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沖縄から物語の力を、今こそ。(後編)

映画「人魚に会える日」(2016,仲村颯悟)の話、後編。

前編で書いてみた見どころをもう少し掘り下げてみたいと思うのだけど、実は沖縄の基地問題、学生時代の研究テーマであったりしたので、この後編、ちょっと雑感というにはカタめの仕上がりになっていることを、どうかあらかじめご了承。


生贄と構造的差別

まずは生贄というモチーフについて。

劇中、ユメとの対話の場面でのヒロトのセリフに、それが、沖縄の置かれた状況のメタファーであることがわかりやすく示されていて。

「お前、今のこの島見ても、なんも思わんば?生贄だろ、今でも十分。」
「誰かが苦しまなきゃ、どこかが犠牲にならなきゃ、いけないんだよ。」

日米安保体制が戦後の日本の平和を支えた/ている大きな基盤であることに異論のある人は少ないと思うけれども、そこでの日本側の主要な負担である米軍の駐留、すなわち米軍基地を抱える負担について、沖縄が過重な負担を負っているという認識は、もしかするとそれほど共有されていないかもしれなくて。


国土面積に対して約0.6%の土地しかない沖縄県に、70%以上の米軍専用施設が集中しているという事実。

安保体制がもたらす日本の平和は、国民全体の応分負担によって維持されるべきものであるのは自明であるにもかかわらず、これは明らかな過重負担であって、基地によって得することもあるだろうとか、具体的に犯罪率などの数値とか、こまかいことはここでは深堀りしないけれども、少なくともこの状態は戦後の占領期につくられたものであって、沖縄が選びとったものではないという、重要なこの歴史。

使い古された言い回しではあるけれど、大戦では本土防衛のための捨て石となり、戦後は日本の平和のために土地を差し出しているというのは誇張とはいえない実態で、「沖縄差別」なんてものはほとんど絶滅したようには思うけれども、そんな意識はなくても、この平和を享受する限り、県外の国民は沖縄に対する「加害者性」を帯びることになるというこの構造。

ヒロトの言葉は、観る者に強烈に突き刺さる。


基地を他人事化する<物語>

だから、本土の人間が「沖縄に寄り添う」場合に発すべき言葉は、「基地はいらない、どこにも」ではなくて、「基地、もってこい」なのであって。
(消極的にでも安保体制を支持するなら)

逆に沖縄から声を上げるなら、「基地はいらない」ではなくて「国民全体で負担しましょう」ということになるわけなのだけど、そうした「日本国民」を当事者として巻き込むような声が注目されることはあまりなくて。


これまで基地の問題は<対立>の構図で伝えられることが多く、「日本国民」がその一方の当事者として設定されることが少ないために、多くの本土の人々にとっては基地が「他人事」になってきたように思う。
それはDVDに収められたトークイベント上で故樹木希林が吐露したところでもあって。

それは例えば今現在であれば、故翁長前知事時代からのいくつかの選挙や、県民大会、国会前デモなどを通じて沖縄ー日本政府の対立として、また過去、兵士による事故や事件が起きれば沖縄ー米軍の、それに対する抗議や再発防止の申し入れなどについては日本政府ー米政府の、といった具合で、悪いものになると沖縄県内の反対派ー賛成(容認)派の対立として描かれ、まったく内部の問題として語られたりもして。

ただしこれは報道関係者の怠慢だなどという話では決してなくて、人が他人に出来事を「物語る」際には、わかりやすく伝えようとする行動規制が働くものであって、そのための方法の一つとして<対立の物語>が採用されやすく(他に<因果の物語><再現の物語>などもあるのだけれどここでは詳しくはおいておく)、結果として、沖縄ー日本政府、日本政府ー米政府といった構図になることで「日本国民」をその一方に入れる語り方はなされにくいということだったりして。

なかにはこんな報道もあるのだけれど、やはり注目を集めにくくて。

「普天間代替施設は国内に必要?」 日本本土でも議論を 「新しい提案」有志が全国1700議会に陳情提出
琉球新報 2019年3月14日

陳情は、辺野古新基地建設工事を中止し普天間基地の運用停止を求めるとともに、普天間基地の代替施設が国内に必要かどうかを国民全体で議論するよう求める意見書の可決を要求する内容となっている。これまで東京都の小金井と小平の両市議会が意見書を可決している。

繰り返しのようになるけれども、このような論点が隠れがちになるのはメディアの怠慢だとか、ましてや誰かの陰謀などという話では決してなくて、人間の「物語り行動」一般にまで広げて考えるべき話であって、こうした、人間の行動規制としての「権力」、という話もとても重要なのだけど、それもまたどこかで。


当事者性の壁

だいぶ回り道をして映画の話に戻るけれども、私自身が上に述べたような「応分負担」があるべきだという意味から辺野古移設には反対の立場であるので、映画の展開には、ある種の切なさを感じずにはいられなくて。

それは結果的に移設がなされてしまうからということだけではなくて、その決め手になったのが「生贄」という呪術的なモチーフと、「村のしきたり」という、沖縄の、しかもそのまた一部の深い深い内部の論理であったからで。

それは外部者を拒絶する意志を感じさせるもので、沖縄には本土の人間が踏み込むことのできない独自の論理があり、口出し/手出しすべきではないというメッセージと映ってしまう。

村の出身者である教師の口から「ほっといてほしいんですよ!もう、そっとしておいてほしいんですよね」という台詞を聞くとき、そこには当事者性という高い壁が建てられたようであって。

<対立の物語>を乗り越え、第三の道を示し、そしてそれを沖縄の人自身の手によって決定するというそのこと自体は、ある種の希望を感じさせるものではあるのだけれど、そこで聞こえてくる「俺たちのことは俺たちで決めるから、ほっといてくれ!」という拒絶の叫びと、しかもその決定が導く自己破壊という結末に、私は切なさと、絶望的な気分を覚えたりする。


沖縄からの想像力と物語の力

「応分負担」はわかりづらい。

報道という、出来事をそのまま伝えるような場面では人々に伝わりにくくもなるだろうとも思う。

しかし同時に、ならばフィクションならできることがあるのではないかとも、思ったりする。


もし沖縄の過重負担を解消し、基地を全国各地に分散したらどうなるのか、という思考実験は、フィクションなら可能であって、しかもその想像力は、実際に基地を抱え、反対ー賛成(容認)におさめきれない人々の複雑な感情が絡み合うなか生きてきた、沖縄からこそ生まれてくるはずで。

各地で新たな対立も生まれるだろう、基地がなくなった(減った)沖縄にも、新たな経済や文化が生まれるだろう、きっと数十年は未来の話になるだろうから、戦争も占領期すらも体験的には知らない人々が主人公になるだろう、そのときアメリカは、また世界はどうなっているだろう。

人をわかりやすさの罠に陥れることができるのも物語の力だけれども、複雑な、一筋縄ではいかない状況から希望を描くことができるのもまた、物語の力だと信じたい。


仲村監督は23歳。この春に慶応大学を卒業したとのこと。きっとこれからも映画を撮るのだろうし、撮り続けてほしいし、そして願わくは、いつかそんな続編をつくってもらいたい、いやつくれるはずだと、期待を込めて思うのでした。


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