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青ざめてない私から

今日は、ちょっと過去の自分に向けて、お手紙スタイルで書いてみたいと思うのです。

いや正確には、手紙の<返事>を書いてみたいと思うのです。


昨年、離婚をして数日後に書いた記事の、

最後のとこでこんなことを書いていたのを思い出しました。

願わくは1年後あたりのあなたが、冷静にこれを読んでこのエモさに青ざめるくらい健康で穏やかに生きていてくれたら、これを書いた甲斐もあったものだと思うことにします。
もし万が一、これを笑えるような状況でなかったら、お返事でもください。
からくりテレビのあのお年寄りのビデオレターみたいに、誰かが笑ってくれるかもしれません。


あれから1年(と1ヶ月)が過ぎ、とくに感傷的になっているわけでもなく冷静ではあるのだけれど、残念ながら青ざめるというほど健康にもなっていないので、約束どおり返事を書こうと、そういうわけです。

誰か笑ってくれるんでしょうか…。


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どうも、1年後の僕です。

読み返しました。

お察しの通り、初めてではありません。この間に5回以上は読みました。
そういう人だ、あなたは。

ほんとは先月の初めのうちに書こうと思ったんですが、スタミナなくて1度タイミングを見送ってから、昨日までまた仕事が20連勤だったりしたもんだから、遅くなりました。

あいかわらずそんな働き方をしてますよ。

この本を読んだのはもう何年も前で、そういえば木暮さんって見なくなったな、と思いつつ、まあちょっと話の主旨も違いますけど。


1年という時間については、

「望む姿に自分を変えるのにはきっと短いけれども、思ってもいなかった姿に変わってしまう程度には、十分に長い」

とか、

「たとえあらかじめ目指したように進んだわけでなくとも、この変化そのものが、1年という時間を生きた確かな証だと思うのであって」

とか、別のとこでも書いていて、変わらず確かにそう思っています。


この1年に関して言えば、僕個人よりも社会全体についての方が、それが妥当するかもしれませんね。

そちらの年末ごろ、中国で新型コロナウイルスっていう病気の感染が始まります。これが3ヶ月くらいで世界中に拡大してパンデミック状態、日本でも4月から2カ月弱、「緊急事態宣言」が発令されます。

世界での死者数は100万人を超え、日本でも1,500人以上が命を落とし、これから冬にかけてまた感染の急拡大が起こるんじゃないかとソワソワしつつ、しかしいつまでも緊張感は続かず街には人出が戻りつつある、今です。

みんながみんなマスクを着けて歩き、働く街は、1年前のその地点からはまさに「思ってもいなかった姿」でしょう。

さらに1年後には一体どうなってるのか、まさかこの間の悲劇や困難が忘れ去られ、オリンピック・パラリンピックが強行されてお祭騒ぎ、なんてことにならないように、祈ってはいます。


個人的な変化といえば、そういえば順調に体力が落ちてますね。

あなた、ちょうど飲食の仕事やめたころですかね。
疲れてるって書いてるけど、よくやってましたね、ほんと。

3~4時間ごとに1日2回の仮眠が必須となった今からはちょっともう考えらんないっす。

1ヶ月以上も前にやらかしたぎっくり首は緩和すれども完治せず、肩から腕へと痛みが移ってきていて、つい先週も今度は腰をギギギとやらかして、ようやく緩和にこじつけたけれど油断のできない状態で。

もちろん歳のせいもあるのだろうけれど、それを上回って身体機械への負荷の蓄積を思わずにはいられません。白髪も増えたかな。


でも悪いことばかりでもなくて。

離婚したあの人に対しては、少しやさしい気持ちで接することができるようになった気がします。

主に子どもについて、なかなか非合理な判断や要求は変わらずあるわけだけれども、きっとひとり親になって以前にもまして孤独な時間もあるのだと、そしてだからこそ必死でもあるのだと、思えるようになりました。

合理的に考えたらやり方は少し間違えてるかもしれないけれど、わが子を必死に守ろうとする不完全なその母親を、こちらも不完全な自分のやれるやり方で、支える必要があるだろうと思うようになったのです。

それはあるいは、自分は家庭から逃げておきながら子育て支援なんて仕事をしてるこの矛盾に対する、暫定的な回答かもしれません。

仕事で支援対象としている家庭ならその不完全さを受け入れることから始めるじゃないかと。
それと同じように、あの家に生まれてきた子どもと生んだ親とは、誰かに支えられて当然なのだと。

そしてそれはあるいは、奥田牧師的に言えば、「出会った責任」「関わった責任」とも言えるかもしれません。


あ、そうそう、東八幡キリスト教会の奥田知志牧師がこの半年くらい完全に推しになっていて、毎週日曜にオンラインで礼拝を観てるなんていう習慣は「思ってもいなかった姿」かもしれませんね。

7月12日のこれはとくに神回。

自分の身の安全を守るために「縁を切る」よりも、そのリスクを引き受け、関わり、「自分に与えられた他者の十字架を負って」生きる。

そのとき世間は言うでしょう、
「あいつアホちゃうか」「人の十字架を負って何がんばってんの」
「人の苦労まで背負いこんで何がんばってんの」
「人の十字架を負って何苦しんでんの、あいつアホちゃうか」

でもイエスは言うんです、
「それでええんや」
って

このやさしい関西弁のイエスが最近ツボで。

もちろんこんな立派なキリスト者には到底及ばないけれども、自分の選択が許されているような気にはさせられています。


1年前に書いていた

「求められる場所で誠実に働き、足るを知りて貪らず、滅びるときには潔く滅びるべし」

という心境の延長上にもあるでしょうね。
この想いも変わりません。


もちろん、繰り返しになりますがご存知のとおりそんな立派な人間じゃありませんし、中途半端な<未中年>です。

自分の中の小さな女の子、ならぬ小さなオジサンは、その物欲・性欲・金銭欲・承認欲・etc…を担いで、しょっちゅう姿を現します。

オジサンを手なずけるのはまだまだなかなか難しく、スナックのママよろしく「あははー、やだ、もう、しょうがないわねえ」とご接待してみたりもするのだけれど、それでこの来店頻度が下がるというものでもないようで。

でも、信頼できる仲間の人とは「さみしいよねー!なんだろね、これねー!ガッハッハー!」と笑いあえたりもしています。


不安もあるし、イライラもするけれど、それは40になっても50になっても同じなのだと、ヒロトは言ってくれています。


そうやって生きていくのでしょう。
どこかで力尽きたら、それはそれ。

もうそちらに宛てて書くことはさすがにないと思いますが、たまに覗きに行くくらいはするかもしれません。
いや、確実にするでしょうね。そういう人だ、あなたは。

では、また。

さかな


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