当てはまるようにも思うが、わからない。
2つ目は、ヤツメウナギの話。音から紡ぎ出される物語の中で、彼女は別の空き巣を殺してしまう。近くにあったペンで咄嗟に目を潰してしまう。
この物語は高槻に語ったようだが、ちょうど同じ頃に悠介は緑内障で目が見えなくなるのだ。
これに対して音は因果関係を感じているのか?自身の奥底から紡ぎ出された物語の中に、実は悠介に対する憎しみのようなものが含まれているのか。
そもそもあの物語は何を意図しているのか。
高槻があの物語を悠介に語ったのは、自身も人を殺してしまったからか。それを告白する思いで語ったのか。
3つ目は、ラストシーン。みさきと悠介は一緒に暮らしているのか。
車をみさきに譲ったのか。なぜみさきは韓国にいるのか。
個人的には、二人は一緒にはいない気がするがー
私自身、読み切れていないところがあるのかもしれないが。
受け取り方は人それぞれであってよいようにも思う。
みながどういった解釈をしているのか、少し聞いてみたいと思った。
私がこの映画から感じたこと。
辛いことがあっても、それでも生きていかなくてはならない。
ただし、辛いことを乗り越えて生きていくには、辛いことをちゃんと”辛いこと”として認識し、悲しみ、憎しまなければ消化できない。
辛いことをありのまま受け止めるのは、かなりの強さが必要だ。
そんな強さを私は持つことができるのかー
なんだかモヤモヤした感情がたくさん湧き上がってくる映画でした。
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