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物語からの脱却、櫻坂46の新たなる嚆矢

5th Single『桜月』の発売を皮切りに、イオンカードライブvol.2、3期生おもてなし会、ユニ春、3rd TOUR 2023、初の展覧会『新せ界』、6th Single『Start over!』、海外公演に夏フェス、7th Single『承認欲求』、新参者、そして3rd ANNIVERSARY LIVEに至るまで、3年目の期間を存分に暴れまくった櫻坂46。そんな邁進するグループの選択と現在地をメインの軸となる3rd Tour、3rd YEAR ANNIVERSARY LIVEの二つをもとに個人の考えを語る雑記である。


1. 3rd TOURに対する第一印象

一先ず本題に入る前に、自身の現状を軽く綴る。2nd TOUR以降はイオンカードライブの配信映像に加え、現地参加においてはBuddies感謝祭の1日目、COUNTDOWN JAPAN22/23、3期生おもてなし会の2日目、ユニ春ライブ 2023に訪れ、ツアーでは代々木の二公演と神奈川の初日、そして大阪の千秋楽に足を運んだ。この期間でBUMP OF CHICKEN、ハルカミライ、ヨルシカといった他アーティストのワンマンにも足を運んだものの、2/27から6/1の約3ヶ月は櫻坂のライブしか行っておらず、櫻坂にかなりどっぷりと浸かっていたなと振り返ってみると感じる次第である。そこからは、ロッキンに新せ界、新参者、アニラの両日を経て現在に至るといったわけである。
さて、本題の3rd TOURであるが、第一印象は変化に対する疑念であった。1st TOURは持ち曲の少なさからライブの幅がなく、幕間に用意していた演劇等の施策も上手くはまらず、ツアー前半戦のみの披露だった(ハマらなかったからなのか、元々予定されてたのかは分からないが)。また、楽曲単体のクオリティもそこまで突出したものは感じ取れなかったのを憶えている。続く2nd TOURでは、少しのナラティブを組み込みながら、歌詞の具象化をメインに据えた公演を敢行した。これに関しては以前のnoteでライブレポを書いたので割愛するが、楽曲単体のクオリティの向上に感銘を受けながらも、ライブという一本の軸では満足いくものではなかったというのが結論である。欅坂時代に貫いたコンセプトライブを続けるのか否か、その微妙なラインの上で試行錯誤しているように見えた櫻坂だったが、3rd TOURで舵を切った。コンセプトをほぼ放棄し、楽曲披露やダンストラックにおける熱狂を中心に据えたライブを行う、ロックバンド的スタイルに変貌した。この選択には心底驚きワクワクした一方で、音で飲み込むような楽曲本来の強さの不足や、どうしても歌ではなくパフォーマンスが核であるが故に、遠くの席には熱量が伝わりにくいという懸念点が浮かんでしまった。実際、代々木の2日間はそんな思考を持ちながらライブを鑑賞していた。フェスでの光景を幾度となく見てきたということにも影響された思考であったと思う。

2. “ライブへの没入”という言葉の解剖

神奈川の初日公演、座席はA6ブロック前方花道寄りという絶好のポジションでライブを堪能した。代々木が両日ともに二階席中段であったというのも相まってか、別物であると感じる解像度であった。表情や仕草、一挙手一投足が鮮明に見えるだけでなく、後方からの声や反響音に包まれ、ライブが創り上げる非日常的空間に没入する感覚も味わえた。櫻坂に限らず、ライブというものは“日常と切り離された場にいる”という錯覚にどれだけ陥れられるかが重要だと考える。没入感とは正しくその感覚の換言である。
さて、その没入において主なファクターとなるのが、世界観と熱狂である。至極曖昧な言葉である両者だが、前者はコンセプトを用いた“物語”の構築が眼前に広がる一編のフィルムを鑑賞しているような感覚を引き起こすことであり、後者は熱量と大音量の渦に巻き込まれ日常どころか我を忘れるほど前のめりになる感覚である。近しいもので例えるなら、前者は映画館での映画鑑賞やテーマパークのアトラクション、後者はスポーツ観戦といったところであろう。

a) 世界観・物語と意味


まず前者から綴っていく。世界観や物語性には、一つ一つに意味が内在する。メタ的な意味合いではなく、込められた意味合いである。その演出、その背景、その舞台装置に対する「何故?」への応えが存在し、それは見た目の為ではない確固たる意味を持つ。欅坂・櫻坂の振り付けの一つ一つには事細かく意味合いが付与されているが、そういった点からも世界観を構築するというコンセプトライブはかなり相性の良い手法であった。欅坂が大成した大きな要因の一つであると断言でき得る。実際に欅坂が行なってきたライブの殆どがコンセプトを孕み、ライブ本編のみならず、会場内の催しや開演前BGMから構築が始まっていたのは明らかであった。

