チャイムが鳴るその前に

「ねえ紗絵、ホンって知ってる？」

彩花にそう聞かれたとき、まだ朝の十時半なのに早弁を掻き込んでいる最中だった私はすぐには答えられなかった。二時間目、数Ⅱの坂田がポリープの手術で自習。

「ううん、んんんい…ゴホッ！」

「ちょっと〜！紗絵のしめじ砲を食らうの、今週に入ってもう三回目なんだけど！」

うちのお母さんはほぼ毎日、私の弁当にしめじを入れる。詰めるときにラクだからと限りなく石づきに近いところで切り落とされたしめじは見事に全部繋がっていて、それを一口で食べようとしては噎せ、友達を砲撃する。そんな母親譲りの横着さに自分で呆れながら、口から飛んでいったしめじを彩花の肩からつまみ上げた。

「ごめんごめん…。で、なんて？フォン？電話？」

「出たっ！Fの発音のプロ！フッフッフォン！でも、フォンじゃなくてホンだから！」

厳密に言えば今のはPHの発音だったけど、そんなことを厳密に気にしていればキリがない。

「ホン？さぁ、聞いたことない。」

彩花はいつも流行を真っ先にキャッチする、ザ・今どきの子。私はどっちかというとタピオカやマリトッツォより駅前の精肉店のコロッケの方がいいタチだけど、「遅れ」になるのは嫌。

「映画とかドラマの形式みたい。私もティックトックで見て知ったんだ～。」

「形式って、拡張子ってこと？ジェイペグファイル…ホンファイル…的な？」

「違うの違うの。そんなありふれた形式じゃなくて、ストーリーを文字で書いて紙にプリントするの。映画じゃ一つの物語は大体二時間くらいじゃん？紙にすると、二百枚くらいになるらしいよ。しかも両面使うから、実質四百枚的な！」

新しくできた古着屋でもなく、日本初上陸の韓国コスメブランドでもなく、紙の束の話。それも、四百枚。万札なら四百万円になる枚数だ。生まれてこの方そんな紙の束を手にしたことなど一度もない。高二の私たちには少々話のスケールが大きすぎる。

「…全然イメージが湧かないや。感情の表現はどうするの？映像がないなら登場人物の表情がわかんないじゃん。情景だって浮かんでこない。」

「んー。形容詞とかを駆使するんじゃない？知らんけど。」

お父さんが関西人の彩花は「知らんけど」を「私からの報告は以上です」のように使う。自分で振った話題にもう興味を失ったのか、先週一緒にプラザで買った髪が引っかからないブラシが髪に引っかかるのと格闘していた。

ホン。人間のこの複雑な感情を、映像も音もなしに伝えようなんて。

ただでさえ私は、口頭で何かを表現するのが苦手だ。ティックトックのアカウントは作ったものの、彩花みたいに一発本番で茹ですぎハリソン（私たちの好きな漫才コンビ）について語る動画を撮って投稿したりできない。たまに校庭に迷い込んだ犬の動画なんかを投稿するので精一杯だから、これまで何度も発言の機会を逃してきた。そんな私に、紙の束をストーリーに変えることなんて、できるわけない。

できるわけ、ない。

「ねえねえ紗絵、なんか隣のクラス、自習のうちらよりうるさくない？」

「あー、うーん。」

少し上の空なのは、ふと、昨日の夕飯の後にお父さんが言っていたことを思い出したからだ。

「紗絵。お父さんがもう少し早く仮想通貨を始めていれば、うちは億万長者だったんだ。チャンスというのは、誰かが掴む前に掴まないといけない。聞いたこともない名前のコインに夢を託したくなければ、紗絵、波が起きる前の波に乗れ。人生はギャンブルだ！」

波が起きる前に波は、ない。

そうつっこみたかったけど、洗い物を終えて台所から戻ってきたお母さんの「あなたまさか、またコイン買ったの？」という質問（尋問に近い）にお父さんが言葉を詰まらせ逃げていき、私はまたもや発言の機会を逃した。波が起きる前の風に乗れ、自分を信じろ、の方がずっとカッコイイのに。

「あっ…そういうこと…？」

「紗絵？なんか言った？というか、校庭に犬だって。シャッターチャンスじゃん！私はいいから紗絵がティックトックにアップしなよ！」

咄嗟に気の利いたことは言えないけど、ひょっとすると私、じっくり言葉を選んで表現するのに向いてるかもしれない。

「紗絵？聞いてる？ほらあそこ！犬！」

彩花が指す先にいた犬が、お父さんの聞いたこともない名前のコインに重なった。

「彩花！迷子犬の動画は私、もういいや！あんな見たこともない犬種の犬に、夢を託したくないの！」

「えっ？あれパグだよ！見るからにパグ！」

「ありがとう彩花！」

私は教室を飛び出した。「ホン」という風は、今吹き始めたばかりだ。波が起きる前の風に乗れ、自分を信じろ。

「ちょっと待っ…はぁ。どこ行くんだか。そういや言いそびれたけど、砲撃されたのは肩だけじゃないっつーの！」

彩花は夏の日差しに照らされた膝の上のしめじをそっと、ティッシュにくるんだ。

二時間目終了のチャイムが鳴る五分前のことだった。