一領具足⑧

天正6年(1578円)元親は讃岐に入った。

元親は藤目城が落とし、斉藤師郷が降伏した。本篠城も落ち、城主の財田常久は城を枕に討ち死。次に九十九城を攻め、城主の細川氏政は逃亡。仁尾城主細川頼弘、天神山城主吉田兼久も討ち死。怒涛のような猛攻である。

「我らと手を組まれよ、共に長宗我部と戦うべし」

と、十河存保から再三使いが来たが、信景は黙殺した。

信景は、元親にされるがままにされている。

かといって、信景がただ勢いに飲まれているということではない。

信景は、時勢を観望している。

(遠くないうちに、織田家が四国にやってくる)というのが、信景の味方である。だから同じ織田家寄りの元親に攻められても、毛利方の三好と手を組むことができない。

むしろ、信景はここで、織田方としての節を見せることで、将来信長が四国に討ち入った際、自分の立場を有利なものにしようとしていた。

(必ず元親から、和睦の使者が来る)と、信景は思っていたのである。

(やるな、香川信景)

元親としても、同じ織田方の信景と徹底的に戦うのは、信長への聞こえが良くない。

元親は慎重だった。交渉は、いろんな手蔓から、直接交渉でない形でした方がいい。

元親は信景の弟、香川景全の家老香川備前の元に大西頼包を、また降伏してきたばかり斉藤師郷からも使者を送った。

配慮が行き届いているのは、斉藤師郷の使者が土佐国分寺の僧であることである。この僧が元親側の代弁者であるのはもちろんだが、僧であることで中立の匂いを出し、しかも師郷の使者であることで香川家の立場にも立っているという仕組みである。

大西頼包もまた、最近元親に臣従しただけに、降伏する側の立場に立ちやすい。

香川景全の家老に使者を送ったのも、細かい配慮があってのことである。

香川信景には男子がいない。

自然、弟の景全の子を養子にするかという話になっているが、信景は煮えきらず、後継者は決まっていない。

長宗我部側からの申し出は、

「元親の三男の親和を信景の娘と娶せて、婿養子にする」

というものだった。

内容が内容だけに、景全が反対すれば和議はならず、また景全から信景に話をすれば話はスムーズに進む。

その話も景全に直接には言いにくいので、景全の家老に話したのである。

話は信景まで届いた。

「和議を受け入れよう」

ということになった。

話は進んで、香川家の家老四人のうち二人を、交代で土佐に人質に取ることになり、その代わり、元親が落とした諸城は香川家に返還された。

こうして、西讃地方を元親は手に入れた。

信景は岡豊城で、元親に謁見した。

元親は、長光の太刀と二字国俊の刀を信景に与え、5日に渡って饗応した。

「それがし、讃州を阿州のようにしたくはござらぬ」

と、信景は言った。

元親には、信景の気持ちがわかった。

阿波は下剋上が多すぎて、暗殺などが頻繁に起こっている。

信景は元親に、讃岐に秩序をもたらすことを望んでいるのである。

(その下剋上の元締めが儂なのだがな)

元親は思ったが、

「任されよ。共に手を携えてやっていこうぞ」

臣従したとはいえ、元親はこの讃岐の大豪族に対し、あくまで丁重な言葉を使った。

「なにとぞ、よしなに」

信景は元親に深々と頭を下げた。

信景はこの後、元親の四国平定の道を共に歩むことになる。

信景の香川家は、豊臣秀吉の四国征伐の後、秀吉によって改易された。織田方として元親の傘下に入ったのが、元親の浮沈と運命を共にしたことになる。


香川信景が元親に臣従すると、三好康長の子の三好康俊が降伏してきた。

三好康俊は、父の三好康長が信長に降伏して畿内の方に移ると、阿波での居城勝瑞城と岩倉城の城主となった。

阿波国に脇城という城があるが、脇城は岩倉城と共に、西阿波を治める要だった。

脇城主は武田信顕といい、実は武田信玄の弟である。

信玄の父信虎が甲斐を追放され、駿河に滞在していた時に生まれた子で、三好長治や十河存保の祖父の三好長慶に招かれて、脇城を預けられた。三好長慶としては、遠い甲斐の地にいる武田信玄とよしみを通じておきたかったのかもしれない。

しかし何といっても、三好家の中では外様な訳で、毛利と通じた三好家としては、武田信顕が信長に寝返るのを警戒して、三好家重臣の三好越後守、矢野国村、川島惟忠らを目付として脇城に詰めさせていた。

織田方であることをより鮮明にしたい康俊は、今や四国で最大の勢力である元親に近づこうと画策した。

そして康俊は、三好の重臣四人を脇城内で殺してしまったのである。

そして嫡子の俊長と、家老の大島丹波の子の利忠を人質として、元親の元に送ってきた。

こうして元親は、阿波も約半分を支配するようになった。

(追い風になった)

