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 眠れぬ夜が降った。私は絹のような泡の中に居て、そこから出られずにいた。泡を押しひろげて家を出ると、雪が音を吸って騒いでいた。不安の正体を知ってか泡は散った。雪は魚の群れのように、何処かで旗を振られてでもいるように、まとまってざくざくと乱れている。
 薄皮のように積もった雪を、じゃきりじゃきりと歩いた。光のない海の底を、雪だけがちろちろと燃えて、這うような私にしきりとぶっつかってくる。
 私は不用意に外へ出たのを少し悔いた。骨の一つや二つ折れた傘でも、あれば役に立ったろうに。雪は私を打つのをやめない。私はそんなに悪いことをしたのだろうか。頬が切れそうだ。然し不思議と寒くはない。
 じゃきりじゃきり、じゃきりじゃきり。足の裏で潰れる雪の最後の声だけを頼りに歩いた。仮にお前が呼んだとしても、空耳かしら、と疑うことも出来ないだろう。それよりも路へ傾けた頭の先で、細かく斑な暗闇のおーいおーいと呼ぶのが、じゃきりというのに紛れているようで、全身を震わせて聞かねばならない気がしている。
 悪かったと思っているさ。迷惑をかけてしまった。これでもお前のことは、良く分かっているつもりなんだ。然しどうにもならないこともあるものなんだ。お前は始まりと終わりを結んで輪っかにするのが上手かった。然し私にはそう上手くいかない。直に捩じれたり、緩んだりしてしまう。悪かったと思っているさ。お前は人間が好きではないから、迷惑をかけてしまった。
 雪が私を打つのをやめない。然し不思議と寒くはない。
 道端の小さな草を、雪がぽんぽんと跳ねている。氷のように白く覆われて、僅かに若い緑色が見える。然しそれも跳ねながら、直にでこぼこ凍ってしまった。私はつい、立ち止まってしまった。すると全部が凍ってしまった。私は距離を失った。白い草は見えなくなった。
 海の底を思わせた深さを求めて、顔をあげた。モノトーンの水玉の布が組み合わさって、糊付けされたようだった。燃えて乱れる雪はもう見えない。本当に、全部が凍ってしまった。私は鏡に落ちた気になった。
 ほうら、やはり歩くのを止めてはいけなかったのだ。雪の声を絶やしてはならなかった。
 私はゆっくり足をあげた。あがったことに安らいで、そっとおろした。雪はしゃくり、と答えた。何歩あるいても同じだった。然ししゃくりという度に、私の足より一回り分だけ濁って溶けた。
 しゃくりしゃくり、しゃくりしゃくり。何だか少し頼りないが、二度も絶やすわけにはいかない。
 しゃくりしゃくり、しゃくりしゃくり、しゃくり、しゃくり。然しどうにも気持が悪い。他はまだ凍っている。他人の夢の中へ紛れ込みでもしたように、落ち着かない。
 私は足を早めた。足先だけをじっと見詰めて歩いた。息が荒くなった。雪の声が遠のいた。足はもっと早まった。
 私はいつしか走っていた。口の中で見知らぬ誰かが、代わりに喘いでいる気がする。凍った夜を走っている。同じところをずっと、走っている。まっすぐ、まっすぐ、走っている。
 それが厭になって、私は急に右へ曲がった。すると狭い路地に、光が四角く流れていた。私は足をぼたぼたさせて、吸われるように寄って行った。近付いて見ると、コインランドリーだった。奥の壁が広がるのを拒む様に、向かい合う二辺の幅は狭かった。
 五つか六つの四角い箱は、青や緑や黄色にべったり塗られて、円いガラス窓が暗く輝いていた。外面と内面の逆転した小さな潜水艦の覗き窓のようだった。大きな魚を期待した。
 魚の代わりに窓に映った自分の顔を避けて、ぐるりとランドリーに囲まれた被告人のような椅子に座った。表を見ると雪が細かく反射して眩しかった。私は目を両手で庇って項垂れた。
 悪かったと思っているさ。迷惑をかけてしまった。然し他に頼りはなかったのだ。
 ごうん、といって、ランドリーが一つ回り始めた。
 女達は皆その美しい髪の毛を跳ねさせて、鼻先を通り抜けながら私を笑って去った。もう誰もいなかったのだ。
 ごうん、といって、ランドリーが二つ、三つ回り始めた。
 私に家族もないのは知っているだろうに。いや、駄目だ駄目だと誤摩化すのは止すよ。もう止すよ。
 ごうん、といって、ランドリーが四つ回り始めた。
 然し、然しだ友よ。空の東に細く横たえた雲の腹が、暖を得た震える少女の頬のように赤く染まるのを、お前は見たことがあるか。西に群がる雲の腹が、響き渡る赤児の産声のように黄金に輝くのを、お前は見たことがあるか。
 ごうん、といって、ランドリーが五つ回り始めた。
私は赤く染まることも、黄金に輝くこともなく、全ての色を失くしてしまった。
 ごうん、といって、ランドリーが六つ回り始めた。
 暴力的なまでにべったりと塗られたこのコインランドリーのように無神経な色ですら、私は持ち合わせたことなどなかった。皆は無造作に引っ掻き回して、ごうん、私から色を、ごうん、ごうん、引き剥がしてい、ごうん、ごうん、ごうん、くばかりだったのだ、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、あぁ、そうだ、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、いわねばならない、おまえにだけは、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、さよならだ、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん。

 翌日コインランドリーには沢山の人が集まった。そこには小さな椅子の上で壁に凭れて、髪も眼も、服も肌も洗ったように白い男が死んでいた。



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「生きろ。そなたは美しい」