b) 熱狂と呼応


一方で後者は、観衆によって完成するものであり、演者側の自己完結とはいかない。発露する表現に対する反応によって、空間を構築し、その熱量に呼応してパフォーマンスのギアも上がる。相乗効果を利用しながら熱を上げ続け、ライブに狂わされていくのだ。細かい意味合いなどとうに忘れ、目の前の光景に熱量をぶつける。熱量といっても熱く騒ぐことだけを指しているわけではない。メロウな雰囲気に酔いしれたり、哀愁に心打たれたり、郷愁に駆られたり、言うなれば音楽に対する純粋な呼応である。その心の動きに合わせて、身体的な動作(発声⇄無音、ダンス、クラップやジャンプ等々)を行うことこそが熱狂の具体的な要素である。

この二つの要素がライブにおける没入へのフックとなるわけだが、これらは共存可能なものであり、二者択一のような極端なものではない。しかしながら、ライブ自体がアーティストの音楽や表現を発露する場という性質上、熱狂が担う割合が0になることは決してないことは先に示しておく。本題に戻ると、櫻坂の3rd TOURにおいては明らかに後者を中心に据えており、このスタイルへの傾倒は自分の記憶を辿るに初の試みであったと思う(熱狂に焦点を当てていそうで、その実コンセプトライブという立ち位置のBACKS LIVEなんかは近しいものを感じはするが…)。
次に、熱狂を引き起こすにはという段階に移るが、音楽、パフォーマンス、もしくは演出も加えた光景そのものによって、強烈なエモーショナルを感じさせることだと考える。となれば重要なのは、聴覚と視覚であり、思考ではない。言語もわからない他国の音楽を聴いたり、インスト音源、もしくはオーケストラやジャズを聴き、心が揺れ動く経験は誰しも持ち合わせているだろう。「この音楽はこのような意味合いで作られているから…」といったような思考を巡らすこともなく感情が生まれる。それこそが音本来の持つ強さであり、熱狂に必要不可欠な音楽であると私は考えている。ホラー映画で使われているから、祭りの時の音楽だから、の様なことではなく人間は生来的に音に対して感情を結びつけるということだ。

3.パフォーマンスが作用する距離

ここで、聴覚の観点と同列に視覚面、熱狂を生むための根源であるパフォーマンスに関する話で、距離感と視野のテーマに移っていく。そもそも人間は環境からの情報の約8割を視覚から得ていて、次に高い聴覚でさえ11%ほどだと言われている。それほどまでに重要な視覚であるが、視覚から情報を得る際に、視野が大きく関わる。ざっくりとした説明をすると、網膜の中心部にある黄斑部、その黄斑部の中心にあるのが中心窩であり、そこからの角度によって視覚刺激が処理できる視覚、いわゆる視野がカテゴライズされている。大まかな分類では中心窩から20°の範囲を中心視野、それよりも外を周辺視野と呼び、前者の方が空間分解能が高く、後者は色覚が失われているとも言われている。そこからもう少し細分化すると、中心視野と周辺視野の境界の部分の周辺視野側を有効視野と呼ぶ。この領域は端的に言えば、中心視野の移動をスムーズにさせるために、注視点の周りで情報を検出、弁別、処理、貯蔵でき得る範囲である。また空間解像度はないが、明暗の感度が高いため、動くものに対する検知の働きを担っているため、「動いた」という知覚に特化していると言える。これらを体系化し、さらに細分化すると、3°以内のものを識別視野(図形識別など高密度な情報を正確に受容可能)、20°~110°を誘導視野(存在把握等の簡単な識別は可能なものの、注視には頭部運動が発生する。全体的な外界情報を判断する際に影響する範囲)、110°以上を補助視野(刺激の存在のみが判断できる範囲)に分けられる。

