日向大神宮。
仕事帰り、いつもの森に篭ってみた。
心に迷いがある時や、自分を取り巻く気の流れがよろしくない時など、気持ちを落ち着けるべく必ず訪れる場所。
というよりか、無意識に心が求めるように自然と脚が向いてしまう場所。
蹴上( けあげ )を越え、九条山へと東へ向かう三条通りの途中で左折をし、急勾配の坂を登り、山の中へと向かうこと、わずか1分程度で360度ぐるっと豊かな緑に囲まれる。
あの交通量の激しい三条通りの車の音が、パタっと聴こえなくなり、山の中というか、森の中というか、空気はまるで違う質感へと変化する。
特に野生の動物がいそうな気配でもなく、民家もところどころあったりするのだが、あたりに漂う空気感が崇高というか、市内の寺社仏閣で感じるエネルギーとはトーンが少し違う感じを受ける。
ここは、京都のお伊勢さんと呼ばれている神社( 大神宮 )で、京都に住んでる人にさえ、あまり知られていない( 以外と京都に住んでる人はメジャーどころの寺社仏閣さえも知らなかったり、興味がなかったりする 笑 )知る人ぞ知るタイプの神社。
特に京都の土地の事だったり、神社の歴史的な事に触れると、『 ◯都検定 』とか知識という名の正義を振りかざし、あれこれ言われてもただ、ただややこしいだけなので、公式のHPをご参照いただければと。
京都の森は下鴨神社⛩の『 糺ノ森( ただすのもり ) 』だけだとずっと思い込んでいたけれど、うんとこちらの方がわたしにとっては相性が良い。
無になれる場所。
今日は、特にそれを強く感じた日だった。
引き裂かれるような辛い選択と迷いを繰り返す中、やはり最後は自分らしい決断をする事だった。
つい先日、いつも気付きを与えてくれる知人と電話の会話の中でハッとした一言があった。
相手を思う気持ちや考える行為は確かに大事。
けど、現実を生きている以上、行動がすべて。
目の前に起こってる現実がすべてだからね...と。
今日まで、頑なに守るべきだと思い込んでた事や、内なる想い、すべてが音を立ててガラガラと崩れ去った。
跡形もなく。
境内、そして敷地内をとにかく彷徨った。
そして、脚が止まった場所は大きな鳥居の前だった。結界のように特別な空気が張り詰めていた。
目の前を見れず、ずっと仁王立ちで下を向いていた。( 側から見たらだいぶ危ない人w )
すると頭上に一筋の光が指してきて、鬱蒼としてる暗い森が一瞬で明るくなった✨
通り雨のように、暗雲立ち込めたモヤモヤが過ぎ去って行った。
自ら行動した事で、結果としては掛け替えの無い大切なものを失ってしまったけど、長い時間を掛け、自分なりの精一杯の愛を注いできた事もあって、正直なところ後悔は無かった。
とはいえ、大切なものには変わりないので、今後は静かに遠くから見守っていこうと思う。
あくまでも、わたしの中での気持ちの変化というか、自分の立ち位置だったり、スタンスが変化しただけの話。
けど、それは自分にとって前に進むために必要な事だった。この世に生きている以上、静かに見守っていけるだけでも、素晴らしく幸せな事なのだ!!という境地になれたのは大きな心の成長だったと思う。
心の成長には必ず痛みが伴う。
痛み無くして、心の成長は無い。
本当に良い経験をさせてもらった。
それと同時に今回、改めて、思い悩み、動けないほどに考える時ほど、自らの行動が大切な事もわかった。
とにかくまず行って( 言って )みる。
人に会ってみる。
少しでも手に触ってみたり、
手に取ってみたりする。
待ち受け姿勢は、自分には向かなかった。やっぱり自分の意思で前に進みたい。自分の人生、自分で決めたい。
restart。