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推しと宗教

「推し」
最近この単語をよく聞くようになった。
一昔前まではこんな一般受けの良い便利な単語はなく、オタクたちはひっそり仲間内だけで好きなアイドルやキャラクターへの愛を語り合って生息していたような気がする。

私は、物心ついたころから常に何かを「推して」いた。生粋のオタクだ。
時に漫画のキャラクターに夢中になり、時にアイドルに惹かれTV番組の録画や雑誌の切り抜きを集めに集め、時に舞台にハマって通い詰めていた時期もあった。
オタクであることは少し恥ずかしいことで、オープンにするようなことではないという認識だったけれど、今はそんな時代では無いらしい。

SNSの普及によってオタク人口がマイノリティではないことが分かった。
むしろ、そんなに好きなものがあるなんて羨ましい、と言ってもらえる事もある。そんな風に、肯定的に捉えて貰える時代になってとても嬉しい。

そもそも、昨今のオタクはなんだかファッショナブルだ。
一昔前のオタクは、いわゆる「オタク」だった。
印象をひとことで言うならば"ディープ”だった。
好きなものにのめり込むあまりか、他のことや周りの環境に目を向けず、自分たちのコミュニティの中でだけ生きている印象があった。
そもそも、好きなものについて深めたいと思った時、今のようにスマホで簡単に調べたり、仲間と繋がれるような時代ではなかったから、"オタ活”に必要な時間やお金が多かったんだと思う。
人生は有限で、1日に使える時間もお金も限られている。オタ活にそれだけ比重をおけば、他のことに目を向ける余裕がないのも仕方ない。

翻って現代、オタクたちは上手に生きるようになった。
今までのオタクをディープであると表現したけれど、今のオタクたちが浅いというつもりは全くない。
一昔前のオタクたちと同じ熱量を持ちながら、膨大な情報量を集めているのに、自分の身なりや社会的地位、そして人生に目をむける余裕がある。とても良いことだ。

オタクは、オタクという人種から、趣味へと変わった。
そして「推し」という便利な単語も生まれ、気軽にオタクになれる時代になった。

最近、この「推し」という存在について考えることが増えた。
推しを誰かにおすすめすることをオタクたちは「布教」と呼ぶが、言い得て妙だなと思っている。
推しを推すことは、一種の宗教なんじゃないかと思うのだ。

少し真面目な話になるけれど、統一教会関連のニュースが増えていることもあって、最近宗教についてもよく考える。
実は私の母は、私が生まれる前にとある宗教の信者になり(統一教会ではない)、私自身、成人するまでは親の言う事を聞きなさい、と言われ宗教の勉強や集まりを強制されていた。
成人後キッパリと脱会を宣言し、2度とこの宗教とは関わりませんと告げているにも関わらずいまだに母は事あるごとに勧誘してくる。
私はそんな母が理解できず、娘がこんなに嫌がっているのに自分の宗教を押し付けようとしてくることに嫌悪感を抱いていた。
母からすれば、娘が宗教の教えから離れて世俗にまみれ、不幸になろうとしているのを見過ごすわけにはいかないという親心から行動しているので、ここは平行線上で交わることはない。わかり合う日はこれから先も一生来ないと思う。

ただ、私は母のことが嫌いなわけではない。
宗教のことさえなければ優しい母だし、今は実家も出て程よい距離感を持って接しているからか、関係は良好だ。
宗教に関する話題は正直出さないで欲しいけれど、私は母自身に、宗教を辞めて欲しいとも別に思っていない。

宗教とは、行動指針だと思っている。
誰だって人生で迷った時、選択に悩んだ時、誰かがこっちが正解だよと教えてくれればと考える瞬間があると思う。
母にとっては、それが宗教の聖典なのだ。
宗教ではこう教えられている、だから私はこちらを選ぶ、と自分の行動を決めることができる。それはある意味幸せなことだと私も思う。
幸い母が信仰している宗教は、大金をせびられることもなく、教祖の教えに従った結果犯罪につながるようなものでもないので、母が幸せならそれで良いと思っている。

母は自分が幸せだから、それを娘にも進めたいと思う。
母は教祖のことが好きだから、言われた通りに人生を改めるし、それを娘にも進めたいと思う。
母は宗教活動をしていて楽しいから、それを娘にも進めたいと思う。

そして私はふと思った。
母にとっては、宗教の教えや教祖が「推し」なのだと。
そう考えた途端、急に腑に落ちた。

私も、推しに生かされている節がある。
私の今の最推しは某男性K-POPアイドルなのだけれど、彼にハマってからというもの、食事の半分が韓国料理になった。韓国語の勉強を始めた。
暇さえあれば、いや無くても時間を作ってSNSで情報を集めて、彼の動画を見て、これはと言う動画に出会えば友人に"布教”したりしている。
彼をイメージする服やグッズを身につけ、仕事中も彼の歌をBGMに流している。とても幸せだ。

今はK-POPアイドルを推しているから日常に韓国が溢れているけれど、以前宝塚の女優さんを推していた時は、彼女の舞台や彼女をイメージさせるアイテムで日常が埋め尽くされていた。
母の宗教と違い教祖が変わりがちではあるけれど、動画は聖典、アルバムは賛美歌、グッズはお守り、舞台はミサで、生活習慣への影響は宗教の教えのようなものだ。

そう解釈した途端、母の言動を少し理解できるようになった。

宗教ではおそらく、どの宗教も死生観が関わってくるものだと思う。
死後の世界を恐れ、その恐怖から逃れるために宗教を信仰する。
それに対して推しへの感情はライトだ。推すのをやめたって死にはしない。
しかし現状やっていることは、宗教活動とそこまで変わらないな、とは思ってしまった。
「推し活」なんて言葉でなんだか楽しそうに表現されてはいるものの、我に返るとやや異常性を感じる行為だ。
宗教とはなんだか怪しいもの、縁遠いものと考えている人も多いだろうが、実はすぐ隣に存在しているものなのだ。

私がこんなにオタク気質なのは、もしかしたら母の遺伝子なのかもしれない。日本人には無宗教を名乗る人が多いから、不変的な信仰の対象がいない分推しにハマりやすいのかも、とも思ったり。
人間は程度の差こそあれ、何かにすがりたい生き物なのだろうか。

オタク趣味を受け入れられる時代になってはいるけれど、宗教的な部分があると考えると、自分の行動を振り返る必要はあるなと思った。
自分の行動で推しの印象が悪くなることは絶対に避けたい。
推しは心身ともに健全に推していきたい。
推しに対する感情は、いつだってポジティブで濁りの無いものでありたい。

推しの強制、ダメ絶対。
推し活は人と比べるものにあらず、ただただ自分と推しとに向きあうべし。

成人するまでの20年間もの間私に変な宗教を強制し、人生に大きな影響を与えた母のことを、多分許すことは無いと思う。
今の関係が良好であろうが、母のことを少し理解できたような気がしようが、それは変わらない。
むしろ、母のことを嫌いになりたく無いがために、無理矢理推しと宗教を結びつけたきらいもある。(ごめんなさい)

オタクたちは、オタクという人種からオタクという趣味に変化したけれど、宗教の信仰は、人生全てであり、趣味に変わることは無い。
ここに大きな隔たりがあるのだろう。

推しと宗教に関する考えは今のところここまで。
もう少し考えがまとまったら、また記事にしようと思う。
でもとりあえず次は、ただただ楽しい推しの記事を書こうかな。

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