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短編小説「地下室」

 ある小国にある大きな屋敷の裏庭の隅に、男がその生涯のほとんどを過ごしている地下室の入り口はあった。その入り口は人がやっと一人通れるだろうかというぐらいの狭いものであったが、思いのほかその地下室の中は人が一人暮らすには十分な広さを有していた。
 男はその部屋で電球を点けて、日中は(といっても部屋には日光が差し込むはずもないため、男にとっては時計の上での日中である)、読書をして過ごし、夜には気のすむまで書き物をするか、古びたDVDデッキで映画を鑑賞する日々を過ごしていた。そして三日ほど経つと、人目に付かないように裏口から入り、使用人らが使っている浴場でそそくさと体を流すとまた地下室に戻るという暮らしを続けていた。食事はその裏口から入ってくる際に、日持ちのするものをメイドから受け取って、それを食べることで済ませていた。
 
 男がそのように屋敷の隅である種モグラのような生活をしていることにはある理由があった。 
 男は三人兄弟の末っ子であり、父はこの小国では名の知れた貴族であった。父はその類まれなる優秀さ、特に深い洞察力に基づく政治的手腕が王に高く買われ、弱小の没落貴族だった家を大きく立て直した人物である。一代でその自らの能力のみで魑魅魍魎が渦巻く宮廷の政治を渡り歩いたことによる、修養に対する信仰とも言える信頼を父は置いていた。それゆえに、父はその生まれた三人兄弟に厳しい教育を課すことを厭わなかった。「最後に信じられるのは己の磨きあげた頭脳のみだ」とは父が良く夕食の際に口にしていた言葉であり、男はもう夕食など一緒に取ることが無い今になっても耳にこびりついて離れないかのように鮮明に思い出すことが出来るほどであった。
 二人目の兄までは父の目論見通りに育っていったから良かったのだろう。彼らは血がつながっているとか、家族であるとかいう、贔屓目をぬきにしても非常に優秀に育ち、一人目の兄は宮廷に仕える官僚、二人目の兄は父の後を追いかけるように若くして貴族院の椅子を手に入れた。問題は三人目こと、このモグラとして生きている男の人生であった。
 男は別に特段能力が低いとか、白痴に生まれついたという訳でもなかった。しかし、兄たちのように優れた資質に恵まれることもなかった。要するに平凡だった。男を説明するのには三行とて持て余すだろうというほど、男には何かに欠けていることも、抜きんでた取り柄もなかった。
 男が14歳になろうかというころ、父は男を自室の書斎に呼びつけ、男に命じた。かいつまんで言うなら、他の兄弟、ひいては自分が築き上げた家名を汚すことになるから、もうお前は出来る限り人目に付かないように生活しろとのことだった。男は父に最後通牒を突き付けられ、見放されたということも、もちろんその場で涙を流したほどには悲嘆したが、それ以上に悲劇であったのは、その平凡な男には家を飛び出して、荒涼たる世界に飛び込んでいく勇気も資質も持ち合わせていなかったことであり、男もそのことを自覚していた。地下室を出ていっても、今よりも苛烈極まる困難と不自由が待ち受けていることは分かっていた。
 たまに男は屋敷で食べ物を受け取る際に、新聞も受け取っていた。といっても大抵が三日遅れぐらいのもので、普通人にとってはもはや何の役にも立たないものであったが、男にとっては地下室での無限にも等しい退屈をしのぐささやかな娯楽であった。「敵国H、ついに弾道ミサイルを配備。我が国との戦争秒読みか?」「歌手G、女優Hと結婚」等など男が紙を捲るたびに情報が頭に飛び込んできた。地下室で読む新聞は、どこか遠い惑星の文明の生活を覗き見ているようなそんな不思議な感覚を与えてくれた。一切の代わり映えのしない生活を繰り返していることに、男は何の不満も抱いてはいなかった。住めば都という格言があるが、新聞しかり、男なりに地下室という自分だけの宇宙を探求し、楽しんでいた。
 
