清和源氏の興亡②

安倍氏は、蝦夷の俘囚である。
俘囚とは、朝廷による蝦夷征伐の後、朝廷の支配に従うようになった者達である。
安倍氏がどういう出自であるのか、中央豪族で、崇神天皇の叔父の大彦命の後裔の安倍氏の一族であるとか、神武天皇と争った長髄彦の兄、安日彦の子孫だとする説もあるが、定説はない。なお、元内閣総理大臣の安倍晋三氏は、前九年の役の反乱の首謀者、安倍貞任の弟宗任の子孫であると称している。
安倍氏は、元からの奥州の豪族だろう。
安倍氏は、俘囚長として奥六郡を支配していた。奥六郡とは、胆沢郡、江刺郡、岩手郡、和賀郡、稗貫郡、紫波郡の六郡である。
坂上田村麻呂は胆沢城を造営し、鎮守府を多賀城から胆沢城に移転している。平安前期に積極的だった朝廷の奥州支配も、時代を経るに連れて形骸化し、貢納を条件に、奥州支配を俘囚による間接統治に切り替えたらしい。
安倍氏は朝廷から「六箇郡の司」という地位を与えられた。
長元9年(1036年)、宮廷貴族の平範国は日記『範国記』に、11月22日に安倍忠好が陸奥権守に任じられたと記している。この安倍忠好が、安倍頼良の父の安倍忠良ではないかと言われている。
京の貴族の日記に名前が載るところから、安倍氏は元は中央貴族だったという説があるが、しかしわずか10年ちょっとで、元中央貴族が奥六郡を制するようになるとは考えにくい。たまたま名前の読みが、安倍忠良と同じだったと思われる。
永承6年(1051年)、朝廷への貢納を怠っていた安倍氏が、衣川以南へと進出してきた。
陸奥守の藤原登任(ふじわらのなりとう)は、安倍氏を懲らしめるために数千の兵を率いて奥六郡に進出した。
鬼切部(宮城県大崎市鬼首)で戦闘になった。しかし登任は安倍氏に敗れ、登任は陸奥守を更迭され、源頼義が後任の陸奥守となった。
赴任した頼義が戦闘に及ぼうとしたところ、朝廷から大赦の令が下った。
後冷泉天皇の祖母上東門院(藤原道長の長女藤原彰子)の病気快癒を願っての大赦ということである。
これを伝え聞いた安倍頼良は、朝廷に帰順した。
頼良は頼義を饗応し、自らの名が「よりよし」と頼義と同じ読みなのを遠慮し、名を頼時と改めた。
天喜元年(1053年)、頼義は鎮守府将軍に任じられた。
天喜4年(1056年)2月、頼義の陸奥守の任期の終わりが近い頃、頼義は胆沢城から多賀城への帰りの道を進んでいた。
胆沢城は安倍氏の管轄のはずだが、何の用事があったのだろう?
『陸奥話記』によると、安倍頼時はこの時期に、頼義を饗応したとある。だから頼義は、胆沢城で饗応されたのかもしれない。
頼義は、多賀城に帰る途中、阿久利川で夜営した。
ところがここに注進が入った。
頼義の部下の藤原光貞と藤原元貞が夜襲を受けて、人馬に被害が出たというのである。
頼義は光貞を呼んだ。
「犯人に心当たりはないか?」頼義は尋ねた。
光貞は答えた。
「安倍頼時の嫡男、貞任が私の妹を妻にしたいと申しました。私は『妹は賎しい俘囚に嫁にはやれぬ』と申しました。それを恨んで貞任が襲撃してきたに違いありませぬ」
頼義は、安倍貞任を出頭させるように頼時に命じた。しかし頼時は、
「人倫の世にあるは、皆妻子のためなり。貞任愚かなりといえども、父子の愛は棄て忘るることあたわず」
と言って拒否し、衣川関を閉ざした。

この阿久利川事件は、頼義が安倍氏と戦争をするために仕掛けた陰謀だとする説がある。
そうかもしれない。
胆沢城が安倍氏の勢力圏内である以上、頼義はみだりにその勢力圏内に入るべきではないのである。
だから「頼時は頼義を饗応した」とあるが、胆沢城で饗応したとは書いていない。
そして頼時が頼義を饗応したとと述べているのが『陸奥話記』である。
『陸奥話記』は軍記物だが、源氏を中心に描かれており、源氏の意向を受けて書かれたとする説が有力である。つまりこの点、源氏向けの作り話が可能な作品である。
だから、頼義は饗応のために胆沢城に呼ばれたのではなく、頼義が示威行為で、軍勢を率いて安倍の勢力圏に侵入していたと考えることもできる。
また安倍氏側は、この1年後の黄海の戦いまで、積極的な攻撃は仕掛けておらず、防戦に徹していた。
さらに安倍貞任の弟の宗任の証言が『今昔物語集』に掲載されているが、阿久利川事件については全く言及されていない。
もっとも、『今昔物語集』のような説話集は、は多くの要人の冤罪を晴らすために書かれている。例えば安和の変の源高明の失脚は、謀反ではなくただの左遷であると、様々な暗示を踏まえて証言している。また『今昔物語集』より前に成立した『日本霊異記』では、長屋王が長屋親王だったこと、左大臣でなく太政大臣だったこと、そして冤罪だったことが書かれている。
その『今昔物語集』に阿久利川事件の記載がないということは、安倍氏を弁護できなかったために、敢えて阿久利川事件には触れなかったのではないかと考えられる。

