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所感

 去年の秋ぐらいに書いた雑記を消すのがなんとなく惜しくてここに残しておきます。
 
 ついに秋が来てしまった。ここでついにという言葉を使わなければならないほどに、何かに追われ続ける人生を歩んできた。そして追われ続け、いよいよ捕まり雁字搦めである。
 好きな作品「シメジシミュレーション」という漫画でもがわ先生が、何のために使い道のない穴を掘るのか、いや人生自体がそうなのか…と結構なペシミストぶりを華の女子高生二人の前で宣ってしまうシーンが私は好きだ。使い道のない穴を掘るという行為、いつか全て死という結末によって流されてしまうということを知りながらも建設的な人生を歩もうとすることもまたそうなのかも知れないのだろう。
 人生なんて所詮暇つぶしにすぎないと高らかに宣言する輩もいるが、確かに人の一生を一つの生命の営みだと、地を這う蟻と同視できうるものだとしたら、また一つの真理なのかもしれない。しかし、ゲゲゲの鬼太郎の逆を行くか如く、試験や学校、労働しかない人生を歯を食いしばって歩んだとしても、路傍に這う蟻と同じだと悟りきることはあまりにも悲しい。
 やはりこんなことを考えるのは人生に飽きた暇人がすることなのだろう。誰が読むというわけでもない文章を書き連ね、心の慰めとしているような身には、「美味い飯を食って笑う、それが人間」と次元大介のように笑い飛ばすことは到底叶わず、今日も鬱屈と使い道のない穴を掘るが如く、文章を書くことしか出来ないのである。

 本当に何をしてよいものか分からず、漫然と日々を過ごしている。したくないことは山のようにあるのだが、意欲というものがもう欠片も見当たらない。この雑然とした、いやもう混沌と呼んだほうがいい散らかった部屋の中でうずくまる様にして生きている。朝に寝て、夕方頃目を覚ますという、およそ社会性とは程遠い生活を確立してしまった。ここ最近思い出すことと言えば、所詮資本主義の同じ奴隷の身であるのに、仲良くできず説教をかまされたことばかりである。高級奴隷が低級奴隷をがなり立て、主人はせせら笑うのである。こんな皮肉をまくし立てても、一銭の得にもならないと感じては社会に自分も輪に加えてくださいとお願い奉りに明後日も申し開きに行くのだが如何せん上手くはいかない。思えば共同体の中で生きていくと言うことが不得手だったおかけで、余りあるほどに憂き目の限りにあってきた気がする。小学生の体育の時にはあと幾何か繊細であったなら、もう二度と共同体に加えてくださいなどとは言わないであろうほどに、晒し者にされてきたし、逆にここまでよく辿り着いた自らを偶には褒めて、紫綬褒章でも与えてほしいものである。life goes on、人生は続いていく。上らぬ太陽はなく、明けぬ夜はないし、目覚めのない朝もない。三回に一度ほどは目覚めなど覚えず、もう覚めない眠りの中に置いておいてほしいと切に願って、目を閉じるのだが、瞼は上げられ、陰鬱な舞台の幕はまた上がるのだ。

  ここまで読んでいただけたのなら幸いです。機会があればつくみず先生の美しい感性にシメジシミュレーションで触れてみてください。


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