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9. 東京クルド

朝早く、眠い目をこすりながら映画を観に出掛けました。
終映が迫っていて、どうしてもこの日行かなければなりませんでした。

最寄り駅で巫女のバイト募集のポスターを見掛け、もうそんな時期かとしんみりしながら5分前にチケットを買いました。

それはトルコでの迫害を逃れ、十数年日本で暮らしている二人のクルド人青年が、難民として受け入れられず不安な日々を送りながら将来を模索している姿を映したドキュメンタリー映画「東京クルド」。

100分の映像を見終わって、少し辺りをぶらついてから電車に乗った時、お茶を座席に置いてきてしまったことに気が付きました。
飲み物を映画館に忘れてきたのはこれで二回目です。もったいないことをしたなあ。

電車に揺られながら観てきた映画のことを思い出しました。
後日、パンフレットを読みながらもう少し深く考えました。
二つのメモを合わせながら、現時点での感想や思うことを以下に記してみます。

内容に入る前にちょっと言っておきたいのは、まずカメラワークが気になって集中できなかったこと。妙にアップになることが多くて、もっと全体的な状況を見たいなという部分でもなかなか見せてくれなかった。
ブラックアウトも多くて眼が疲れました。
あとパンフレットは表紙の画質が悪くてデザインも微妙、解像度の高い画像なかったのか。

で、内容について。

正直観る前はクルド人という人々がいることを意識したことはありませんでした。
トルコには以前一度行きましたが、都市部はほとんどヨーロッパと変わりないように見え、然して内容を調べていない通りすがりの観光客に社会問題が見えてくるはずもなく。

それが、旅をする間も命の危険にさらされている人が同じ国に存在していたなんて。

そしてその同じことを日本に対しても感じるのです。
身の安全を守るために逃げてきたのに、難民申請が認められず働けない・保険にも入れない・何もしていなくても入管に収容されるリスクがある。
つまり、場所が変わっただけで相も変わらず命の危険に晒され続けている。
国内で人権問題が山積みになっているという曖昧な知識の一角に「クルド人」という存在が浮き彫りになります。

最近問題が取り沙汰されている入国監理局(現出入国在留管理庁)や難民問題について知りたいなと思って観に行ったのですが、想像以上に過酷な環境になかなか理解が追い付きませんでした。
だって”そこに存在すること”が辛うじて許されても、”働いてお金を得ること”は許されない。どうやって生きれば良いのか問うても「私たちはどうすることもできないよ。あなたたちで、どうにかして」と突っぱねられる。
人権なんて存在しないも同然なんです。

観ながら素直に浮かんだ疑問は
どうしてそこまで難民を難民として受け入れようとしないんだろう
ということ。

パンフレットに寄港されていた弁護士の方によると、
以前「逃れてきた人の出身国が日本の友好国だった場合、友好関係を維持するために難民認定を拒否する場合がある」というような内容がかつて法務省の研修教材にあったそうです。
この文面は一応は削除されたけれど、実質的には今も変わらないと。

政治的な判断を優先して、難民申請者を生きている人間として扱わない国の姿勢は、受け入れがたいものに思いますが、わたしたちの無関心や利己主義が一端を担っていることも事実です。

誰かを傷つけたいなんて思っていないのに、個人としてある時と、集団の一員としてある時とで意識や態度が変わってきてしまうのはどうしてなんでしょう。
わたしは民族意識も愛国心も希薄で無宗教で、なるべく枠組みに囚われず自分の思う正しさに正直でありたいと考えているけれど、
入管職員として仕事で彼らと関わるようになったら、もしかして映画に出てきた職員と同じように接してしまうんじゃないかと考えるとたまらなく怖いです。
感覚がどんどん麻痺していって、面倒くさいとか上から言われたからとかそんな理由で非情な行動をとるのかもしれない。
(実際職員の人たちがどんなことを考えて日々働いているのか、わたしは知らないのだけれど)


こういうドキュメンタリー映画を観るといつも、「凄惨な現状があることは分かった、だからと言って何ができるのか、どうすればいいのか分からない」と苦しくなってしまいます。
「観る」行為にもなにか意味があるのか。
あると信じたい。

結局、映画の中の二人の青年のように、今自分ができること、やりたいと思うこと(或いはそのやりたいことをするために必要なこと)を探して堅実にやっていくしか方法はないんだと思います。

ではまた。

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