これは、安倍氏の素性にも関わることである。
安倍氏の出自に様々な説がありながら定説が見出だせないのは、不思議なことではない。大抵の地方豪族は、嘘の出自を名乗っているからである。
多くの地方豪族は、元は平民もしくは賤民であり、中央の貴族に仕えて、その働きにより一族に加えてもらった。しかし系図によって先祖の名前が違ったり、先祖の名前が数代空白になっていたりして、何かあればいつでも、地方豪族は系図から外されるように細工されていた。
安倍氏は、大和時代の将軍阿倍比羅夫の後裔であるという説もある。安倍貞任の子孫を称する安東氏の系図で、早くとも鎌倉時代の系図である。
阿倍比羅夫の蝦夷征伐の時に服属した俘囚が、中央の安倍氏から安倍の姓を賜ったと考えることは充分に可能である。しかし反乱により、奥州の安倍氏は中央の安倍氏の系図から外されたと考えることができる。先の『範国記』の安倍忠好も、字を変えることで「別人である」と言えるように細工されていたのだろう。
そして中央から見放された安倍氏を、『今昔物語集』では擁護できなかった。そのためせめて、阿久利川事件について述べないことで、源氏の味方をしない形で無言の抗議をしたという可能性はある。
頼義は、急遽陸奥守に就任したことで、奥州に源氏の勢力を扶植できると喜んでいたのかもしれない。平忠常の乱で関東に勢力を広めた頼義は、敵がどれだけ勇猛でも恐れる必要はなかった。
しかし大赦の布告により停戦となり、頼義は安倍氏がぼろを出すのを期待していたが、陸奥守の任期が終わりに近づき、焦った頼義は挑発行為を行い、それでも乗ってこない安倍氏に無実の罪を着せたのではないか?

朝廷は、頼義に頼時追討の宣旨を下した。
ここで、藤原経清が登場する。
経清の経歴は、少々複雑である。
経清は最初、頼義の弟の頼清の郎従で、この約10年前の長久年間(1040年~1044年)に、頼清が陸奥守として下向した時に頼清に従い、亘理郡を拝領したという。
そしてこの地で、安倍頼時の娘有加一乃未陪(ありかいちのまえ)を妻にしている。
そのような経緯から、先の鬼切部の戦いでは、経清は安倍について戦った。そして頼時が帰順すると、経清は頼義に臣従した。
頼時が頼義の要求を拒否しても、経清は頼義に従っていた。
しかし、ここで事件が起こる。
平永衡という武士がいた。
経清と似たような経歴で、頼義の前任の陸奥守の藤原登任に従って奥州に下向し、経清同様頼時の娘、中加一乃未陪を妻とした。
つまり、経清とは相婿となる。
この永衡も、経清同様、頼義に従い頼時を攻めていた。
ところが、永衡は実にきらびやかな銀色の兜を被っていた。
その銀色の兜が、陽光を浴びてきらきらと光る。
ばかな話で、この輝く兜を、敵への通牒ではないかと、頼義に密告する者がいた。
頼義はそれを信じ、永衡を殺した。
前九年の役は、源氏の者達の、奥州の俘囚への差別が至るところに垣間見える。元が中央の貴族でも、俘囚の娘を妻にしたとなれば俘囚同然に見下す。
しかも、元々頼義は、安倍氏に対し後ろ暗いのだろう。
良心の呵責に差別心が加わると、はたから見れば馬鹿げたこともしてしまうものである。頼義は苦労人だが、その苦労は頼義の精神を成長させなかったらしい。
永衡の相婿である経清は、
(ここにいれば、自分も殺される)
と思った。当然だろう。経清は、
「多賀城が襲われている」
という、嘘の情報を流した。
驚いた頼義は、多賀城へと引き返した。
経清は隙を見て、こっそり800の兵を引き抜いて北上し、頼時の下に参じた。
この藤原経清が、奥州藤原氏の初代、藤原清衡の父である。

戦線は、膠着した。
頼義は、有力な幕僚に去られた。
しかも兵800を奪われたのは痛い。
頼義にとっての朗報は、後任の陸奥守の藤原良綱が、奥州の争乱を伝え聞いて任地へ赴くのを恐れ、逃亡してしまったことである。おかげで頼義の陸奥守留任が決まった。
戦局は一進一退となったが、頼義には心強い味方がいた。
名を、金為時(こんのためとき)という。陸奥の在庁官人の一人である。
藤原経清や平永衡同様、安倍氏と姻戚関係があったらしい。
しかし為時は、よほど質朴な性質なのか、奥州で反源氏、反朝廷の気運が高まっても、頼義に従い、離れなかった。
為時は退却の時は、常に殿(しんがり)を務め、敵の猛攻を良く防いだ。また夏が過ぎ、冬になっても、厳冬の中良く見回りをし、敵が来れば勇んで戦った。
質朴なだけでなく、世辞にも長けた人物だったらしい。

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