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38年目に突入した中国語学習

小5から始めた中国語の習い事が、今だ仕事としてふんわり関わっていて、まだ関心を持ち続けているいう衝撃の事実。

そもそも話、そもそもなんで中国語?と聞かれることが多いので時を戻して話そうと思います。

時は昭和。西暦でいう80年代。突然母が「中国語やらんかね?」声を掛けてきた。ええー?!

当時の中国はまだまだ日本で情報が少なく、母も子も「パンダの国」程度の知識。小学生だった私は、チューゴクゴが何なのかも不明だけど子どもながらの好奇心ゆえ、あっさりと母の口車に乗りました。

豆腐の細切りのピリ辛の野菜と香菜、大好きです

さて、始まりました母と私、駅前のカルチャーセンターで新規開講される中国語教室に入ることに。当時の在籍者は、中国に出張に行く、自動車会社の部長さん、中国文学に陶酔した20代くらいのお姉さんとお兄さん。そして母と私。

しばらくは受講生も先生も私のことを中国残留孤児だと思っていたようで。その頃テレビで毎年のように行っていた残留孤児の帰国支援。そこと結びつけない限り、小学生が中国語を学ぶ理由が見当たらない。そりゃそーだ。

母が習わせた理由後で聞くに、母は私に「何か一芸を」と思ったらしく。英語ではなく中国語なら「ニーハオ」って言えるだけで特技になると思ったとか。(令和だと小学生にミャンマー語を習わせるくらいの感覚かなと)

(スパイシーな羊肉串、手加減無しのリアル中華が大久保で食べられます)

翌月から、母はしれっと消え、私のドライバーに転身。淡々と私の送り迎えだけにやってくるのだが、中国語の目新しさのほうに目をむけていた私は何の疑問ももたず一人で通い続けていた。

とはいえ、当時の中国語たるや、マイナーすぎるほどの言語。加えて地方都市のカルチャーセンター。クラスの継続ができず、閉講しては全員で別で開講するお教室に移籍するという完全に語学学習難民。

一番下のビーフンください!

思春期時代は、中国語学習に意味を見出せなくなり「やめたい」と切り出してみたものの、「辞めるのはいつでもできるから、続けてみな」と、母は私の底辺モチベーションにも関わらず、お月謝を払ってくれまして。

で、結局ここからずーっとダラダラと続けていたら、ハタチくらいで「学習歴10年」を迎え。あまりに上達していない自分が恥ずかしくなり、1年の約束で北京に飛びました。

ビニール袋!って

そこからは早かった。現地の学校で意識高めの同級生に囲まれたのが良かったのか、なんとか中国語が口をついて出る程度のレベルに至りました。そこからまたダラダラと続けて今に至ります。

これを話すと皆、必ずこういうのだ。「おかあさんの先見の目!」と。やめて!百万回言われてるので、鼻の穴膨らみすぎて風船になってマス。

だから、そんな母へのありがとうも込めて、台湾に行くことにしました。約40年越しの鶴の恩返しならぬ、娘の恩返し。

7月4日 サカシタカオリ

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