重症者に対する作業療法への私見
お久しぶりです。絶賛コロナ療養中の私です。めちゃめちゃ流行ってますね…。皆さんもご自愛ください。
毎月書けたらいいかな、と思っていたnoteも8月は書くことが出来ず…まあ根詰めてやるものでもないと思っているので、気軽にやっていこうと思います。
ある程度療養して、少し元気が出てきたので、AKSK喫茶でお話させて頂いた内容について少し触れてみようかと思います。
AKSK喫茶で、回復期でも重症者を担当することが増えているから、そのようなクライエントに作業療法、広義の意味でのOBPをどのように提供するかの話を少しさせて頂きました。
そのあたりの話を少し広げていこうかと思います。いつもよりも更に思考がまとまらないのですが、ご容赦ください。
重症者を担当することは増えているのか?
まず回復期については、入院料1、2を算定している施設では重症者(日常生活機能評価が10点以上またはFIM55点以下)が新規入院患者の4割以上を要件としていることを考えると、以前より、重度な障害をお持ちの方を担当する機会も増えているんじゃないかと思います。
個人的には現場感覚としても10年以上前よりもご高齢の方が増え、重症者を担当することが増えた感覚はあります。
また回復期だけでなくても訪問でも要支援の方への訪問は報酬が少なくなってきていたりするので、以前より軽症の方を見る割合が減ってきている印象もあります。
私は療養病棟でリハビリテーションを行うことも多いですが、意思疎通が困難な方がほとんどです。
以前「意思疎通ができないクライエントに作業療法はできない」という話をされていた方がいました。一方で、現場では色々な事情で意志疎通が困難になったクライエントを担当することはまあまああると思います。(勤めている施設の種類にもよるかもしれませんが)
現場では色々なところで重症者を支援することがあるのに「意思疎通ができないクライエントに作業療法はできない」なんてことを言って、逃げることもできないわけで…。悩みながら、何かしら工夫しながら、日々臨床をしていると思います。
そういった重症者への関りで、私なりに最近考えていることや、どのようにとらえたらいいのか、なんとなく書いてみようかと思います。
個人、文化、もしくは普遍な問題として捉えるのか
まずは、クライエントにとっての問題がどのようなものなのかを大枠で把握する必要があると思います。
色々な枠組みがあると思うのですが、精神科医である中井久夫の治療文化論で提唱されている「普遍症候群」「文化依存症候群」「個人症候群」と、それらに対する支援の割合の提案が個人的にはとてもしっくり来ています。
「普遍症候群」は全世界、文化を超えて「普遍」的に適用できる基準があるものです。DSMなどの診断基準は代表的な例で、診断基準に合わせて対応します。「個人症候群」は病気や病いを個人の人生を文脈としてとらえるものの見方です。文化依存症候群はちょっと割愛しますが、興味があったら原著を読んでみてください。
原著では病いの深さと表現されていますが、状態が悪くなればなるほど、「普遍症候群」としてとらえ、軽度であれば「個人症候群」としてとらえることが多くなるということだと私は解釈しております。
なんか小難しくいってしまいましたが、以下のツイートに簡単に言いたいことをつぶやいています。
そしてどの、視点で見る比重が大きいかによって、対応も変わってくるということです。
症状が重たければ重たいほど、普遍的なこと、医学的なことを扱うことが多いかもしれませんが、それはいけないことではなくて、ただただバランスの問題だと思います。
この本はナラティブの重要性について書いてあるような印象もあるのですが、普遍症候群に関して必要性を言及するような部分もあります。
作業療法で個人的なことを扱いにくい状況に対してモヤモヤとした気持ちを抱いてしまうのは、おそらくですが、個人的なことを扱うことを良しとして、医学的なことを扱うことにやや嫌悪感があるような雰囲気が作業療法業界に流れていたからなんてことを思ったりもするわけです。
ここでは重症であると、個人的なことよりも、普遍的、医学的な視点が増えるんじゃないかという話でした。じゃあ重症者に対する作業療法では個人的、パーソナルなことを扱わなくていいのかというとそうではないと思っております。
重症者へのケアとしての作業療法
ケアというととても広い定義がありなんとも言えないところですが、「世話や配慮をする」「気遣い」なんて言葉が出てきます。
東畑開人さんがセラピーは「傷つきに向かいあうこと」、ケアは「傷つけないこと」とと定義していてとても良いなと思っています。私はどちらかといえばこちらを採用しています。
