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本人による訃報ツイートの違和感

よくTwitterなどのSNSを見ていると
急逝したユーザーの代わりに、家族や身近な人が「〇〇は〇〇才で永眠しました。お世話になった方に御礼を申し上げます」などとツイートしているのを見かける。

「あぁ、最近見なくなったと思えば闘病されてたのか…。」
そんなことを思い、故人を偲ぶのと同時に、ある疑問がいつも浮かぶ。
家族や身近な人が本人のアカウントで訃報をツイートしているということは、その人が故人のSNSのIDやパスワードを知っていたということだ。
さては故人である本人が生前に、死期を感じて信頼する人に教えていたのだろうか。

たとえば、世間では有名でもないこんな私でも、SNSなどのネット上ではリアルでは会ったことがなくても、普段から故意にして頂いている人がたくさんいる。
しかし、もし急に私に万が一のことがあったら、その方々にお別れの挨拶はできなくなり、普段の何気ないツイートや記事で更新が永遠に途絶えてしまう。

かと言って、普段から頼りにしている人に
「私のIDとパスワードを教えるから、私に何かあったら訃報のツイートをして」というのもなんだか違う気がする。
いつものツイートが、「コモは〇〇才で永眠いたしました。」と急に第三者による訃報ツイートになる、避けれない違和感。

できることなら自分の言葉でお別れを告げたい。
でも、その時点で私はこの世界にいないので無理な話だ。
遺言のように、別れのツイートを用意しておくのもなんだか違う気がする。
そのツイートは、あくまでも事前に用意されたものに過ぎない。
「生の声では、もうこの世にいないのでお別れができない。」
このジレンマはリアルの世界でも同じことかもしれない。

メメント・モリ。
どんな人だって、明日には何が起こるかわからない。
だからこそ、常に"終活"を想像しながら生きていかなければならない。
私たちは死を体験できないが、想像することはいくらだってできる。
自分でも最適解はまだわからないが、別れの正解に近づけるよう、思案していきたい。

あるいは、単に「死んだら終わりだから、考えたってしかたがない」と考えることもできる。
そうすると考えなくても良くなるし、楽である。
それでも、家族や友達、お世話になったSNSの方々を想いながら死んでいくのが、社会性を持った人間だからこそできる、尊厳ある死に方だと思う。




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