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5冊目-『世界が土曜の夜の夢なら』

年末に引っ越してきた町は、割と「治安の悪さ」や「ヤンキー」のイメージが強いエリアで。

私自身はさほど気にしておらず、町を歩いても家族連れが多かったり、やたらクーポン券を配っていたり、「生活感」という印象のほうが強かったのだけど、フードコートで3分ほど席を外した間に財布から数千円を抜き取られていたことに後から気づいたときは、「この町の洗礼か…」と思ったりもして。

まあ、鞄ごと置きっぱなしにした自業自得といえばそうなのだけど。

この町の文化に合った身のこなしが必要かと思うと同時に、ふと思い出した本があって。


『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』斎藤環(2012,角川書店)

精神医学の専門家でひきこもり支援の活動家でもある著者による「ヤンキー文化」についての論考で、『戦闘美少女の精神分析』(斎藤環,2006,ちくま書房)で論じられた「おたく文化」との対比も本書内で見られる。

それはネットで見かける、「DQN」に対して抱く「なんJ民」の<相容れなさ>の感情にも、なるほど納得がいくような気がしたりする。

曰く、

なぜヤンキーファッションには可愛いキャラクターグッズが違和感なく馴染むのか。そして、なぜヤンキーはディズニーが好きなのか。(中略)
実はここで僕が考えた「ヤンキー文化=女性原理のもとで追及される男性性」というアイディアは、その対として「おたく文化=男性原理のもとで追及される女性性」を想定している。

例として亀田三兄弟親子を挙げ、肉体的な強さや「女を守る男」に価値が置かれるが、集団の内部においては規範による抑圧というよりは「むしろ母と娘との関係性にも似た庇護的な意識、あるいは身体の側から子の精神を支配しようとする母性的傾向、さらに言えば自分の人生の「生きなおし」を子に求めるような、母性的同一化への欲望」をそこに見出す。

丸山眞男が見た日本文化の「気合とノリ」

しかし(というべきか、だからというべきか)、ヤンキー文化は男性的価値規範に<本質的に>支えられているというものでもない。

それは例えば学校の教員という権力に対して、一方では反発して個人の自由を主張しながら、一方では<ヤンキー先生>という権力には付き従う態度にも見てとれる。そうした「本質性の不在」について、丸山眞男の言葉を引きながら次のように述べる。

丸山は何を言ったか。彼は古事記を徹底的に読み込んで、「つぎつぎになりゆくいきほひ」の歴史的オプティミズムが日本文化の古層にある、と喝破したのだ。(中略)
要するに「気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」というような話だ。これが日本文化のいちばん深い部分でずっと受け継がれてきているということ。つまり丸山というわが国でも屈指の政治思想家が、まだヤンキーという言葉もなかった戦後間もない時期に、日本文化とヤンキー文化の深い連関をみぬいていた、ということになる。

言ってしまえば本質などなく、「そこには規範も、本質的な価値観も、系統的な教義もない。ポエムはあっても文学性はなく、自立主義はあるが個人主義はなく、おまけにバッドセンスで反知性主義ですらある」。

しかし、と続ける。

行動もファッションもスタイルも本質のない「フェイク」だとしても、「彼らは、正統な価値観や根拠なしに、自ら気合いを入れ、テンションをアゲてことにあたることができる。…宗教的な教義によらずにこれほど人を動員できる文化は、おそらくほかに例がない」

なるほどEXILE一族や氣志團や湘南乃風がもつアゲアゲの「いきほひ」の動員力は、本質的な価値観の不在など不問に付してしまえるほどの実際的なパワーをもっていると認めざるを得ない。
(彼らがヤンキー的かどうかというこまかい検討はここではおいておく)

ヤンキー文化という異文化

たとえばキリストの神のような本質的・中心的な価値観がなくとも、それが一群の文化として見てとれる以上、そして私自身がその文化の成員でない以上、私にとってその文化に接触する場面は「異文化」として体験されるのであって。

昔、この町ではないけれど、「ヤンキー」中学生の学習支援の仕事があり、少年院を出所したばかりで学校の授業に遅れをとっている男の子の、通学の動機付けと卒業後の進路相談を行なっていたことがあるのだけれど。
「福祉文化」の人間である私はまず傾聴、彼の言葉を待ち、寄り添い、本人のペースとロジックでなんとか結論めいたものに辿り着き、辿り着いてはまた迷いながら、サポートを行なっていて。

学校に着いたはいいものの教室に入るのに気が進まず、別室でプリントなんかをやりながら話をしていたところ、「生徒指導」の教員である中年男性が登場。
はじめ穏やかに話していたのだけれど、彼の問いかけに「別に」「普通」「わかんねえ」とぶっきらぼうに答える少年の態度が気に食わなかったらしく、突如として激昂。
それでも態度が変わらないことにさらに激怒、しまいに平手打ち1発と「お前のためだからな」というあの手垢だらけの印籠のような決め台詞を残して出ていった。

あまりの急展開に割って入ることもできず状況を見つめていた私。
翌日、そのことを少年に謝ったのだけど、「まあ、あいつはいいやつだから」という彼の言葉に、私はさらにうろたえることになる。
聞けば「俺らみたいなもんのことを真剣に考えてくれてる証拠だから」といったような主旨。

スクールウォーズの「今からお前たちを殴る!」のような教師と生徒の信頼の作り方は完全なるフィクションだと思い込んでいた私。
「ヤンキー文化」なるものと、そこに特有のコミュニケーションスタイルが確かに実在していたことを知り、強めのカルチャーショックを受けたのであって。

斎藤氏の言葉を借りれば「身体の側から子の精神を支配しようとする母性的傾向」、その「身体性」を特徴とする信頼構築は、とにかく聞く・とにかく話す、が鉄則だと思い込んでいた私には異文化に他ならなかった。

すぐそばにある異文化

たとえば海外に長期滞在や移住する人なんかは、現地の言葉や食習慣を勉強したりするもので、むこうの文化に馴染もうとする。
しかし国境を越えずとも「異文化」は割とすぐそこにあるのであって、それは外国出身者とか宗教者とかそういうものよりもっとわかりにくいけれど、ヤンキーやおたくやサラリーマンや公務員や、都心や郊外や、男や女。

日常は実に多様で雑多な文化の織り合わせのうえに成り立っていること、同じように見えてバラバラで、バラバラだけど微妙につながって、そうして危うくも日常は営まれていることを痛感させられる出来事で。

多文化共生のためには異文化についての学びが不可欠で、私個人、この町に住むことになったのだからそれはなおさら。
ヤンキー文化の実際を学ぶため、手始めにアゲアゲのノリと気合と「いきほひ」を身体に取り入れるべく、携帯のプレイリストに三代目J SOUL BROTHERSを追加してみたりする。

#本 #推薦図書 #ヤンキー #精神分析 #郊外

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