アジア

8~13冊目-ユーラシア横断宗教本の旅~『アルケミスト』から『親鸞と道元』まで(中編)

神と「罰」

2月の「宗教本強化月間」の記録を綴る三部作の、2本目。

1本目、パウロ・コエーリョの『アルケミスト』を読む途中で改めて聖書を勉強してみたっていうことを書いたのだけど、そのなかで気になったのは、聖書の、特に旧約の神の、「罰」についてで。

たとえば有名なところでは「ノアの方舟」。欲情に支配され堕落した人々に失望した神は、ノアの一族を除いて、残りの生き物を滅ぼすことを決める。
さらっと書いてるけどけっこうえぐい。

また有名なところでは「バベルの塔」の物語。生き残ったノアの子孫たちはみな同じ言葉を話し、強い団結で結ばれていたが、その力を誇示しようと天まで届く巨大な塔の建設を始めたことが神の怒りを買う。「神を敬うことを忘れた民を乱してしまおう」と、人々の言語を異なるものにして争いを引き起こし、やがて人々は散り散りになってしまった。
世界の諸言語の起源として知られるとともに、神に挑戦することを戒める物語としても知られている。

もうひとつ。死海のほとり、ソドムという町では道徳の退廃が進み男色がはびこっていた。これを見た神は町を滅亡させることにし、ユダヤの父祖・アブラハムの甥であるロトの一族だけは救うこととした。一族が出発したあと天からは硫黄と炎が降り注ぎ、町は火の海となったのだが、神の言いつけを忘れこの光景を見るために後ろを振り返ってしまったロトの妻は、塩の柱にされてしまう。
一度救った者にも容赦ない。


旧約の重要な軸になっているのが「選民思想」であるから、選ばれし正しい者が救われ、神に背いたものは救われないというのは納得はいくのだけれども、こうした、過ちに対して罰を下すものとしての神という存在は、はたしてほかの宗教においても共通するものなのか否か、が気になったというわけで。

そこで神様ではないけれど仏教の仏様はどうだろうか?と思い立ってこのあとの話が進むのだけど、話を先取りすると、実は最後に辿り着く本『親鸞と道元』において、著者・ひろさちや氏がそれについて一定の回答をしてくれていて。

キリスト教の神(ゴッド)は「裁きの神」であり、「裁きの神」である以上、人間を罰する存在である。人間はその神の前では、小さくなっていなければならない。神の前ではみずからを虫けらのごとくにしてへりくだらなければならない。それがユダヤ=キリスト教の神だ。
しかし、私たちの阿弥陀仏は違いますよね。わたしたちの阿弥陀仏は、気軽に、
「阿弥陀さん」
と呼びかけて、それに甘えることのできるほとけなのだ。
そこに、キリスト教のゴッドと、親鸞の阿弥陀仏とのあいだに、決定的な差がある。

たぶん「仏さんのバチがあたるぞ」という日本語が、「神様のバチ」や「天罰」という言葉とも入れ替え可能な形で成立するように思えるのは、土着の神も、中国からやってきた天という思想も、さらに遠くインドからやってきた仏も、みんなごちゃまぜにしてきたがゆえのことであって、仏様には「罰」という観念はそぐわないのかもしれない。


それを確かめるため、聖書の舞台である地中海東岸から、イラン、アフガンを越えて、チベットへ、旅の歩みを進めてみたりして。


ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャツォ『フォト・メッセージ ダライラマ 希望の言葉』(薄井大還 写真,2011,春秋社)

チベット仏教というひとつの宗派の指導者の、しかも解説書というよりはフォトブックであるので、これで仏の何たるかを語りうるとは思っていないのだけど、経典そのものにあたるよりもまずは信頼に足る人物の言葉を通して学びたいという、凡夫な私で。

信頼に足るとはずいぶん上からで畏れ多いけれども、次のような「寛容」をその言葉のなかにみるとき、そこには耳を傾けるべき知性を感じさせてくれる。

宗教とは、薬のようなものです。
薬にはいろいろな種類がありますが、それぞれの病人に適した薬が必要なのであり、その人が患っている病気に効くものでなければ役に立ちません。
(中略)
ひとりの個人にとっては、ひとつの真理、ひとつの宗教しかありません。
しかし、国家や社会、コミュニティーには、いろいろな人たちがいるわけですから、いくつかの真理や宗教があるべきだと思います。