さて、この視野を舞台上で行われるパフォーマンスに当て嵌めていく。
アイドルのグループダンスは、フォーメーションを流動させながらも中心が存在し続ける。この際の主な中心は当然ながらセンターであり、センターの一挙手一投足、さらには表情までも捉えることが、延いてはパフォーマンス全体の解釈に直結する。確かに、分かり易い事例を挙げると摩擦係数なんかは二つのグループと二人のセンターにより、中心は数多くの場所に点々とするが、その移った小規模の集団に於いても中心は存在していることには異論はないだろう。その際の中心は基本的に人一人分である。この大きさを女性の平均身長157~158cm、幅もウィングスパンで考え同じ157~158cmと仮定し、この直径157~158cmの円が、自身の識別視野入る時の演者までの距離を計算する。すると約30mになる。次に、有効視野にグループの全員が入る距離を考える。フォーメーションの横幅であるが、以前、尾関梨香のshowroomに於いて、無言の宇宙の端から端までの移動が8.5間あり、大変だと語っていたが、これは約15mである。これを基準として計算すると、約42mとなる。
となると、舞台からの距離が約30mであれば、センター乃至はパフォーマンスの中心を正確に捉えながら全体のダンスを感じることができ、約42mであれば、中心部を完全に正確とまではいかなくても、かなり綺麗に捉えながら全体を鑑賞することができる、ということになる。センターを中心に、グループ全体が一個体のように、一つの生命体のように見えた感覚はないだろうか。これが最も感じられる距離がこの30m~42mの範囲だと私は推察する。
視野から距離の計算をし、大まかな指標が得られたところで、実際のライブ会場の大きさと比較したい。よく使われる会場のアリーナの縦の長さを何個か引用する。

引用:主要アリーナ会場の距離比較
引用:主要アリーナ会場の距離比較

この画像から分かる通り、武道館以上の規模になると、アリーナ席ですらパフォーマンスを肉眼で正確に捉え切ることは出来ないわけである。しかし、有効視野に入るのが舞台セットを含めた演出全体とするならば、どの会場に於いても適応し得る。つまりは、パフォーマンスでは伝えきれない“距離”を補っているのが演出であり、必ずしもパフォーマンス自体を強化するものではないとも言える。寧ろ補完の役割と考えるべきなのかもしれない。
ここで、櫻坂が世界観を限りなく薄くし、ライブ感つまりは熱狂に舵を切ってきた話に繋がるのだが、前提として、この距離はパフォーマンスを余すことなく楽しむための距離であって、それ以上でも以下でもない。これより近くなればより個人にフォーカスでき、遠くなれば会場の空気感や演出込みのライブを体感できるわけで、必ずしもこの距離が優れているという意は含まれていないことは明記しておく。その上で述べるのだが、欅坂時代のように、世界観を重視していたコンセプトライブに於いては、演出を込みとした距離で構築することに何ら問題はなかった。しかしながら、パフォーマンス自体の質の向上、それに伴う熱狂を重視するのなら、大きな箱であればあるほど乖離してしまうのである。つまりは、櫻坂の特質と方向性とでの齟齬である。この乖離の解消に繋がるのが音と観客である。

4.身体動作や発声が生むスペクタクル

熱狂を生むのに観衆の身体動作と音が起因しているのは上記で述べたが、これはパフォーマンスがカバーしきれない距離を補完する役割も持つ。ペンライトの揺らめき、カラーを揃える、クラップ、シンガロングにジャンプやダンス、そういった一体感に加わること、もしくは参加はしなくともそれらを体感し阻害しないことによって、熱狂が作用する範囲は拡大する。スポーツに関してもそうだ。スタジアム最上段の席からのプレーは豆粒のようで迫力はない。ゴール裏等、フラッグの後ろの席はプレーはまともに見られない。しかし、人々は熱狂し、足繁く通う。応援という行為が根底にあるからだ、と言えるかもしれないが、それだけで人は動くだろうか。周りの身体動作と音に呼応し、熱量を帯びるあの瞬間が途轍もなく素晴らしい瞬間で、心が躍るからじゃないだろうか。目的の対象が見えないという視覚的阻害があったとしても、余りある熱量を求めて人はその場所に向かうと私は思う。ライブも同様で、熱狂に身をまかせることに心が躍動する。家では聴けない大音量の音とともに、人々の熱量を視覚も聴覚も用いて感受する。現実から切り離された一種のスペクタクルがそこにはある。そんな熱狂を重視した楽曲が増え、ライブに於いても意識され始めたのが、無論6th Single『Start over!』からである。

