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短編小説「立方体」

 朝、目が覚めると、自室の窓から見える向かいの小さなブランコだけが置いてある公園に全てを呑み込むような深い黒で塗られた完全な立方体が置いてあるのを見つけた。一片の大きさは人の身長より少し長いぐらいだろうか、その狭い公園に押し込まれるように、その立方体は置かれていた。
 昨日まではあんなものはなかったはずだがと私は記憶を確かめてから、兎にも角にも実際に間近で確かめてみようと思い、身支度も早々に整え、スーツに着替え、向かいの公園に立ち入った。朝早いのもあってか、その公園には人影は見えず、居るのは自分一人だけのようであった。件の立方体にじわじわと歩み寄り、その団地の片隅にある公園には似つかわしくない完全ともいえる直線で形作られた黒い立方体を前に、学生の頃聞いた光すらも呑みこみ、逃さないというブラックホールの話を思い出した。何故急に宇宙に浮かぶ未知の闇ともいえる、ブラックホールのことを心の内に思い出したかは分からないが、私がこの立方体に感じた、異物、少なくともこの地球のものではないと言う印象によるものかもしれない。
 その立方体は私の思う限り完全であった。言うなれば概念の産物であった。少なくとも市かなにかしらの業者が、仕事で請け負い、運んできてそこに置いたようなものではないことははっきり言えた。直線、角、その平面、そのどれもが、私が生きているあと少しで仕事に行くためのバスに乗らなくてはならないこの雑多な世界に存在しているにも関わらず、あまりにも欠けたるところが無かった。物が置いてあるというよりかは、空間を切り取っているようなそんな印象を見る者に与えた。
 私はそんな切り取られた空間を眺めながら、時計に目を落とすと、予定のバスが出発する時間が近づいていることに気付いた。日常に突如現れたその立方体を永遠に眺めているわけにもいかず、私は公園から立ち去った。私は仕事から帰った後その立方体が跡形もなくなっていることを恐れたが(突如として現れたのだから、突如として消えてしまうかもしれない!)、夕方にまたその公園を訪れると立方体は変わらずに存在していた。それ以来、私は何時しかその立方体を眺めることが習慣となっていた。詩人が星々を眺め、心の慰めとするように、私は空間の切れ目とも思えるようなその形を暇があれば、家から出て眺め、せわしない生活で疲弊した心の慰めとしたのである。
 
 気付けば奇妙な物体を眺める奇妙な習慣が私の生活に入り込んで、ひと月が過ぎようとしていた。私は相も変わらずベンチに腰掛けて、その立方体と対峙していた。当初はそれを眺めながら、物思いに耽る時間の中でそれが真っ二つに割れ、SFみたいに中から銀色の宇宙人が現れるといったような、そうした劇的なことが自らの目の前で起こることを期待していたが、現実は何処までいっても退屈極まりないものであった。この一か月余りで、黒い箱が見せた変化と言えば、私が深夜にベンチに腰掛けながら安酒を飲んで眺めていると突如として、その黒色が赤色に変わったということぐらいである。その時は非日常の訪れを告げるようで心が躍ったが、結局イルミネーションがチカチカと色を変えるように色が変わっただけで、宇宙人も世界の終焉もやってこなかった。団地の隙間にある公園に少しばかりの彩りが加えられただけであった。
 ただそこに佇んでいる立方体が私の日常に取り込まれようとしていることに抗うように、私は相も変わらず妄想を角張った物体に託した。近ごろはそれを爆弾だと思い込み、対峙している。全てを無に帰す、途方もない爆弾だと。近ごろ読んだ主人公が三越かなにかの店にそっと檸檬を置いて、その檸檬が爆弾であることを妄想してほくそ笑む…そう作品名が出てこなかったが、梶井基次郎の檸檬だ。その主人公のような気分だ。この立方体が炸裂して、この団地も私の人生も、永遠と同じ時間に来るバスも何もかも無くなってしまえばいい…この奇妙な妄想は私の心を慰めると共に、私の心を支配した。なあに今に全て、あの黒いやつが全てを終わりにしてくれる…私は何につけてもそんなことを考えるようになった。私を慰めたのは流行りの曲の歌詞でもなく、安酒でもなく、あの立方体であったのはなんとも言い難い不思議さがあった。
 
 ある夜、いつものようにベンチに腰かけていると、その立方体は突如として爆発した。いやキノコ雲をその空に浮かべるような、通常思い浮かべる様子としての爆発―とは違った。実際に起こったことは私は見渡す限りの白に包まれたと言うことである。さっきまでいた公園は姿を消し、見渡す限りの白の世界にその黒の立方体が私の目の前につい先ほどと変わらぬ位置に存在していた。明らかな常軌を逸した現象に巻き込まれているのにも関わらず、私は不思議な程落ち着いていた。私の望んだ炸裂が、爆発が起こり、まさに全てが無に帰し、今死後の世界とでもいうべき、余白の世界にいるのだと思うと、状況が自然と腑に落ちた。自らが望んだように、全ては終わった。定刻通りのバスも、怒声も、喧噪も毒を垂れ流す電波もここにはない。あるのは私と、悠然と佇む立方体だけだ。
 私はまたこの世界でもその立方体を見つめることを続ける。今度は今までのような逃避としてではなく、この純白の世界での存在意義を探すものとして。改めて見ると、四方八方を見渡す限りの白の世界にあってか、その立方体の宿す黒色は益々深みを増したように思えた。深い深い、見るものを呑みこみ、喰らいつくすような黒…私は白と黒の間にあって、自分の輪郭がぼやけていくような、だんだんと呑みこまれていくのを感じた。異物を吐き出すように、完全な白も黒も私を含めるとその完全が失われることを嫌うように、私はその立方体に吸い込まれていく。融合としてではなく、おそらく拒絶として。
 ふと気づくと私は見慣れた公園にいた。黒の立方体も、白の世界もなかった。向かいからトラックの重い唸るようなエンジンの音がした。私はその立方体のあったはずの空間の切れ目を強く、強く見つめ続けていた。飽きることなく、自らの存在を確かめるように。

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