後白河法皇⑦

六波羅には空也上人が建立した六波羅蜜寺がある。
清盛の祖父の平正盛がこの付近に阿弥陀堂を建立したため平家との縁が生じ、清盛の父の忠盛が六波羅蜜寺の隣に六波羅殿と呼ばれる邸宅を建て、清盛の代には平家の館が寺を取り巻いて建てられていた。
この六波羅に、二条天皇を行幸させようという計画である。成功すれば清盛が天皇を神輿に担ぐことになる。
内大臣三条公教と、二条天皇の側近の藤原惟方によって六波羅行幸の計画が練られた。
二人は、信西の従兄弟の藤原尹明を計画に誘った。
藤原尹明は妻の母が忠盛の娘で、尹明の姉妹が藤原惟方の妻だった。
このような経緯から、尹明は清盛とも惟方とも親しかった。
平治元年12月25日、清盛は信頼に恭順の意を示した。
しかしこの同じ日の夜、尹明は後白河上皇の下を訪れ、二条天皇の脱出計画を知らせた。
(ーーとなると、次が清盛が政権の要となるか)
後白河上皇は思った。(これは厄介なことになるな。武力を持った者が政権を担うとなると、簡単には倒せぬ。しかし信頼では政権を保つことはできまいーー)
後白河上皇は、即座に仁和寺に移動した。
仁和寺は後白河上皇の兄の覚性法親王がいて、先の保元の乱の時も、崇徳上皇が保護を求めた寺である。
保元の乱の時は、覚性法親王は崇徳上皇を受け入れなかったが、今回覚性法親王は後白河上皇を暖かく迎えた。
そして翌26日の丑の刻(午前2時)、二条天皇は内裏を出て清盛のいる六波羅へと移った。
後白河上皇が藤原尹明の訪問を受けてから、わずか数時間のことである。
二条天皇が六波羅殿に入ったことが公家に知れ渡ると、公家は争って六波羅殿に伺候した。
信頼はまんまとしてやられたのである。
信頼は当然慌てた。義朝は清盛を討ち取るべしという意見を退けた信頼を「日本第一の不覚人」と面罵したという。
信頼、義朝が攻めてくることが予想されたが、その際内裏が戦場になって戦火に見舞われることが懸念され、清盛は敵を六波羅に誘き寄せることにした。
清盛は信頼・義朝追討の宣旨を受け、嫡男の重盛と弟の頼盛に出陣を命じた。
「年号は平治、都は平安、我らは平氏。3つ同じ(平)だ。ならば敵を平らげよう」
と、重盛は兵を鼓舞して出陣した。
この時重盛は義朝の長子の悪源太義平と、紫宸殿にある右近の桜、左近の橘を7、8度回って戦ったと言われているが、これが事実だと御所を戦場にすることになるから、平家方は御所の門前まで攻め寄せて、敵が討って出たところを戦術的に撤退して六波羅に誘き寄せたのだろう。
重盛、頼盛の軍勢が押し寄せることで、怯えた信頼は逃げ出してしまった。
この時の悪源太義平の働きは凄まじいものがあった。
義平はこの時19歳。
八龍の鎧を着、石切の太刀を帯び、葦毛の馬に股がって平家方に攻め込んだ。
義平に従う武者は17騎。鎌田政清、後藤実基、佐々木秀義、三浦義澄、熊谷直実、斎藤実盛、首藤俊通、岡部忠澄、猪俣範綱、波多野延景、上総広常、平山季重、金子家忠、足立遠元、関時員、片切景重と、名のある猛者ばかりである。
義平は重盛に向かい、「嫡男同士何の不足があろうか!さあ組もう!」と呼びかけた。重盛はまともに相手にすべきではないと思い兵を引かせると、義平が追撃して、平家方の500騎を17騎で追い散らした。
戦術的撤退による後退とはいえ、義平の猛攻にあっては平家方もたまらない。とうとう重盛はわずか3騎で逃げることとなった。
義平は鎌田政清と共に重盛を追い、政清は重盛の馬を射て重盛が馬から転げ落ちた。
政清は重盛に組みかかろうとするが、主君の大事と重盛の郎党与三左衛門景安が政清に挑んだ。
義平は政清の助太刀をして、景安の首をはねた。
重盛は材木の上に立ち上がって新しい馬に乗り換えた。
重盛は覚悟を決めて義平と戦おうとするが、同じく重盛の郎党の進藤左衛門家泰が重盛を押し留め、自ら義平に立ち向かった。
家泰は討たれ、その間に重盛は虎口を逃れた。