 そんなある日の深夜であった。男が書き物をしているときに、突如として部屋が凄まじいまでの揺れに襲われたのである。本棚が、書いてきた書類の山が崩れる。男の宇宙が揺れる。何より、この地下室が崩れまいか男は一番に心配した。男の祈りが届いたのか、幸運にも揺れはほどなくして収まった。
 その揺れからしばらく後、本棚からごっそりと落ちた本を丁寧元あった順番に片付けている中で、男は一度屋敷の様子を見てこようかと思った。しかし既に昼頃四日ぶりに屋敷に入り、用時を済ませていたので、今一度屋敷に行くことに男はあまり気乗りしなかった。何かあればメイドが来るだろうし、何かあったとしてもそもそも常日頃地下室に引きこもっている男に出来ることはないのだから自分はここでじっとしているのが一番よろしいというもっともらしい口実を盾に、本棚の復旧作業に男は戻った。
 幸い何かが壊れることもなく、男の方も五体満足で怪我などなかったため、直ぐにその次の日からは相も変わらずの地下室暮らしに戻ることが出来た。しかし、あれだけの揺れがあったのに屋敷の誰も男の様子を伺いにくることがなかったのは身に応えた。この生活を強いられて、いつしか望んでやっているようになってから、男は孤独には慣れきったし、もはや孤独など自分にとっては問題にすらならないと思い込んでいたが、こうも自らが誰からも存在を気にかけられてはいないことを突き付けられると、あのまま揺れと共に地下室が崩れ、地下室がそのまま自らの棺桶となればよかったのにとさえ思えた。
 それから何のこともなく、三日ほど経ちいつものように屋敷に行こうと地下室の出口(一つしかないので同時に入口でもあった。)の鉄板を押し上げようとすると、先日の地震で歪んでしまったのが開かないことはなかったのだが、しかし地上へと出るのに非常に苦労した。これからは暫くこの歪みと付き合っていかなければいけないのかと思うと憂鬱だった。
 
 そうした憂鬱を抱えながら何日かぶりの地上の光を浴びると、いつものことであるが、最初は眩しすぎて目を開けることが出来なかった。正にモグラさながらの生態である。だが男はもうこうしたことには慣れている。ゆっくり、ゆっくりと薄目でまず少量の光を目に取り込んでいく。そうしたらまた今度は目をもう少し開いて…と繰り返し、目を開けるのである。習慣とも言えるこの行為を、男は丁寧にゆっくりとこなしていく。男には時間だけは無限の財産かのように与えられている。何一つ焦ることはない。
 眼を開けると、そこはいつもの裏庭の緑ではなく、灰色と所々黒ずんだ世界が男の眼には飛び込んできた。秋も深まるころだったので、季節外れの雪が降ったのかと男は初めに思ったが、地面に積もっている雪に手を触れると、それは灰であった。男の目に映っていたのはどこまでいっても灰と墨で
しかなかった。
 むきだしになった黒ずんだ屋敷の骨組みがギシギシと今にも崩壊しそうな音を立てていた。僕がこの地下の別世界の宇宙で読書をしている間に、一体全体、この世界はどうしてしまったんだと男は思った。頭を振り絞って、現状の世界を説明できるようなことを探した。そうだ。あの記事。弾道ミサイルを配備したとかなんとか。ついに戦争が始まってしまったのだろうか。先日の揺れは地震ではなく、ミサイルが炸裂した衝撃だったのかもしれない。しかし、近くに誰も見当たらない以上、男に真相を確かめる術はなかった。歪んだ鉄板の上に、灰を少し取っ払って、座り込むと男は空を見上げた。風で舞い上がった灰交じりの埃が目に入った。男は孤独の身から、ただ一人になった。孤独を感じることも今はなかった。
 誰か生きている人を探そうとゆっくりと男は歩き出した。焦げた匂いがそこら中からするのも、男にとっては些細なことであり、気にならなかった。匂いはただ一人の存在、その肉体の感覚を確かめることを可能にする手段でしかなかった。今その足で男は敷地を跨ぎ、古い記憶を頼りに広場の方へ一歩一歩歩いていく。灰の深雪に、男の足跡が強く強く刻まれていった。降り積もる灰も、その足跡を消せないように。誰かにここにいると伝えらるように。


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