と、元親は思った。

元白地城主の大西覚養は密かに阿波に戻り、重清城主で娘婿の重清長政を頼っていたが、形勢を見て、元親に降伏しようと思って長政を口説いた。しかし長政に拒否され、覚養は長政を謀殺した。

覚養は重清城を手土産に、元親に帰参を請うた。

(覚養め、弟の真似をするが品がないわ)

元親は苦々しかったが、覚養に重清城を預けた。

(四国を覆う蓋になると言ったが、四国しか見えぬようになっている気がするのう)

大西覚養は、それまでに何度も人を裏切っていること、その上さらにまた娘婿を裏切って重清城を奪ったことで、さすがに城内の信望を得ることができなかった。

十河存保が攻めてくると、重清城はひとたまりもなく、覚養は戦死し、重清城は存保の手に落ちた。

元親は兵を出し、存保を散々に打ち破って重清城を奪い返した。


讃岐の香西佳清は、元親の讃岐への進出を警戒して、藤尾山に城を築いて、そこに本拠を移していた。

その頃、讃岐の香西佳清は、妻を離縁していた。

四国全体が織田につくか毛利につくか、織田方なら長宗我部につくか敵対するかで揺れている時に、離婚という波風さえも大波となって家を揺らすものらしい。

この離婚により、羽床資載が離反していくさになり、さらに家督相続を巡っての争いが起こった。

佳清も香川信景同様男子がおらず、そのため後継者を巡って争っていた。

もっとも佳清はまだ30前の若さで、慌てて後継者を立てなければならないほどではない。しかしそれでも、香西家中は2つに割れていた。

元親は、織田方である香西氏に手は出せない。その代わり、反佳清派を多少なりとも炊きつけていた。

佳清の弟の千虎丸を押しているのが、同族の香西清長で、清長の嫡子の清正は、佳清派の新居資教、植松資正を殺害してしまった。

(信景の危惧した通りじゃ、これも下剋上の気運か)

すると植松一族が報復に出て、清長父子は毛利を頼って備前に逃亡した。


元親は、伊予には手が回らないので、家老の久武親信を軍代として派遣していた。

親信をこの2年間、川原崎氏を討つなど、よくやっていた。

しかし宇和郡岡本城を攻めた時のことである。親信は7000もの大軍を与えられていた。

「城方の土居勢は震え上がっている」

という噂を聞いて、長宗我部勢は意気上がっていた。

「まだ城を落とした訳ではない。気を引き締めろ!」

親信はそう言って、岡本城を囲んだ。

(土居勢の気勢が上がっていない)

親信はそう見た。城方の守りの気分が弱い。

「それ!一気に攻め落とせ!」

親信が下知をすると、長宗我部勢は総掛かりになって、天を突かん勢いで城に取り付いた。

その時、後方の林から土居勢500がなだれ込んできた。

その時わっと大手門から出てきた城方の兵500により、長宗我部勢の本陣は大混乱となり。久武親信と1500の首が取られた。

(伊予の方を立て直さねば)

元親は親信の弟の親直を軍代にして、伊予侵攻を継続させた。

久武親直の率いる軍は、土佐から北上している。元親は親直に、南予から東予に転進させた。

その上で、東予地方の金子元宅や妻鳥友春、石川勝重に調略を行った。

彼ら、東予の豪族達は迷った。

一方、伊予の早川城主の秦備前守元宗は、元親の長宗我部家と同じ秦氏で、その縁でかねてから親交があった。

大きい豪族ではないが、その温厚な人柄で、近隣の豪族達ともうまくやっていた。その秦元宗が、

「宮内小輔殿(元親)におつきなされ」

と、東予の豪族達に説いて回った。

「備前殿が申されるならば」

と、東予の豪族達は元親に降った。

後に、秦元宗は元親から長宗我部の姓を与えられた。

西予では、毛利氏が河野氏を応援しているため、簡単に抜くことができなかった。


天正七年6月、明智光秀は丹波八上城を攻略した。

9月、羽柴秀吉は備前の宇喜多直家を調略し、信長に報告したところ、「自分に伺いを立てずに調略するとはけしからん」と、秀吉を叱責した。

また、荒木村重が居城の伊丹城を脱出し、尼崎城に移った。

10月、徳川家康の嫡男信康が、武田と通謀したという疑いで切腹させられた。

11月119日、荒木村重の家臣達が妻子を伊丹城に置いたまま、伊丹城を脱出し尼崎城の村重のところに行った。家臣達は村重に降伏を進めたが、村重は首を縦に振らなかった。

12月13日から16日にかけて、村重とその家臣の妻子500人が処刑された。

荒木村重は花隈城に逃れ、最後には毛利氏を頼って落ち延びた。

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