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帚木蓬生「安楽病棟」 死とは安楽なのか

みなさんこんにちは!
読書大好き(実は)美容師のなおこです😊

私事ですが年始に風邪をひき、今年は初詣に行ってません。
その話をお客さんにしたら、

「初詣って年内に行けばいいのよ」

と教えてもらいました。
年内!年内…???

12/31でもいいってことかな?

要は年に1回くらい、神様にご挨拶に行こうねってことなんでしょうね、きっと。

しかも、

「お参りするときは、自分の住所と名前を神様にお伝えしてから、お願い事やお礼をするのよ。神様もいっぱい人が来るから、見ただけじゃあなたが誰だかわからないのよ」

とも、教えて頂きました。
そうなの!?Σ(OωO )

なんか、お正月にものすごい数の人が来てちょっとテンパってる神様の姿を想像して、なんだか神様がかわいく、身近に思えた瞬間でした。

はい前置き終わり。


帚木蓬生「安楽病棟」

死とは安楽なのか


日本は宗教といえば、神統や仏教が一般的ですが、世界最大の宗教といえばキリスト教。

キリスト教にもいろいろあると思いますが、よく聞くキリスト教の「死」のイメージは、
「神に召される」
というもの。

死とは、神様のお側に行くことであり、それは「救い」なのです。

この「救い」というのは宗教の最大のリターンであって、むしろ宗教とは、この「救い」のために存在しているのだと思う。

多くが無宗教である日本人にとっては、「死」はただの現象です。

そこに、神の救いはない。


この「安楽病棟」は、ぽつりぽつりと、登場人物がつぶやくような形の小説です。

認知症を患い、その専用病棟に入院している人々。

自らの意思で来た人もいれば、家族が連れてきた人もいる。

人は、十人十色ですね。
ひとりとして、同じ人間はいません。

同様に、ひとりとして、同じ認知症患者はいないのです。

ひとくくりに認知症と言っても、様々な症状の人がいる。

それを、初めは患者の、次は看護師の言葉で、淡々と語られていきます。

ただ、ひたすらに、淡々と。

認知症病棟で起こる、様々な日常。
でもそれは、私たちが生活している中では、起こりえないような出来事。

でも、それが、認知症病棟での日常なのです。


ここで、ちょっとだけ冒頭の話に戻りますね。

キリスト教において、死は「神に召される」ものでした。
全ては神により与えられたと信じるキリスト教では、死すらも神により与えられるものです。

日本では、死亡は全て医師の確認を必要とします。
この「安楽病棟」でも同様、入院患者の呼吸が止まる。心拍が停止する。
そして、医師が死亡を宣言する。

もしかしたら、同じなのかもしれません。

病棟において、神と医師は、同じ役割なのかもしれません。

日本は安楽死は認められていませんが、議論はずっとなされています。
何をもって「生きている」とするのか。

医師に、生殺与奪の権限はあるのか。

医師に、神と同等の役割が担えるのか。担わせる事ができるのか。

死とは救いだろうか。
安楽だろうか。
もしも私が、もう生きていることに希望はない、この世に何の未練もない、と思った時、安楽を手に入れる手段として死を選ぶだろうか。

そしてその時、私の中で、神と医師は同義語になるだろうか。

読了後、そんな風に考えました。

著者の帚木蓬生さんは精神科医として、多くの患者と向き合って来られた方です。

彼も、きっと考え続けているのでしょう。

ただ、帚木蓬生さんの描く患者さんたちは、何か、優しい眼差しで見つめられているような気がします。

その目は、医師の目でしょうか。
それとも、神の目でしょうか?


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