5.アウェイの地で開花し始める観衆を動かす力

櫻坂は今年海外公演という完全なるアウェイにおいてライブを敢行し、また似通った空間である夏フェス等の出演もしっかりとこなした。このアウェイの環境で成功するために必要なスキルを、私は“観衆を動かす力”だと捉えている。動かすとは、ライブに参加させるという言葉に換言できる。一口に参加といっても、該当する行為は数多ある。上記で示した身体動作や音は無論該当するし、見惚れる/聞き惚れるという行為もこの参加には含まれる。ここで櫻坂はどうなのかと考えると、後者の難しさに気づく。パフォーマンスで見惚れさせるためには、先述した通り一定の距離の近さが必要だが、アウェイの場に於いて、参加する前段階の観衆は当然ながら会場の前方にはいない。聞き惚れるということに関しても、歌唱をメインに据えているわけではないので、これもまた難儀である。このような点から、参加させるためには身体動作を促す、またはその動作を目撃させることに帰結する。
身体動作を促すにあたって、ただ煽ることの効果性は低いと個人的には思っている。日本は限りなく同調や和を重んじる国民性ゆえに、自発的に何かを発すること、それによって目立つことは避ける傾向にある。ファンであって、ライブにおけるノリ方を知っているのなら問題はないが、知らないという条件のもとだと途端に難易度は上がる。その際に、楽曲自体にそれが内包されていることが重要になる。櫻坂に於いて、それに該当するものが何曲かあるが、『ドローン旋回中』『Start over!』は正に身体動作の最たる例だろう。サビでタオルを回すことや、イントロでジャンプすること、単純明快で呼応しやすい音楽は観衆を動かす力が強い。そういった音楽を携え始めた3年目の期間は、櫻坂の進化をひしひしと感じるものであった。
少し昔の話をする。欅坂時代からロキノンのフェスに出続け、幾度となくパフォーマンスをアウェイの地で披露し続けてきた同グループだが、圧倒させるという方法以外で引き込むことはなかった。上記のような楽曲は『危なっかしい計画』くらいのもので、基本的なスタイルはパフォーマンスの質で殴り勝つというようなもの。櫻坂になってもダンススキル第一のスタイルは余り変わらないにも関わらず、計画のような楽曲を失ったことで、よりフェスという環境との食い合わせが悪くなったなと感じていた。ワンマンにしても世界観と熱狂の間で彷徨い模索し続ける期間が2年ほど続いた。今年の夏、ROCK IN JAPAN FES.2023において初めて櫻坂がフェスを行なっていると感じた。フェスでワンマンの延長をしている感覚が見事に払拭され、心が震えたのを憶えている。櫻坂の変化/進化の一歩は夏フェスもとい6th Singleの発売であったと強く思う次第である。

6.辿り着いた地で示す未来

櫻坂はこの一年様々な経験を積み、新たな方向性を掴み、多様な楽曲を携え、ZOZOマリンスタジアムでの3rd YEAR ANNIVERSARY LIVEを開催した。観客席を巻き込んでBuddiesを披露し皆で祝う空間を創出し、会場の温度を上げる。この熱量を切らさない一手に選ばれたのがDead endなのだが、正に観衆を動かす楽曲である。拳を振り上げる身体動作に加え、楽曲自体に発声を促す所が内包されている。そこから続くは摩擦係数となぜ恋というリズムに乗せる楽曲たち。体を揺らすというダンスの要素も畳み掛ける。次なる5曲目は、初日に美しきNervous、2日目はそれ愛を用いて再び身体動作と発声を促す。そして3期曲の近道、Anthem time、櫻坂の転機となったドローンと繋がっていく。観衆を動かす力を持った楽曲で、Buddiesが生んだ一体感を強固にし、熱を逃さない。完璧なまでに組み込まれたセットリストは、振り返ってみて脱帽した。櫻坂のライブはこれほどまでに強くなったのかと感慨深くもなった。ライブに一度“入って”しまえば、あとは工夫云々ではなく質の勝負だと個人的に思っているので、この導入部分の素晴らしさを一番に語りたかった次第である。この他にもベストアクトを決めるのが悩ましいほど、素晴らしいライブであったことを示しつつも、二曲だけ語りたい。

・静寂の暴力

熱気渦巻くスタジアムの音が止み、山下瞳月が花道の中央からゆっくりと歩を進める。ピンと張りつめた空気感は彼女がステージに着き楽曲が始まるまで保たれた。36000もの人々が息を飲み、その光景に正対する様は途轍もない体験だった。パフォーマンスが始動しても尚呆然と立ち尽くしてしまうほどの強烈なスペクタクルはこの先も忘れないだろうし、忘れたくない。スタジアムライブという大きな箱、迫力の演出、熱狂や多幸感に包まれた空気感と最も対極にある“静寂”があの日どんな音よりも鳴り響いていた。山下瞳月を筆頭に、あの圧巻のパフォーマンスを披露した3期生は櫻坂を創り上げていく輝かしい未来そのものであった。

・Start over!