しかし状況は、源氏に不利であった。
郁芳門で義朝は頼盛と戦い、頼盛もまた軍を引いた。
頼盛もまた義朝の激しい追撃を受けた。。頼盛もまた戦術的撤退ながら義朝の猛攻に難渋し、重代の名刀「抜丸」を抜いて辛くも撃退した。
そして平家方は内応者の手により、平教盛の軍勢が内裏の中に入った。
またこの時、陽明門を警護していた源光保、源光景が、警護を放棄して平家方に寝返った。
義朝の軍勢は、内裏に戻れなくなった。義朝は六波羅に向かって進むしかなくなった。
また一番の活躍をした義平も失敗していた。
六条河原で、義平が源頼政の300騎が戦いに参加せずに布陣しているのを見て、
「さては我らが負ければ平家に味方しようとしているのだな、憎い奴だ、蹴散らしてしまえ」と、頼政の軍勢に攻めかかった。
頼政は義朝・義平の河内源氏とは違い、摂津源氏である。
だから同じ源氏でも、義朝に味方する理由はなかったが、義平が攻撃してために必然的に平家に味方するようになってしまった。義平に好意的な『平治物語』も、義平の頼政への攻撃を「若気の至りだろう」としている。
それでも義平は六波羅まで攻め寄せた。義平が現れると、清盛も黒一色の具足に黒馬に乗って出陣した。
「悪源太義平見参!」と義平は名乗って一気に攻め立てたが、平家方も清盛を討たせてなるかと奮闘した。
義平も源氏の武者達も強かったが、朝から戦い続けていた。
源氏に対し平氏は、温存していた新手を次々に繰り出していった。
源氏は疲弊しきって、とうとう敗走した。敗走の時、義朝の周りには20騎ほどしかいなかったという。

信頼は義朝と共に東国に落ち延びようとしたが、義朝に拒絶され、やむなく仁和寺の覚性法親王の元に出頭した。
覚性法親王にというより、後白河上皇に助命を嘆願したと言っていい。
しかし朝廷では、信頼を許す意志はなかった。
信頼は公卿だが、六条河原で斬首されることになった。
『平治物語』によると、信頼は斬首される台に首を据えられてももがきもだえ、押さえつけてようやく首を掻き斬ったという。また慈円の『愚管抄』には、斬首される段になってもいろいろと自己弁護を続け、とうとう清盛はその弁護を聞くのを拒絶して首を掻き斬ったという。「ユニヨニワロク」と、慈円は信頼の態度を批判している。
とにかくこうして、信頼は首を斬られた。享年わずか28歳であった。
義朝は義平、朝長、頼朝、源義隆(頼朝の大伯父)、平賀義信、源重成、鎌田政清、斎藤実盛、渋谷金王丸などを伴い、東国で勢力挽回を図るべく東海道を下ったが、その旅も落武者狩りの部隊との戦闘で朝長、重成、義隆を失っていった。また頼朝は、吹雪の中で一行からはぐれた。
義朝は尾張国知多郡野間にある野間大坊に辿り着き、政清の舅であった家人の長田忠致を頼った。
しかし長田忠致は恩賞目当てに義朝を裏切り、義朝は入浴中に襲撃を受けて殺害された。
「せめて木太刀ありせば」が、義朝の最後の言葉だった。現在も野間大坊の義朝の墓には、山のように木刀が供えられている。
義朝の首は、正月9日に亰で獄門に処された。
義平は義朝と離れて東山道から東国を目指すが、義朝が討たれたのを知ると、仇を討つべく亰に戻って清盛の首を狙ったが、捕らえられ、正月21日に六条河原で処刑された。
頼朝は2月9日に近江国で平宗清によって捕らえられ、首を跳ねられるところだったが、清盛の継母の池禅尼が「亡き我が子家盛に似ている」と嘆願したことにより助命され、伊豆の蛭ヶ小島に流されることとなった。また義朝の愛妾常磐御前の子今若、乙若、牛若も助命された。

こうして、平治の乱は終わった。
後白河上皇は、信西と信頼という股肱の臣を二人も失った。
二条親政派の勝利である。
しかし後白河上皇は、表向き平然としていた。信西殺害の首謀者は信頼でも、二条親政派の者達も信西殺害に加担している。しかしそのことは不問にされていた。
正月6日、後白河上皇は藤原顕長の屋敷に御幸し、桟敷から八条大路を見物した。
それを見た二条親政派の藤原経宗、藤原惟方は、桟敷に堀河にあった材木を外から打ち付けて見えなくするという嫌がらせを行った。
後白河上皇は激怒し、経宗、惟方の捕縛を命じた。
清盛の郎党の伊藤忠清と源為長が経宗と惟方を捕縛し、後白河の面前に引き出し拷問にかけた。
貴族への拷問は免除されるのが慣例であり、二人への拷問はよほど異例のことだった。
2月22日には信西の子息達が亰に戻ることを許された。そして3月11日、経宗が阿波へ、惟方が長門へと流された。
6月には信西の首を取った源光保とその子の光宗が薩摩に流され、14日に殺害された。
このようにして、信西殺害に関わった者達は、後白河院政派、二条親政派を問わず政界から一掃されたのである。
後白河上皇は不機嫌だった。
(信西を牽制して、このようなことにならぬようにするのが信頼登用の狙いだったのに……)
平氏は、平治の乱の功績により、頼盛が尾張守、重盛が伊予守、宗盛が遠江守、教盛が越中守、経盛が伊賀守に任じられ、平氏の知行国は5ヶ国から7ヶ国に増えていた。
(まだ平家はそれほど地位を得ていないから良いものの……)
後白河院政派にも、二条親政派にも粒選りの人材がいないのである。
(しかも武力を持っているのは平家だけじゃ。余も帝も、互いを牽制するのに平家を利用せねばならぬじゃろう)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?