そして問題の、人の身にふりかかる災いについて、罰というのとは違った形で語ってくれている。

釈尊は、「私たちの身に振りかかってくる災いは、すべて煩悩によって生じたものである。だから、私たちの心を惑わしている煩悩こそ、私たちを苦しめている本当の敵である」と説かれています。
ですから、煩悩がすべての災いの源なのであり、煩悩に支配されてさまざまな悪い行いをしている人が悪いのではないのです。

災いは悪い行いの「罰」として仏から<下される>ものではなく、悪い行いのもととなる煩悩によって<引き寄せられる>、と考えるという。
「因果応報」の「果」は天上から<ふってくる>類のものではなくて、いわば地平線の彼方から<やってくる>ようなものとイメージしたらよいだろうか。

ゆえに、問題は仏様がどう思われるかではなくて、自己の内面をいかに律して煩悩を滅するか、それが主眼になるというわけで。

外面的な祝福というものは、ある意味で役に立ちません。
自分自身が努力するということが、いちばん大切なのです。
それが仏教の教えです。
釈尊は「あなた自身があなたの主人である」といっておられます。


はて、どこかで聞いたようなセリフ、と思い出したのはニーチェの言葉で。

前に書いた記事でみた「力への意志」についての一節。

そして服従して仕えるものの意志のなかにも、わたしは主人であろうとする意志を見いだしたのだ。(中略)およそ生があるところにだけ、意志もある。しかし、それは生への意志ではなくて――わたしは君に教える――力への意志である。(『ツァラトゥストラ』第二部「自己超克」より ニーチェ著 手塚富雄訳)

己の人生の主人であろうとすること。なんとこの近代的な主体のあり方を2000年以上も前にブッダが先取りしていたなんて。

と、一瞬は思ったのだけれども、次の瞬間にはほんとにそうか?と疑問が湧きたち、もう少しだけブッダの直接の言葉に接近すべく、今度はインドへ足を運んでみたりして。


小池龍之介『超訳 ブッダの言葉』(2011,ディスカバー・トゥエンティワン)

『小部経典』『法句経』『経集』『中部経典』『長部経典』『相応部経典』『増支部経典』から190の言葉がチョイスされている本書。
「超訳」であるので「直訳」との距離は踏まえなければならないけれど、ありました、件の「自分自身の主人」の話。

君は、君の心の奴隷であることなく、君の心の主人であるように。
君こそが君の最後のよりどころ。
自分以外の何にもすがらず、自分の心を調教する。
まるで自分の子馬を丁寧に調教するかのように。
(法句経380)

違う、やっぱりニーチェとは違うのであって。

ここから聞こえてくるのは「煩悩に支配されて煩悩の奴隷になってはいけません。自分の心は自分で手なずけてコントロールしなさいね。」という言葉で、それは煩悩を「調教」するものとしての「主人」であれという話。

それは「神は死んだ。何者にも服従することなく、己の人生の舵を取り、自分自身の主人であれ」という話とは違っていて。


むしろこうした「自分の人生は自分のもの」といった主張とは真逆の思想が、ブッダの教えの神髄なのかもしれないとさえ思わせる。

諸法無我、すなわちすべてのものは、自分のものではない。
これも、あれも、それも。
あらゆる心理現象も物理現象も、そのすべては自分のものではない。
この身体も、この感覚も、この記憶も、この好き嫌いも、この意識も、この世界も、すべては自分のものではない。
これを座禅瞑想により肚の底から衝撃とともに体感するなら、君は苦しみから離れ、君の心は静まり安らぐだろう。
(法句経279)

そうだ、仏教なら自我ではなく無我、なはずだ。ニーチェ的な近代的主体と相容れるはずもない。


しかし、無我とは、「すべてのものは自分のものではない」とは、いったいどういうことなのか。安らぎとは、すべては無意味だと吐き捨てるようなニヒリズムのことなのか。
この言葉だけではわからない。

そのヒントを求めて、さらに東へ、旅は続きます。


#推薦図書 #ダライラマ #ブッダの言葉 #仏教

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