セラピーは本人を変えることに主眼が置かれますが、ケアは本人は変わらなくても環境や周囲が変わることによって安心感が得られたりすることだと思っています。それが先ほどの世話や、配慮、気遣いなんて言葉に現れているのではないでしょうか。
重症者の方には本人が変わることが困難な状況があると思います。予後的なものもありますし、身体、精神、様々な面においてです。
そういったときに、作業療法はセラピーよりはケア寄りになるのではないかと思っています。
作業療法がケア寄りになるときに、カナダモデルで言う、作業との結びつき、のようなものを意識するのではないかと思います。
続・作業療法の視点では、息子は走ることが出来なくても、父親が車いすを押してマラソンに参加した事例が書かれていますが、本人が作業を遂行できない状況でも作業に関わることはできます。
ちょっとした声掛けや、音楽をかけながらROMexをするとか何気なく現場で繰り広げられていることは作業との結びつきの支援になっていることが多いと思います。
こういった支援をするには生活歴、もしくは作業歴を知っていることは必須になると思います。私は意思疎通が困難な方にはライフヒストリーカルテや、家族を通じて聴取するようにしています。
作業への関りを絶やさないことが、クライエントの理解につながり、結果として支援者がクライエントを傷つけないケアにつながるのかなと思っています。
ちなみに個人的にはケアとしての作業療法と別に医学ベースの作業療法も展開される大前提があります。拘縮予防としてのROMexやポジショニングなど並行して実施する必要はあると思います。
社会的要請として、作業療法に求められるのはケアだけじゃないと思いますし、それが個人と普遍なものを扱うバランスをとるということだと思っています。
ケアとしての作業療法に関しては更に書きたいことがある気もするのですがまたの機会に!
ケアとしての作業療法、その先に
ケアというのは本人が傷つかないように支援した先に本人の成長を促す場合もあると思います。
オープンダイアローグ、もしくは対話などスタンスの中で「ケアに限りなく近いキュア」というのものがあります。キュアは「治療」をさすことが多いです。このスタンスもとても好きなのですが、ケアの地続きにキュアもあります。
ケアという言葉は色々な使われ方をしますが、本人の成長を促すといったような要素もあるようです。本人を変えることが目的では無かったとしてもおのずと本人が変わっていくということはあるような気がします。
また、本人の生活歴や作業歴を理解することには更に意味があると思っています。
患者の物語を知ることで、人を人としてケアすることとなり、そしてそのことが支援者を支えるということに繋がります。
作業療法理論に基づいた理論や実践にはより良いケアをする要素がふんだんにあると思っております。これは重症者だから、とかはあまり関係ないかもしれないですね。
支援のハードルを下げること
あわせて、ついつい支援のゴールとして活き活きと作業遂行をしている、みたいな理想像がある…というよりなんか業界としてそんな空気感があったときがあるように思うのですが、そこを重症者の方の支援のゴールとして設定してしまうとやや苦しいことがあるんじゃないかと思います。
ちなみに私自身は、難易度を下げたADLの練習をしていたところ、その作業は何の意味があるのかと突っ込まれたことがあります…。それくらい俗に言う「意味のある作業」を実際に遂行するという理想への呪いは結構深いと感じています。
もちろんケースバイケースだとは思うのですが、簡単に言えば、道具を使えたから、道具を持つことが出来た、姿勢を保持することが出来た、から、リクライニング車いすを使えば姿勢を保持することが出来た見たいに、評価の視点を変えることだと思います。当たり前といえば当たり前のような気もしますが。
個人的には人間作業モデルの人間作業モデル探索レベル成果評定法(MOHO-ExpLOR)を使うとその視点が得られやすいように思います。
端的にいえばMOHOSTの評価基準を下げたイメージで、環境に対する評価項目もある評価になっています。
人間作業モデルの第5版に載っており、人間作業モデル研究所からマニュアルが購入可能なので気になる方はぜひそちらをあたってみてください。
さて相変わらず話が散り散りでしたが…良き頭の運動になりました。皆さんもご自愛ください。ではまた!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?