これは対である。静寂の暴力が奪っていった心を、見惚れて息を飲むようにしていた身体を、今一度最高の熱狂へと連れていく。これが可能な楽曲はStart over!しかないと叫びたくなる衝動に駆られた。そんな力強さを持ちつつも、華麗に自由にステージで踊る櫻坂に何とも言えぬ美しさを感じた。イントロのジャンプでボルテージはマックスに、されど一期二期の積み重ねた歴史が発露された4分19秒に心打たれるのみと。

隙間風よの野外との親和性、今尚進化し続ける流れ弾の1対多の表現力、儚くも真っ直ぐな芯を示す桜月も、会場を大きな愛で包み込む五月雨よも、そして現在地と更なる高みへの期待感を膨らませる承認欲求も、心底素晴らしいパフォーマンスであった。櫻坂は4年目への道を可憐に、そして逞しく切り拓いた。

7.受動と能動

ここまで読んできて、身体動作や発声を行わないのは良くないのか?という疑問が生じる。無論そんなわけがない。今まで記述してきたのは、櫻坂というグループがどのような進化を遂げて、何を生み出そうとしているのかの解剖である。ライブとは自由な空間だ。じっと見つめるのも、踊るのも、座って聴き入るのも、勿論上記のように熱狂に加わるのも、全てが肯定されて然るべきである。ただその一つ一つの行為は、一度はこの空間で何が行われようとしているのかを理解し、試し、その上で自身のアイデンティティの確立や自己の精神を守るために選び取ったものであって欲しい。自由な空間とは言ったが、自由を担保するためには配慮を必要とする。それは周りに常識を逸した迷惑を掛けないというだけでなく、先駆者を理解するという配慮も内包されていると思う。同様に演者の思考も配慮されるべき対象に該当する。その一旦の理解を経ての行動かどうかが途轍もなく重要ではないかと思うのだ。
完全な自由はないことを念頭に入れながらも、できる限り自由にライブを楽しみ、一人一人の配慮で素敵なライブを創出できたらなと願うばかりである。

8.櫻坂の3年目

櫻坂の一年を二つのワンマンライブに沿って振り返ったが、本当に素晴らしい一年であったなぁと改めて感じる。ライブや楽曲にフォーカスしたが、バラエティだって躍進の一年だった。正直追いきれないほどのコンテンツで溢れ、嬉しいを通り越して、凄いなという感嘆ばかりである。また先日知り合いと新せ界について話した際に、こんなことを語っていた。
「言葉にするのが難しいけれど、欅坂というものと向き合って次に進めたのがとても良くて」
本当にその通りであるなと。櫻坂としてのアイデンティティの確立の過程で、欅坂から目を背けなかった。あの展示会は、ファンのためでもあったかもしれないが、私はメンバーのためにあったように感じてならない。
新たな境地へと到達した櫻坂は、まだまだ躍進してくのだろうというのが想像に容易い。私は、欅坂の頃は“置いてかれないように着いていく”とよく言っていたが、櫻坂は置いていかれてないか後ろを振り返ってくれている気がするのだ。そんな安心感に身を任せながら、これからも櫻坂の未来を見届けていきたいと思う。そんな想いをこの雑記の結びとしたい。

9.あとがき

ここからは私的な話なので悪しからず。
一つ前のnote(2nd TOURの東京ドーム公演に関するライブレポ)を書いていた際には、櫻坂を追うことはないだろうなと本当に思っていた。CDを買う予定もなかったし、ライブも暇だったら行こうかなと言った具合で。そんな中、友人に櫻坂のライブに行ってみたいと言われたため、FCも抜けていなかったしと軽い気持ちで申し込んだBuddies感謝祭が当選した。そんなこんなで向かった感謝祭だったのだが、パフォーマンスの良さに衝撃を受けた。これまで幾度となく観てきたはずなのに…。あの日のパフォーマンスが何故あれ程までに自分に刺さったのかは分からずじまいだが、帰り道「もう少しだけ追ってみようかな…」という感情に駆られた。その後、少し戸惑いながら、迷いながら、もう少しという選択をした自分の心を掴み、もう一度沼に引きずり込んだのが、CoolのMVである。
痺れた。
櫻坂であのようなMVが生まれるなんて、夢にも思わなかったから。
あのBuddies感謝祭でのパフォーマンス、そしてCoolのMVと立て続けに刺さったからこそ自分の今がある。本当に今、櫻坂を見ているのが楽しい。2016年の8月、欅坂にハマったあの日から7年とちょっと、その中で今が一番楽しいと声を大にして言いたい。

櫻坂が大好きです。



・見出画像 引用:https://sakurazaka46.com/s/s46/diary/detail/53616?ima=0000&cd=blog

・参考文献
広域視覚情報の獲得方略に関する研究 -周辺視反応トレーニング法の構築に向けて-
著者:今村律子
URL:http://hdl.handle.net/10228/5277
閲覧年月日:2023/11/29

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